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追想 【第一楽章】

―――


『先生!』


 私が夜館邸の玄関をくぐると同時に、珠理は脇目も降らず階段を降りて駆け寄ってきた。仕立てのよい真っ黒なドレスと、黒々としたセミロングの髪、そして私に微笑みかける少女らしい天真爛漫な表情。


 夜館珠理は美しい少女だった。

 視線を合わせるように私が屈むと、彼女は頬を寄せて私に甘えてくる。両親を事故で亡くした珠理の家庭教師兼お目付け役。そんな役割以上の余りある出資を、珠理の祖父母である夜館老夫妻は貧乏音大生の私にしてくれていた。


 珠理もまた、私のことを気に入ってくれているようだった。

 人見知りで、学校でも友達がいない珠理も私の前では年相応の少女のように振る舞っている。例えるなら、姉妹のようだと、お爺様―私もそう呼ぶよう珠理に言われている―は言っていた。


 ピアノ以外にも両親を早くに喪っているという共通点が私達を共振させているのかもしれない。


『そんなに走ると危ないよ』

『だって、先生に早く見てほしかったんだもの』

『新しいドレス?』

『違う! こっち来て! 早くっ!』


 小さな手が私を引く。

 行先は聞くまでもなく分かっていた。子供には不釣り合いな真っ黒なグランドピアノが座す一室。珠理は椅子に座ると指先を鍵盤の上に置いた。押し込まれた人差し指から調律されたレの音が零れた。


『先生の好きな、げっこー、ちょっとだけ弾けるようになったよ』


 褒めてとねだるような眼で珠理は私を見上げていた。


『いつ、練習していたの?』

『先生が帰ったあとに、ちょっとずつ。びっくりさせようと思って』

『すごいね、珠理』

『でしょう? じゃあ先生の為に弾くから、聞いててね』


 彼女が弾いたのは第一楽章の数小節だった。一音ずつ確かめるように、彼女の小さな手が鍵盤を押し込んでいく。


 旋律とは言い難いそれは、月光には程遠い。

 次第に曲は乱れ、珠理は諦めたように渋面で両手を離した。緩く首を振ってから私の方をこっそりと窺うのは、演奏が上手にできなかった時の珠理の癖。


『本当はもう少し弾けるんだけど、調子が悪いみたい』

『ううん、上手だね、珠理』

『違うもん、こんな演奏褒めてもらいたかったわけじゃない』


 珠理の眼の端にうっすらと涙が溜まっていく。私が肩をさすると、彼女はまたもう一度ぶんぶんと大きく首を振った。


『先生、私、まだまだ上手になるから……なるから、だから、これからもピアノ、教えてくれる?』

『もちろん』


 珠理の表情に光が差していく。


『絶対だよ、絶対、絶対珠理の前からいなくなったらだめだよ、先生』

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