第三楽章
旋律が奔る。昂った激情が溢れて、跳ね上がるように加速する。
奏でられていくのは、この曲の神髄とも言える第三楽章。
譫言のように彼女の唇は四文字を呟き続ける。その声すらも和音にかき消された。命を削るような鮮烈な音色。そこには嘗てこの曲の見せた柔らかさも華やかさもない。ただ執拗なまでの狂気が撒き散らされていく。
それはベートーヴェンの喪った恋人への激しい愛だという人もいる。
私は、そうは思わない。これは、きっと、彼の音楽への偏執だ。彼が愛したのはきっと、この世界で最も彼を愛したものと同じ、音楽そのものだった。
目まぐるしく鍵盤の上を這いずる十本の指。果てつつある身体が執念だけで躍動する。運命に全てを奪われた珠理にたった一つだけ残されたピアノの才能。私が唯一奪われたそれが珠理に乗り移ったのは、今思えば幸運だったのだろう。
こんな演奏を、私は知らない。音大の同窓にも、その教授たちにも――きっと世界のどこを探しても、珠理を越えられるピアニストはいない。
この世界で珠理が一番、あの空に近い。私の憧れた、あの空の上の、神々へ。
皮肉なことに、盲いたことで却って珠理の才能は円熟していた。焼け焦げた繭の中で、空に向かって羽搏く翼を珠理は織り続けていた。
祈るような思いで、私は珠理の演奏を聞き続ける。
闇の中を駆けていく旋律。怨嗟、悲嘆、悔悟、焦燥、絶望。珠理を象る全てが内包されたそれは、真っすぐに私に届く。遥か昔に珠理が私に誓った約束は、形を変え、目的を変えてこの世界に彼女を繋ぐ。燃え塵に成り果てた彼女を、今もなおこの世界に縛り付け続ける。あの日の炎の中で、珠理はまだピアノを弾き続けている。
そこにあったのは、珠理のピアニストとしての矜持。怪物に成り果ててもなお棄てられなかった、いや棄てられなかったからこそ怪物に成り果てた、ピアノへの執念。盲いた目が、歓喜を叫ぶ。継ぎ接ぎの皮膚が、嗄れ声が、軋む骨が、知らしめる。
そこまでだった。それ以上は、もう、私にはわからない。