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「せんせい、どこ?」
私に背中を向けたまま、珠理が虚空に手を伸ばした。大きな眼が、見えもしないはずなのにぎょろりと動く。
「ここにいるよ」
私よりも大きくなった体を折り曲げて珠理は私の方を窺う。
血管の浮き出た老婆のような首には、引っ掻き傷がのたくった様に浮かんでいた。真っ白なドレスの奥にはどす黒く変色した大きな痣が二つ、頸椎から腰まで左右対称に広がっている。それは天使が翼を捥がれた痕の様に見えた。
異形に身を窶してもなお、私には珠理の姿がどうしようもなく美しいものに見えていた。月光を帯びた珠理の身体が闇の中に、ピアノの前にある。それ以上に、美しいものなど、あるのだろうか? 無垢に私に御伽噺をせがむ幼い珠理と、私の為にピアノを弾き続ける目の前の珠理に何の違いがあるというのだろう?
私にとって珠理は天使だった。
私では届かなかった世界まで、もう少し。
どれだけ足掻いて、手を伸ばして、全てを投げ棄てても届かなかった場所まで、珠理は導いてくれる。幼き日に契った誓いがまだ、私達の両手首を雁字搦めにしあっている。
あの炎が、珠理と私を離してはくれない。ああ、珠理、愛しているよ。私の愛おしい、珠理。
抱いた肩は骨ばっていて、冷たくて、とても人間の物とは思えなくて、恍惚する。
欠損していく人間らしさが、約束の場所へ近づいていく証左のようで。
でも。
でも、まだ、まだ足りない。まだ空へは、届かない。
「ちゃんと聞いていたよ」
「先生」
苦しそうに、珠理は喘ぐ。
「殺して、もう、殺してよ、先生。身体中が、痛いの、苦しいよ、先生」
「だめ、まだまだこんなんじゃだめだよ、珠理」
子供に言い聞かせるみたいに珠理を窘める。真っ白な髪は細く、指を入れると絡まって、珠理は引き攣ったような悲鳴を上げた。
「珠理、私のためにピアノ弾いてくれるんだよね、ね?」
「せんせ」
「一緒にいこうって、約束したじゃない」
怯えたように珠理は身を竦めた。きょろきょろと忙しなく赤く濁った眼球が動く。煙に巻かれ、朦朧とする意識の中でも必死に両腕だけは守ろうとしていた珠理の姿を思い出す。
彼女に向けて、躊躇なく利き腕を伸ばした私、硝子と未来の砕ける音――そんな遠い昔の絶望など風化していた。
私には、珠理がいる。
部屋に沈黙が降る。闇色がこびり付いて、墓穴の様にじめついたこの部屋とピアノだけが私と珠理の全てだった。
焦点の合わない孔のように暗い眼が、ぼんやりと空を臨む。
そこに伝う涙は、どうしようもなく美しくて――
「神様なんか、いないよ」
虫の翅が擦れ合うような啜り泣きばかりが、ただ月に向かって響いていた。