老婆と少女
柚子はアズールスの部屋の扉を乱暴に閉めると、すぐ隣の自室に戻る。
部屋の中に入って、柚子は靴のままベッドに上がると、何度も枕をベッドに叩きつけたのだった。
「何なのよ!? 子供を産んで欲しいだけなら、別に私じゃなくても、その辺の女性でいいじゃない!? わざわざ召喚して!」
柚子は靴を脱ぐと、ベッドに寝転がる。
「今まで優しくしてくれたのも……。子供を産んで欲しかったからなの……?」
仰向けの状態になると、天井を見上げながら呟いた。そうしないと、涙が溢れ落ちそうだった。
少しすると、遠慮気味に部屋の扉がノックされた。
「はい」
柚子が返事をすると、お茶のセットを持って老婆が入ってきたのだった。
「ユズ様、お茶をお待ちしました。旦那様より、ユズ様が自室に戻られたと聞きましたので」
老婆はベッドサイドまでやって来ると、お茶の用意を始めたのだった。
「あ、ありがとうございます……」
老婆からカップを渡された柚子は、カップを両手で包んだ。
掌から熱を感じて、また泣きそうになってしまった。それを隠すようにカップに口をつける。
リンゴの様な甘い香りが柚子の心を癒したのだった。
「本当にありがとうございます。えっと……」
柚子が名前を聞こうとすると、老婆はふんわりと微笑んだのだった。
「旦那様からお話しは聞いております。言葉が通じるようになったと」
老婆は一度、お辞儀をした。
「改めまして、私はマルゲリタと申します。旦那様ーーアズールス様の乳母をしておりました」
「乳母ですか……」
柚子は始めて乳母をしていたという人を見て驚いた。
読書が趣味で、子供の頃から小説や物語を読んでいた。その中で、乳母という役割の人がいるという事や存在するという事は知っていたが、実際に会うのは始めてだった。
「はい。と言いましても、旦那様はすっかり大人になられて、乳母としての役割は終わりましたので、今はこのお屋敷で使用人をしております」
片手を口に当てて、柔和な表情を浮かべるマルゲリタに、柚子は「はあ……」としか返せなかったのだった。
「ユズ様。先日は孫娘が不甲斐ないばかりに怖い思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」
先日とは、少女と出掛けた時の事を話しているのだろう。
柚子は首を大きく降って否定する。
「いいえ。私は大丈夫です。アズールスさんも助けてくれましたし、それで、お孫さんは怪我はされませんでしたか?」
「お心遣いありがとうございます。孫娘は何ともありません。私が腰を痛めて、代わりにおつかいを頼んだばかりに、このような事になってしまって……」
「本当に大丈夫ですから……」
その時、部屋の扉がノックも無しに勢いよく開かれた。
「おばあちゃん。旦那様が出かけたよ!」
「これ。ファミリア! 扉を開ける時はノックをしてから開けなさいと、いつも言っているでしょう!」
少女ーーファミリアは、肩を落として「は〜い」と俯きながら不満そうに返事をしたのだった。
「アズールスさんが出かけたの?」
柚子がファミリアに声を掛けると、ファミリアは顔を上げて、頬を真っ赤にしながら嬉しそうに話しだした。
「はい! 『調べ物をしてくる。帰りは遅くなるから夕食はいらない』って、元気無さそうに」
「またですか……」
マルゲリタは困ったように溜め息を吐いた。
柚子は気になったので、聞いてみたのだった。
「また?」
「はい。旦那様は気になる事や夢中になると、寝食を忘れてしまうところがありまして。最近は、ユズ様を気にかけていらしたので、そこまで忘れる事は無かったのですが……」
おそらく、柚子と寝食を共にしていた事を言っているのだろう。
ここ数日、柚子はアズールスと食事や睡眠を共にしていた。
それが結果として、アズールスを健康的な生活をさせるのに役立っていたのだった。
しかし、先程、アズールスと喧嘩した事で、アズールスが元の生活に戻ってしまったのかもしれなかった。
「す、すみません……」
「あら。ユズ様が謝る必要は無いんですよ」
すると、今までマルゲリタの後ろで、興味深そうに柚子を見つめていたファミリアが、柚子の元へとやって来たのだった。
「ユズ様、言葉がわかるようになったって本当?」
「『本当ですか?』でしょう」
申し訳ありませんと謝るマルゲリタに対して、柚子は首を振る。
「いいえ。えっと、ファミリアちゃんだっけ?」
「うん。ファミリアだ……です」
マルゲリタが目を光らせているからか、ファミリアは言い直しのだった。
「この前は、怖い思いをさせてごめんなさい」
「いいのよ。気にしないで。それより、助けに来てくれてありがとう」
シュンと項垂れるファミリアに笑みを向けると、ファミリアは小さく笑ってくれたのだった。
「ユズ様、ファミリアは私の娘夫婦の忘れ形見で、私にとっては唯一の家族でもある孫娘です。
旦那様のご厚意で、使用人見習いとして一緒に暮らしております。失礼もあるかと思いますが、孫娘をよろしくお願いします」
マルゲリタに紹介されたファミリアは、マルゲリタに言われるがままにお辞儀をした。
マルゲリタの教育の賜物だろう。ファミリアはとても育ちが良かった。
「ファミリアちゃん、これからよろしくね」
「うん! じゃなかった、はい。よろしくお願いします!」
ファミリアの花が咲くような笑みに、柚子は自然と笑顔になる。
その笑顔を見ていたら、今朝のアズールスとの会話で乱れていた心がだんだん落ち着いていったのだった。
そうして、柚子は気になっていた事を聞いたのだった。
「気になっていたのですが、この屋敷には私達四人以外は住んでいないんですか?」
柚子がこの屋敷に住み始めてまだ日は浅いが、この屋敷には柚子と家主のアズールス、アズールスの乳母で今は使用人のマルゲリタと、その孫娘で使用人見習いのファミリア以外を見た事は無かった。
柚子が訊ねると、二人は困ったように顔を見合わせた。
やがて、マルゲリタは観念したように話してくれたのだった。
「はい。このお屋敷には、私ども四人しか住んでおりません」
「え? 他の使用人や皆さんのご家族は住んでいないんですか?」
「はい。この屋敷には使用人は私とファミリアしかおりません。昔は、私以外にも使用人が大勢いましたが、訳あって今は私達しかおりません」
アズールスさんのご家族も、と柚子が言いかけると、マルゲリタは顔を伏せた。
「……旦那様のご家族は、十年前に馬車の滑落事故でお亡くなりになりました。この子の父親も一緒に」
マルゲリタはファミリアを見ながら教えてくれた。
ファミリアの母親ーーマルゲリタの娘は、産後の肥立ちが悪く亡くなっている事、それからは御者だったファミリアの父親が育てていたが、アズールスの家族が乗った馬車が滑落事故に遭った時に、御者台にいた父親も一緒に亡くなったとの事だった。
それ以来、ファミリアは祖母のマルゲリタに育てられてきたらしい。
「すみません。軽い気持ちで聞いてしまって……」
柚子が俯きながら詫びると、二人は首を振ったのだった。
「いずれ、ユズ様も知る事になったと思うので」
「うん。それに、ユズ様は旦那様の『赤ちゃんをうむ』んでしょ? それなら知ってた方がいいよ」
「こらっ、ファミリア」とマルゲリタはファミリアを咎めるが、柚子は今朝のアズールスとの話を思い出して、真っ赤になったのだった。
「ふ、二人は、今朝の事を知っているんですか!?」
「まあ、その……」
「うん」
言い淀むマルゲリタに代わり、ファミリアが全て教えてくれた。
アズールスが自分の子供を産んでくれる女性を探していた事、どうしても身近に相性の合う女性を見つけられなかったアズールスが、召喚書を用いて異世界より女性を呼び寄せる事にした事。
そして、マルゲリタ達は召喚された柚子の面倒を見るように、アズールスに言われた事を話してくれたのだった。
「旦那様から、女性用の部屋を一部屋用意して欲しい、と言われた時は驚きましたが、ユズ様を召喚する為に、必要な事だったらしいです」
それで、柚子が召喚された時に寝ていた部屋ーー柚子の自室となっていた部屋。は、掃除や手入れが行き届いていたのだと、柚子は納得したのだった。
「ユズ様が旦那様の望みを叶えなくとも、私達は決してユズ様を悪いようにはしません。ユズ様はこの屋敷を自分の家だと思って、安心してお寛ぎ下さい」
そうして、マルゲリタはお茶の後片付けの為に出て行ったのだった。
ファミリアもマルゲリタに続いて部屋を出ようとしたが、不意にその場に立ち止まった。
「ファミリアちゃん?」
柚子が声を掛けると、ファミリアは柚子の元に戻ってくると、マルゲリタには聞こえ無いようにこっそり話した。
「おばあちゃんはああ言っていたけれども、ユズ様が良ければ、旦那様の『家族』になってあげてね」
「それは、どうして?」
ファミリアは悲しそうに教えてくれたのだった。
「旦那様はね。ファミリアとおばあちゃんが話しているのを見ると、時々、寂しそうな顔をするの。でも、ファミリアが声を掛けると、『なんでもない』って。おばあちゃんに聞いたら、『旦那様は寂しがり屋なだけなのよ』って。ファミリア達は使用人だから旦那様の家族にはなってあげられないの。だから……」
そして、ファミリアはマルゲリタを手伝う為に部屋を出て行ったのだった。
「やっぱり、もう来ないのかな……」
その日の夜、夕食と湯浴みを済ませた柚子は、自室のベッドに入って絵本を読んでいた。
あれから、柚子が夕食を済ませた頃にアズールスは帰宅したが、お互いに今朝の事を引きずってギクシャクしており、会話もままならなかった。
柚子はいつものようにアズールスが部屋に入ってきて、いつものように一緒に寝るのでは無いかと、絵本を読んで待っていたのだが、アズールスが来る様子はなかった。
柚子はもう何冊目になるのかわからない絵本を読みながら、何度目になるかわからない溜め息を吐く。
「それにしても、言葉だけじゃなくて、文字もわかるようになっているなんて……」
昼間、いつものように時間を持て余した柚子が、いつものように絵本を読もうと本の表紙を見た時に気づいたのだった。
昨日までは、文字が全く読めず絵だけを楽しんでいたのだが、今日改めて見たら文字が日本語になって、柚子の目に入ってくるようになったのだった。
例えるなら、柚子が目にした途端に、文字の羅列が、意味のある日本語に変化するようなイメージであった。
(どうして、急に言葉や文字がわかるようになったのだろう)
きっかけは、昨夜のアズールスとのキスだろうか。
その時のアズールスと自分を思い出して、柚子は真っ赤になって首を振る。
(もういいや。今夜は先に寝よう)
外を見ると、随分と時間が経ったようだった。
柚子は燭台の灯りを消すと、ベッドに潜り込む。
(そういえば。この部屋で一人で寝るのは始めてだなあ)
この世界に召喚された日から、アズールスと一緒に寝ていた。
だからか、柚子はベッドがとても大きく広い事を改めて実感した。
いつもならあるはずの、隣からの温もりが無い事を寂しく思いながら。
柚子はそっと目を閉じたのだった。