ただいま!の初異世界で、待っていたのは婚約者でした
「おはようございます」
「おはよう。来ると思ってたよ」
梅雨の晴れ間。杏奈は愛犬のリツと自宅近くにあるドッグランへ出掛けた。アクセスもよく出来たばかりのそこは、愛犬家たちにとって、すっかり交流の場となっている。
「あれ? どうしたの」
リードを外されたリツは杏奈の足元をうろうろしている。いつもなら、すでに駆け出しているところ。予想外の行動に首を傾げていると、リツが地面へかぶりついた。
「え。なに食べた!?」
慌てて口を開こうとするとリツは自ら口を開け、ぽとっと地面になにかを落とす。目で追った先には石が一つ。拾い上げ、どの角度から見てもただの石のようだ。とにかく--誤って飲み込まなくてよかったと杏奈は胸を撫で下ろした。途端、目の前が真っ暗になる。
「ワン!」
大きなリレーフのある金色の壁、つるんとした冷たい大理石のような床。杏奈は目の前に現れた景色を前にし上目遣いに様子を窺う。
「ワン!」
リツの鳴き声が部屋中に響く。杏奈は腕を伸ばし顎の下や背中を撫でる。
「大丈夫。大丈夫だよ」
まるで自分に言い聞かせるように繰り返していると、カツッカツッ、カツッカツッと急く足音が近づいてきた。
「杏奈。来ていたか」
耳慣れた声に振り向くと、見知らぬ顔に紛れ両親の姿がある。
「お父さん、お母さん、どうして。ここは」
「帰って来たのよ。杏奈が生まれた本当の世界は、ここなの」
本当の世界? 母の言葉は杏奈にとって意味不明だ。しかし母は冗談を言うような人ではないことを杏奈はよく知っている。まさかを拭いきれぬまま、杏奈はごくりと息を呑む。訪れた静けさの中、カツッカツッ、カツッカツッと急く足音がまた近づいてきた。
「石が戻ってきた!」
重厚なドアが勢いよく開くと、低い声が響く。入ってきたのは、目鼻立ちの整った背の高い男。皆が一斉に跪く。杏奈は見様見真似でそれに倣った。
「見ろ。石が戻っ……赤い。石が赤くなっている。先程までは、そんな」
声にならないどよめきが走った。次第に、周囲は杏奈へ顔を向ける。訳がわからない--逃げるように杏奈は視線を床に落とした。騒々しさを尻目にリツは辺りを歩きだす。
「--もしかして。アンナ?」
男が一歩、二歩と距離を縮めるので、杏奈は一歩、二歩と後退りをする。
「陛下。ご遠慮ください。娘が怯えています」
父の言葉に男が立ち止まった。
「本日は失礼させていただきます。娘を休ませたい」
「ああ。そうだな……」
両親は杏奈とリツを連れ、即座に部屋を出た。目の前には真っ赤な床にクリーム色の壁。金色に装飾された大きな柱は、左右対称に幾つも並んでいる。初めての場所にリツは真っ直ぐ歩かない。左右に行ったり来たり、急に立ち止まったり--見かねた杏奈はリツを抱き上げた。外へ出て別棟へ移る。廊下を進むと階段を上がった。
「このフロアが我が家だ」
ドアが開くと、杏奈はリツを下ろす。まるでマンションの一室のようだ。ふと壁に貼られた地図を見ると地球とは全く違う地形が描かれている。
「ここが杏奈の部屋よ」
杏奈が寝起きしていた部屋は淡い水色とピンクの壁紙でできていた。柔らかな白色の家具、並べられた絵本といくつかのぬいぐるみ。クンクンと鼻を鳴らながら部屋へ入ったリツは、一つのぬいぐるみを咥えると機嫌よく振り回した。
「あっ、それ。お気に入りなのに」
ついて出た言葉に杏奈は自分で驚く。懐かしさを微塵も感じない部屋。
「杏奈。話がある」
「喉が渇いたでしょ? お茶を淹れるわね」
リビングへ向かう両親を尻目に、杏奈は十分なサイズのベッドに腰掛けてみる。なにか知っているものはないかと部屋を見渡していると、入り口に人影が見えた。
「さっきの」
「ウィルベアクス」
「ウィルベアクス?」
「そうだ。アンナは俺を覚えてない? 一緒に城内を探検したこととか。 俺の部屋で昼寝をしていたとか」
全く知らない話に杏奈は愛想笑いを浮かべる。
「先触れもなしとは如何なものか」
杏奈が初めて聞く父の声。青筋を立て、ウィルベアクスの背中を睨むように立っている。
「すまん」
ウィルベアクスは両手を上げると、あっさり踵を返した。
「ウィルベアクスって偉い人じゃなかったっけ? あんな扱いしていいの?」
「国で一番偉いよ。だが、杏奈に関しては父さんや母さんの方が偉い。さあ、お茶が冷めてしまう」
父に促され、母の待つリビングへ行く。テーブルの上には小さなバラの蕾が並んだ白いティーカップが三つ置かれていた。部屋の隅ではリツが体を横にしている。杏奈は、番犬には程遠いな、と呟いた。
「すまなかった」
お茶を一口飲み、クッキーに手を伸ばしたとき、両親は頭を下げた。
十四年前の夜。王家の品が盗まれる事件があった。幸い犯人はすぐ捕まった。が、盗まれた品は見つからなかった。
「犯人は捨てた……川に捨てたと供述した。それが問題だった。あまり詳しく話せないが。捨てたという川には他の世界と繋がる歪みの渦がある」
王城に勤め、現物を見たことのある父が捜索に任命されることとなった。幼い娘と父親がいつ再会できるか分からないなんて耐えられないと母は同行することを決めたという。
「振り回してごめんね、杏奈」
事実。北から南、杏奈たちは転々としていた。転勤族というクラスメイトより早いペースで転校を繰り返していたことを杏奈は今思い出す。
「突然こちらに戻され驚いたが、杏奈が残されていなくてよかった」
「不安にさせてごめんなさい。無事でよかった」
頭を下げてばかりの両親に、気にしないでいいと杏奈は笑ってみせる。次の引っ越しも決まっていた。リツも一緒に帰ってこれた。
トン、トン、トン
「失礼します。お食事をお持ちしました」
母より少し年上のような女性は、黒のワンピースに白のエプロンを着けている。
「疲れたでしょ。少し早いけれど、食べたら今日はもう休みましょう」
ワゴンの上で漂う温かな湯気の香りに、杏奈は空腹を覚えた。リツはむくっと起き上がり、テーブルの下で尻尾をゆらゆらさせる。
しっかり湯船に浸かった後、杏奈は横になった。どれくらい経っただろう。心地よい微睡みの中、天井絵が星空のようで--杏奈は慌てて起き上がる。天井に絵はなかったはず。
「起きちゃったか」
僅かな衣擦れと漏れた声。視線を移せばベッドの真横を陣取った椅子に、ウィルベアクスの姿がある。
「ど、どうして、ここに」
「俺の部屋だから。この星空、好きだったよね」
ウィルベアクスの後ろには模様の入った深緑色の壁が見える。杏奈はベッドから降りようとすると、片手で制止された。微笑を浮かべるウィルベアクスに、引きずった笑みを返す。
「すっかり魔法は解けたようだね」
「魔法?」
「認識阻害の魔法。あちらの世界にいる間、アンナたちは、お互い違う姿を見ていたんだよ」
杏奈は友人たちの、友人は杏奈たちの本当の姿がわからないという。世界が違うなら、仕方がないのかもしれない--杏奈は深いため息を漏らす。
「魔法って誰もが使えるの?」
「今は王族くらいだな。国が栄えるほど血は薄れていき、使える魔法も限られてきたからね」
「そっか」
王族の魔法を必要とする仕事は断れないだろう。父親と離れ離れになるか、仮の生活を送るか。今の杏奈には選べそうにない。
「綺麗になったね」
ウィルベアクスが髪に触れ、杏奈の肩はびくりと跳ねた。
「本当に俺を忘れちゃった?」
ウィルベアクスは顔を覗き込む。杏奈は首をこくこくと縦に振る。
「そうだ。あそこを見てごらん」
黒色のチェストの横。澄まし顔で立っている男の子と女の子の絵が飾られている。
「もしかして私?」
「アンナだよ。俺とアンナ」
「ウィルベアクスと私……」
ドンドンドンドン--
割れるような轟きを背中で受け、振り返ると開いたドアを叩き続けている父がいる。杏奈は反射的にベッドから飛び出した。
「謝りませんよ。陛下、適正な距離を保ってください」
「今や妃も同然なんだ。問題はない」
「話にならないですね。杏奈! 不可抗力とはいえ、これは看過できないぞ。恋愛は、いつか誰かと結婚してからにしなさい」
「なんでそんな話になるの。というか、結婚してから恋愛って順番おかしい」
「おかしくない」
「えーっ」
「陛下。これは杏奈の醜聞に関わります。百歩譲っても娘はまだ未成年です」
「十七歳と聞いたが?」
「あちらは十八歳から成人でした。今更こちらの事情に合わせるつもりはありません」
「結婚は出来るけど」
「ぐっごぉほん」
杏奈の真っ当な呟きに、父は慌てて咳払いをする。
「一年後か。婚礼準備を進めるには丁度いい」
声を弾ませるウィルベアクスに、そういう話をしているのではないと父は返す。父とウィルベアクスの火蓋は落とされた。どうしてウェルベアクスの結婚話なんてしているのだろう--ぼんやりと眺める杏奈は、帰りが遅いと心配してきた母と家路に着くこととなる。
「この石って何が凄いの?」
テーブルの上には真っ赤な石。煌々と輝く赤い光は、杏奈に近づけるほどその色を深くさせる。寝室に連れて行かれた翌日。朝食より早く、ウィルベアクスからお茶の誘いがきた。父は登城しているため、母と杏奈で出迎えた。ドアの開いた応接間にはウィルベアクスと杏奈の二人。テーブルを挟み座っている。
「アンナが俺の妃だと教えてくれている」
「より赤くなる人が妃とか ……もしかして。もともと赤くないとか?」
「そうだよ。赤くなるのは真の王妃の前だけだ」
「真の王妃? なにそれ」
「当代の国母に相応しく王に愛される者」
「それが私?」
求められる責任と受け取る愛情の重さに杏奈は唖然とする。
「この国は石を使って妃を決めているの?」
「昔はね。もう何代も前から仕舞ったままだよ。石で決めるっていうのは国を思えば一見最適なようだけど、なかなか問題もあるんだ。結婚相手が見つからないままだと世継ぎに影響が出て後継者争いが新たに生まれる。いつまでも赤いとは限らないし--政略結婚には不向きだからね」
妃の選定に半ば呆れたように話すウィルベアクスは、応接間に入ると開口一番、杏奈に敬語はやめてほしいと告げた。杏奈は拙い敬語を披露しなくて済むと安心したけれど、現在想像以上の気安さに面食っている。ウィルベアクスは曲がりなりにも王様だ。遠慮しすぎないように、それでいて失礼のないように。杏奈はスカートを握り締めていることに気づいていない。
「王侯貴族は今も昔も政略結婚が常だ。年頃の令嬢たちは厚い化粧に遠くからでも漂う香水。流行りのドレスを身に纏い、どこからでも現れる。野心か親に言われてか--俺にとっては同じだけど」
「……なんだかウィルベアクスって子どもみたいね。政略結婚って自由に恋愛できないってことでしょ。その中で彼女たちも頑張っているのに。なんで自分だけ被害者のように言うの?」
「え」
「ごめんなさい、なにもわからないくせに」
杏奈は息を止め顔を青くさせる。
「初めてだよ。そんなこと言われるの--今日はこれで失礼するね」
「はい……」
席を立つウィルベアクスに杏奈は立ち上がる。玄関までついていき背中を見送った。とぼとぼと歩く杏奈に母の呼びかけは耳に入らない。一人自室に戻りベッドに潜り仰向けになった。シーツから顔を出せば、クリーム色の天井が見えた。
帰った日から五日が経った。杏奈の一日はリツの散歩から始まる。朝食を食べると、午前中は歴史と文化を学び、昼食を挟んだ午後は、日本での勉強の続きが始まる。講師を買って出たのは母だ。学院ではなかなかの成績だったと自負する母は、日本の勉学に興味を持ち、杏奈の教科書や参考書を手にしていたという。テスト期間でもあまり机に着くことのなかった杏奈は、母親似ではなさそうだと改めて結論づけた。夕方はまたリツの散歩。異世界では特にすることがないと思っていた杏奈にとって、想定外の暮らしだ。
「あれ? ウィルベアクスって何歳?」
「二十歳」
「二十歳で王様。王様って、もっと年が上の人のイメージなんだよね」
「ああ。この国は成人と同時に継承するからね。前王が現役のままなら直接学べるし、周囲から侮られることも少ないから、ってまだ教えてもらってない?」
「うん。一人ぼっちで王様をするよりいいかもね」
「ははっ。それはそれでキツいんだけど。石を使って王妃を決めていた名残でもあるんだよ。石は王太子妃がわからないからね」
「その辺り本当に石中心だったんだね。先輩がいる王様……だからこんなに甘えん坊なのね」
「アンナ以外にはしないよ」
「あちこちでしていたら大問題よ」
ウィルベアクスは杏奈の横に座ると、疲れた、と言って寄りかかった。勿論ドアは開いている。
「心配?」
「だらしない王様と思われる」
「妬いてはくれないのか」
ウィルベアクスは頭を起こすと杏奈の頭をニ度叩き、立ち上がった。
「今日はこれで」
見送りはいらないと宣言したウィルベアクスは、振り返らずに帰っていく。
「毎日いらっしゃるのね」
誰とは言わない母の言葉に、杏奈は頷く。母はすっかり出迎えをやめた。
「暇なのかな」
リツを撫でながら杏奈は呟く。呆気にとられた母は注いでいたお茶を溢れさせてしまった。
「おっと」
ウィルベアクスが家に入った途端、珍しくリツが出迎えにきた。何かを探すようにウィルベアクスをしきりに嗅いでいる。
「目当てはこれだな」
紙包みを杏奈に手渡すとリツは狙いを杏奈に移した。目を爛々とさせ、はち切れんばかりに尻尾を振る。
「えっ、ちょっと、これ何が入ってるの?」
「干し肉」
ニヤリと笑うウィルベアクスは、いつもより年相応に見える。
「干し肉? うわー贅沢。よかったね、リツ」
くしゃくしゃと撫でるとリツの尻尾は一層激しくなる。杏奈に飛びかかり早くくれと催促する。
「これって何の味付けもされてないよね?」
「大丈夫だよ。リツのフードに混ざっているものと同じだから」
「あのフードに入ってるんだ。いつも凄い勢いで食べてると思ってたんだよね」
包みを開けると、一切れをウィルベアクスに渡す。
「なんで俺?」
「用意してくれたのはウィルベアクスだもん。ありがとう」
ウィルベアクスの顔が一瞬染まる。片手で一切れ受け取ると、リツの前でしゃがみ込んだ。
「うわっ」
勢いよく飛びつかれ、ウィルベアクスはバランスを崩した。あまりの驚きように杏奈は可笑しくなる。目に涙を溜め笑う杏奈に、ウィルベアクスも堪らず笑い出す。マテ! 状態のままとなったリツは杏奈とウィルベアクスを行ったり来たり--二人は顔を見合わせると、交互に干し肉をあげることにした。
「陛下との距離が近いようだが」
夕食の後、ソファーに移った杏奈に父が尋ねる。
「別に普通だよ。ウィルベアクスはもともとあんな感じでしょ」
ソファーに座り大きく伸びをした杏奈を、母が嗜める。
「きちんとしなさい」
「苦労するぞ」
付け加えた父に杏奈は口を尖らせる。このところ母は一段と厳しくなってきた。杏奈は不承不承座り直す。
「おはようございます」
折り目正しく侍女のロミーがやってきた。初日に食事を届けてくれた彼女は今、杏奈の身の回りの世話をしてくれている。
「陛下は夜会のため、本日はいらっしゃらないとのことです。大変残念そうになさっていたようですよ」
ドレスの後ろにあるリボンを結びながらロミーが話す。ここでの生活はドレスが基本。お姫様みたい! とコスプレ気分で着てみたものの、足捌きが難しく杏奈は歩くのもままならなかった。加えて、リツの散歩は自分が続けると言ったものだから、用意されるドレスは必然的にワンピースに近いものばかりとなっている。
「夜会って仮面舞踏会みたいな?」
「この国で仮面をつける夜会はございませんよ。それに、この夜会は姿を見せることに意味がありますから」
「そうなの?」
「ええ。趣旨は変わりましたが。陛下は皆さまの反応を、それは楽しみにしていらっしゃることでしょう」
キュッと結び終えると、ロミーは上機嫌にドレスのシワをチェックする。一人で着れなくはないと言っても、ロミーは私の仕事ですからと必ず手伝ってくれる。
「アンナ様は来年が大変でございますね」
「え?」
「誰よりも注目を集めますわ」
「……もしかして私も夜会に出るの?」
「もちろんです。では、失礼いたしますね」
ロミーは仕上がりに満足すると下がっていった。杏奈は後を追うように部屋を出るとリビングへ駆け出した。
「お父さーん! お母さーん!」
暗闇の中、杏奈は自室のバルコニーに出ると一人手摺りにもたれる。辺り一面の星空を霞める大きな城。いくつもの外灯と窓という窓から溢れ出る明かりが、嫌でも賑わいを感じさせる。ロミーは杏奈の髪を乾かしながら、夜中まで続くと教えてくれた。
「私も政略結婚なのかな」
朝、両親を問いただせば、あっさり貴族だと明かされた。父には、わざわざいう必要がないと言われ、母に至っては、勘が鈍い、と言われてしまう始末。
「アンナは政略結婚だな」
目の前に現れたウィルベアクスに杏奈は悲鳴を上げかける。
「こ、こ、ここ三階」
ウィルベアクスは、ふわりと手摺りを乗り越えると杏奈の横に着地した。
「まだ寝ていなかったんだね」
「子ども扱いしないで」
初めて目にする装いに、杏奈は改めてウィルベアクスの立場を理解する。前髪を後ろへ撫でつけマントを纏う姿は、気安いお兄さんではない。
「アンナ。なにか羽織っておいで、夜風はまだ冷えるから」
「入らないの?」
「折角のお誘いだけど。遠慮しておく」
「そう……」
杏奈は口ごもると部屋へ駆け込む。今まで家に上がっていたのは偶然かもしれない--深くため息を吐くと、杏奈はようやくストールを羽織る。政略結婚。ウィルベアクスの言葉が頭から離れない。貴族の娘なら当然のこと。杏奈は足取り重くバルコニーへ戻る。
「夜会は終わったの?」
「もう終わったようなものだよ」
「お疲れ様」
突如、背中にウィルベアクスの大きな手が触れ、そのままぐっと引き寄せられた。頬にウィルベアクスの温もりが伝わる。徐に顔を上げると視線が絡まり杏奈の心臓は大きく跳ねる。杏奈は瞬きを繰り返し見つめ続けることしかできない。
「一曲踊っていただけますか」
足一つ分後ろへ下がると、ウィルベアクスは右手を胸に当て頭を下げる。羽織ったストールが夜風になびいた。
「えっ。はい……。あの、まだ人と合わせたことがないんだけど」
「それは光栄だね」
杏奈は先週からダンスを習っている。母の手拍子に合わせてステップを踏む毎日。まさかウィルベアクスと踊ることになるとは想像もしていなかった。差し出された手に、恐る恐る手を重ねる。腰を抱かれ、杏奈の体は一層こわばった。手袋越しに伝わる熱に、さっきから落ち着かない。体を解すように少し指を曲げると長い指に包まれた。
「アンナの初めては、全部貰い受けるよ」
ウィルベアクスが足を踏み出した。ワルツだ。ゆったりとした優しい足取り。基本的なステップが続いていく。音楽も手拍子もない。静かな時間。小さな靴音がリズムを刻んでいく。
「わっ」
ふわっと体が宙に浮き着地する。ウィルベアクスは再び杏奈を抱き寄せた。咄嗟にジャケットの裾を掴む。
「楽しかったね、アンナ」
ウィルベアクスは目を細め、杏奈のつむじに唇を落とした。口を開けた杏奈はウィルベアクスを見上げる。
「い、いま」
真っ赤になった杏奈を残し、ウィルベアクスは手摺りを飛び越えた。慌てて見下ろすも姿はない。杏奈はふらふらと部屋へ戻る。ベッドに倒れ込むと頭に手を当てる。
庭へと続くアーチを杏奈はリツと歩いている。隙間から差し込む日差しは白く眩しい。リツを放していいと言われた庭は花壇より芝生が多く、時間帯がいいのか朝も夕も人に会うことはない。杏奈はいつも通りリードを外す。カチャッという音とともに、リツは走り出した。
「おはよう」
聞き覚えのある声に杏奈は首をすくめる。散歩中にウィルベアクスと会うのは初めてだ。
「おはよう--ございます」
リツが一目散にウィルベアクスへ駆け寄る。おやつを何度も持ってきたため、リツにとってウィルベアクスはもはや美味しいものをくれる人だ。
「ごめん、リツ。今は持ち合わせてないんだよ」
ウィルベアクスが両手を広げて見せる。リツはクンクンと手のひらを嗅ぐとあっさり走り去った。
「現金なんだから」
昨夜のことが頭にちらつく。杏奈は走り去ったリツから地面へと視線を移す。刈られたばかりの芝生は青々としている。
「アンナ」
ゆっくり願うように呼びかけられ、そろそろと頭を上げる。
「アンナ。好きだよ」
胸の奥でくすぶっていたものがすーっと溶け体中が熱くなる。手を頬に当て首を横に振っていると、大きな手がその手に重なった。
「どうして」
「杏奈と再会して嬉しかった。まるで離れていた妹が帰ってきたようで--でも気づいたんだ。俺が側にいたいのは妹じゃない、今のアンナなんだって」
「……石は赤いし」
「石と俺の気持ちは別問題だ。例えアンナの前で赤くならなくたって、俺はアンナがいい」
「でも。私は政略結婚するんでしょ。ウィルベアクスも。好きでいても虚しいだけだよ」
「……アンナ? それって。アンナが俺のことを好きってことだよね?」
「えっ。いや、その。ちょっと、わから、な、い、かも」
ウィルベアクスは杏奈の手を頬から離すと、右手の甲に口づけた。
「いい? アンナは貴族だ。しかもそれなりに上流のね。俺とアンナが結婚すれば、世間は政略結婚と思うだろ?」
「そういう--いや、信じない。いつもさっさと帰るくせに。ウィルベアクスが私を好きなんてない」
ウィルベアクスは目を丸くした。
「いつも離れ難いよ? 婚前どころか婚約前だから自制していたけれど。これって……我慢しなくてよかったのかな」
「そんなこと言ってないじゃない」
頬を染め涙を浮かべる杏奈はキッとウィルベアクスを見上げる。
「やっと見てくれた。忖度なく接してくれるアンナの無邪気さが好きだ。飾らない優しさをくれるアンナが好きだ。寂しかったり不安だったりするくせに、頑張って前向きに過ごしているアンナが好きだ」
ウィルベアクスが滲んできて、杏奈は柔らかな表情が見えない--信じてきたものが急に奪われた。きちんと別れもできなかった、会いたい友がいる。本当の姿を知られていない。戻ることのない世界。
「杏奈は王妃に必要な資質を持っていると思う。でも俺の前では弱音を吐いていい」
ウィルベアクスは杏奈の頬を伝う涙を親指で拭う。杏奈はウィルベアクスの背に勢いよく腕を回した。
「会えてよかった」
ドスッ
抱き返したウィルベアクスの膝に、なにかがぶつかった。
「リツ!?」
「あっ。ごめんね、リツ」
「一緒に散歩の続きをしようか」
リツの後ろを二人は並んで歩き出す。ウィルベアクスが杏奈の手を捕らえたとき、リツは振り返り、ワン、と吠えた。