31.是は播磨の月雲抄
如月は、山の中で立ち竦んでいた。
――お役目を果たせなかった。
月雲は、黄泉の竈の飯を与え、亡者を冥府の入り口に案内するのが仕事である。
死ぬはずの子供を助けてしまった。
死なすことはできたはずだ。
見つけた子供を放っておけば、イチイの種を飲み込ませれば、道を外れて迷わせていれば。
しかし結局殺せなかった。
月雲に対する呪詛への怯えか、人の近くに居すぎて、生をよしとする気質にあてられたのか、如月自身も分からなかった。
ただ、自分がお役目に背いた事実に、絶望して膝をついた。
「我ら……」
――月雲でないなら、俺は何だ。
「俺は……」
手で顔を覆うと、額に何かの突起が触れた。
慌てて撫でまわすと、顔に複数の突起が現れている。
「……嫌だ……」
触っただけではただ埋まっている半球。
しかし恐らく複眼が8つ。
「嫌だ……」
蜘蛛の目である。
「嫌だ……兄……助けて……」
頼りの兄達ももう居ない。
月雲の兄弟も誰も居ない。
月の無い晩の山の中より暗い場所。
見えない呪詛だけが、音もたてずに動いている。
うわ言のように助けを呼び続けていた。
「嫌だ……嫌だ……助けて……汝兄……汝兄……」
「呼んだかーーーー!!!?」
飛び込んできたのは火の玉である。
辺りが焚火に照らされたように明るくなった。闇に山の木の陰が見える。
「如月! 迷子か!? 泣いてるのか!?」
一つ火である。
「うお!? なんだそれ!?」
「!」
如月が見られた事に怯えた。拒絶されることを恐れたのだった。
「おできか!? 痛いか!? 道満に見せるぞ!
どーーーーまーーーーん!!!」
「俺は 如月……」
如月は息を一つ吸う。
「……一つ火兄……」
まだ喋れる。意識もある。
「道満に 根の国に 送ってほしいと 伝えてくれ」
「どうした 如月 どこか行きたいのか? 医者か?」
見た目には何の変化もないが、如月はもう動けなかった。
蜘蛛鬼が、人が牙の届く場所に来るのを、身を潜めて待っている。
遠くに道満の姿が見えると、一つ火はそちらに飛んでいった。
如月から、道満が足早にこちらに向かってくるのが見える。
道満は腕の立つ陰陽師だ。
――ああ あの陰陽師は 清明は
――蜘蛛鬼が現れても 討伐できる者に 託したのだな
十分に近づいたところで、如月の顔がひきつった笑いを浮かべる。
一瞬で大顎が広がり、目の前の陰陽師の首を落そうと飛びかかった。
「ふんっ!!」
「っ!?」
如月は額に強い痛みを覚えた。
道満が繰り出したのは蜘蛛鬼の咬みつきに合わせた頭突きである。およそ陰陽術ではない。肉弾戦、物理である。
しかし如月は何故か額の痛みから、徐々に感覚が戻ってきた。
気合に押されて、呪詛が綻びたのである。
そして道満は如月の胸ぐらをつかむ。
「しっかりしろ! お前は月雲! 土蜘蛛じゃあない!!」
呪われ禁忌になっていた、一族の名を聞いて肌が粟立つ。
しかし逆に、呪っているはずの呪縛が緩んだ。
はっきり正しい名を呼ばれ、呪いが弾かれつつあるのだ。
「名なんぞ無くても! お前はお前だ!」
言い聞かされる内に、まとわりついた呪縛が剥がれ落ちていく。
空に月の光が戻り。森に風の音が戻っていた。
「えー傷薬傷薬」
「多分 オデキだぞ 俺見たぞ」
頭突きされた如月の額。痕が軽い潰瘍のようになっていた。蜘蛛鬼の目が潰れたのかもしれない。
如月自身はすぐに治ると断ったのだが、家の部屋の隅の棚から傷薬を探している所である。
「お、傷薬だ」
道満が止まる。
「治療用の呪が掛かってるな」
危ない危ないと横に避ける。
結局、如月は断固として傷薬を塗らなかった。
いつもの事である。
それからしばらく経ったある日の事。
向こうの山のふもとのおじじが、風邪をこじらせて亡くなった。
道満がちょくちょく診ていた老人である。
老人の家で上げている道満の読経を遠くに聞きながら、如月はその近所に居た。
老人と二人、岩の上に腰を掛けて、日向ぼっこの様子である。
「ああ、あなた道満さんのとこの」
「見えてたのか」
「たまにね。老い先短かったからね」
カラカラと笑う老人に、如月は野草茶を勧めた。
道満から大丈夫だから飲めと言われ、渋々飲んでみたものである。
呪が掛かっていなくても、毒にも薬にもならなくても、味が付いているだけで、少し気分も華やぐものだと渡された。
存外気に入っている。
ああこの茶やっぱりおいしいね。と、飲み干した老人が席を立つ。
道満さんをよろしく頼むよあの人どこか抜けてるから。と言い置いて、老人は霧の向こうに消えた。
如月は一人青空を見上げた。
寒空に、薄くたなびく雲の上、白い月が浮かんでいる。
是も一つの月雲抄
先は暗いが月も昇る
是は播磨の月雲抄
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完




