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絶望の夜と出会いの夜

夢だった。この仕事に就くことが。

ずっと憧れていた。

だから、こんな結末で終わってしまったのが辛かった。


どこで間違えてしまったのだろうか?


何故、こうなってしまったのだろうか?


「ううっ……。ひっく……」

橘井柚子きついゆずは、職場から我慢していた涙を流し続けていた。嗚咽混じりになりながらも、涙は止めどなく溢れ出てくる。


遡る事、数時間前。

「橘井さんはまだまだ若いから、すぐに次の職場が見つかるわよ」

「そうそう。橘井さんは優秀だもの。そうよね。みんな?」

年配の女性の言葉に、事務室に集まっていたスタッフは皆、困惑しつつも頷いていた。

「そうですよね〜。あははは」

柚子の乾いた笑いが、事務室内に虚しく響いたのだった。

柚子だって、こんな形で子供の頃から夢だったこの仕事を、退職したくはなかった。

契約社員だった柚子は、表向きは「契約期間満了につき退職」という理由で退職することになっている。

しかし、本当の理由はこの事務室内にいるスタッフ達からの「パワーハラスメント」であった。


柚子が大学を卒業してから契約社員として働いていた職場は、市内で運営している公共図書館であった。

本来であれば、新卒で図書館への就職はかなり難しい。

一年間の内に図書館司書の資格を取得する人数に対して、図書館の求人は一割あるかないかの狭き門である。

更に経験者優遇の求人が大半の中、新卒での入社は極めて難しいのであった。


柚子は大学生の頃から、図書館でボランティアをしていた縁で、ボランティア先の図書館からたまたま空きが出た契約社員の話を受けたが、同級生はみんな図書館で働く事を諦めて、民間企業へと就職していった。

そんな中で図書館に就職出来た柚子は、羨望の眼差しで見られていたのだった。


しかし、それが良くなかったのかもしれない。


実際に図書館でスタッフになったものの、大学の図書館に関する授業で習わなかった仕事や内容が沢山あり、知らない事だらけであった。

それにも関わらず、自分の力を過信していた柚子は周りの話を聞かずに、自分の思うがままに仕事を続けた。

その結果、スタッフ間の連携は崩れて、利用者からのクレームも出てしまった。

それから、柚子は周囲から孤立してしまったのだった。

情報を共有させてもらえない、仕事を与えられない、声を掛けても無視され、陰口を言われた。

真冬には暖房の無い倉庫で一人、本の整理もさせられた。

それでも、柚子は夢だった仕事を諦めたくなかった。

だから、ずっと我慢していた。泣くまいと決めていた。


そんな嫌がらせにも負けずに仕事を続けていたある日、スタッフ達に先手を打たれてしまった。

柚子が上司でもある図書館長に呼ばれて指定された会議室に行くと、思いがけない事を言われたのだった。


「スタッフ複数名から、橘井さんが仕事をしないって報告があったんだけど本当?」


柚子は否定した。そうして、事情を説明すると、すぐに柚子とスタッフ達との間で話し合いの場が設けられた。

そこで柚子は、自分がどういう状況になっているのか、自分が困っているのかといった窮状を訴えたのだった。

しかし、スタッフから言われたのは思いもしない言葉だった。


「だって、橘井さんは一人でどんな仕事もやってしまうもの。私達に相談もしないで、一人で全部やってしまって。ここはあなただけの図書館じゃないのに」


「そうなんですか? 橘井さん?」

「……はい」

柚子は何も言えず、頷く事しか出来なかった。

この時になって、柚子はようやく気づいた。

自分が必死に仕事をしてきた事が、図書館にとっては裏目に出てしまった事を。

結局、ここでは柚子が原因である事と、この職場で最年少である事、目上の人達の顔を立てる意味もあって、柚子が謝罪をする事になった。

ここまで不毛な謝罪をした事は無かった。

よく図書館に来館するクレーマーにも、こんな形で謝った事は無い。


この話し合いの後、柚子はますます居心地が悪くなった。

目に見える嫌がらせは無くなったーー図書館長を始めとする一部の上司達が、嫌がらせをしていないか目を光らせるようになったからだった。

そうしてどこかギクシャクした空気のまま、来年度の更新希望を提出する時期になった。

柚子はこの図書館の為に、更新希望用紙の「退職」の欄に丸をつけて提出したのだった。


そうして、今日。

柚子は図書館での最後の勤務を終えて帰宅した。

最後の日とあって、いつもよりは周囲も優しいように思えた。

きっと、柚子が退職することになって喜んでいるに違いなかった。

柚子は退職を惜しむフリをしているスタッフ達に、愛想笑いを返し続けた。

そうして、帰宅して自室に入る。

そのまま、ベッドに倒れ込むと泣き出したのだった。


どれくらい泣いただろうか。

気がつくと、涙は枯れてしまった。

その代わりに、涙を吸い込んだ枕はぐっしょりと濡れていた。

(こんなに泣いたら、明日は目が真っ赤に腫れちゃうよね……。人前に立つのに)

そこまで考えて、柚子は苦笑した。

仕事を退職したのだから、もうカウンターに立って、人前に出る事なんて考えなくていいのに、これまでの癖で考えてしまった。

柚子はベッドから起き上がると、パジャマに着替える事にした。

今日はお風呂に入る気分にはならなかった。

思い切り泣いたからだろうか。

とにかく、身体と頭が重かった。今すぐにでも寝たい気分だった。

柚子は仕事着と下着をベッドの周りに脱ぎ散らかすと、新しい下着とパーカータイプのパジャマを着た。

それから、ベッドに潜り込む。

仕事時に電源を落としていたスマートフォンは、そのまま電源を切ったままにしていた。

いつもなら明日の仕事に備えて目覚ましをセットするが、今の柚子には関係なかった。

(明日から無職か……。仕事を探さないと)

退職したのはいいものの、次の仕事は決まっていなかった。

また図書館関係か、それとも全く別の仕事に就くのか。柚子は決めなければならなかった。

でも、今夜だけは、何も考えたくなかった。

柚子は部屋の電気を消した。

窓を見ると、カーテン越しに、ぼんやりと光る半月が見えた。

そういえば、先月、月に関する読み聞かせの会を担当したなっと思いながら。

柚子はそっと目を閉じたのだった。


次に目が覚めた時、真っ暗で何も見えなかった。

けれども、ここが先程まで寝ていた自室ではないと、柚子はなんとなくわかった。

まず、自分が寝ているベッドの柔らかさが違かった。

普段使用しているベッドは、こんなに柔らかくて、トリプルベッドの様な大きいベッドではなかった。

次いで、天井の高さが違かった。自室はこんなに天井が高くなかった。

夢でも見ているのだろうか。柚子はおっかなびっくり起き上がると、ベッドから出た。

ペタンと素足を床につけると、冷たい感触が足の裏に伝わる。

恐る恐るベッドから立ち上がると、ようやく暗闇に目が慣れてきたのか、部屋の中が見えてきた。

奥行きのある部屋の中には、洋風なソファーとテーブルが置いてあった。

その反対側には洒落た書き物机が置かれていたのだった。

そうして、ベッドの近くにはカーテンがかかった大きな窓があった。

柚子は窓に近くと、カーテンを開けた。

真っ暗な外だが、寝る前と同じようにぼんやりと半月だけが輝いていた。

しかし、寝る前に見た月との違いは。

「月が……ピンク……?」

柚子がピンク色の月に驚いて呟いたのとほぼ同時に、ソファー近くの部屋の扉がガチャリと開いた。

柚子は驚いて、その場でカーテンを握ったまま固まった。

息を潜めていると、室内に声が響いた。

「————————?」

何を言っているのかわからなかったが、綺麗な低音の声から若い男だと思った。

柚子は怖くなって、足音を忍ばせながらベッドへと戻った。そうして、ベッドの影にしゃがみと、男の様子を伺う。

男は部屋に入ってくると、ベッドにやってきた。

そうして、柚子が隠れているのとは反対側にやってくると、先程まで柚子が寝ていた辺りを触り出したのだった。

「———。————?」

何事かをまた呟くと、ベッドから手を離して遠ざかっていったのだった。

柚子はホッとすると、隠れていたベッドの影から頭を出した。

(リアルな夢だなぁ……)

もう一度寝たら、夢から覚めるだろうか。

男がドアの方に向かって行ったのを確認すると、柚子はベッドに足をかけた。

柚子の体重を受けたベッドが、キシッと小さく軋む音が聞こえた。

すると、ドアの前にいたはずの男が振り返ると、猛然とベッドまでやってきたのだった。

気づいた時には、柚子は「がはっ……!」と言って、ベッドの上に押し倒されていたのだった。

「な、なにを、するの……!?」

柚子が叫ぶと、今度は口を押さえられた。

涙目になりながらも柚子は抵抗したが、男はビクともしなかった。

それどころか、男は柚子の上に馬乗りになると、柚子が着ていたパジャマに触れて、手で弄ってきた。

服の中に手を入れようとしているのだと、男の手の動きから柚子は思った。

そうして、男は息がかかるくらいの近さまで、顔を近づけてきた。

ピンク色の月は、いつの間にか雲で隠れてしまっていた。

柚子が暗闇でぼんやりとしか見えない顔をきっと睨みつけると、目の前に黒色の布の様なものが落ちてきたのだった。

それが男の髪の毛だと気づいた時には、柚子の意識は遠のいていたのだった。


気を失った柚子が次に目を覚ました時、辺りは明るくなっていた。

目が慣れてくるにしたがって、ここが自室では無い事に気がついた。

そうしてーー昨夜が夢ではなかった事も。

昨夜の事を思い出した柚子は、恐怖から気分が悪くなった。

口を押さえていると、柚子が気を失った時には無かった、柔らかな毛布にくるまれている事に気づいた。

「——」

隣から寝息が聞こえたと思ったら、毛布越しに温かい肌色のものがお腹の辺りを包んでいた。

よくよく見ると、それは何者かの腕であった。

柚子が隣を向くと、そこには気持ち良さそうに眠っている見目麗しい青年がいた。

自分の右腕をくの字に曲げて枕代わりにして眠る横顔には、青年の胸辺りまでの長さの黒髪がかかっていた。

(黒髪? まさか、昨夜の?)

柚子は顔を真っ青にして、再び、気持ち悪くなりながらも、青年の姿をよく観察した。

青年は白色のシャツ一枚に黒色のズボンだけで毛布もかけずに、柚子を抱き枕のようにして眠っていたのだった。

柚子はそっと青年の顔にかかる黒髪を肩に流す。

すると、青年はゆっくりと目を開けたのだった。

サファイアの様な吸い込まれそうな青い瞳に見惚れていると、青年はやや垂れ目がちな目を大きく見開いた。

そうして、上半身を起こすと、柚子を見つめながら何かを問いかけてきた。

「—————。————————?」

柚子は全く言葉が分からず、首を傾げた。

青年も困ったように、何度も話しかけてくるが、柚子は首を傾げ続ける事しか出来なかったのだった。

青年が困ったように、黒髪を掻き上げたその時。ベッドの向かいにある扉が控えめに開いた。

青年とニ人で扉を見つめていると、扉からは十歳くらいの少女が顔を出したのだった。

肩までの長さの茶色の髪を、三つ編みのおさげにしている少女は、柚子と青年に気づくと驚いた顔をした。

「———————!?」

スモーキークォーツの様な茶色の瞳を大きく見開いたまま、少女は何事か叫びながら扉から離れた。

そうして、軽やかな足音を立てながら、走り去って行ったのだった。

すると、青年もベッドから起き上がると、慌てて少女の後を追いかけて行ったのだった。

「一体、何なの……?」

部屋に取り残された柚子の呟きだけが、室内に虚しく響いたのだった。


やがて、青年が着替えて、柚子がいる部屋に戻ってきた。

「———。————? —————」

青年は声を掛けると、柚子に向かって手を差し出してきた。

困惑した柚子が手を取らないでいると、青年は差し出した手を一度引っ込めると、今度は優しく柚子の肩に触れてきた。

その時、柚子は昨夜の恐怖をまざまざと思い出してしまった。

真っ青になった柚子を心配するように青年は見つめてくるが、柚子は青年の手を振り解くと目から涙を溢れさせた。

突然泣き出した柚子の姿に、青年が戸惑っているのがわかった。

青年がオロオロと青い瞳を彷徨わせていると、扉が控えめにノックされた。

すると、先程の少女と少女に手を引かれるように、人当たりの良さそうな六十歳ぐらいの老婆が部屋に入ってきたのだった。

少女は柚子達を指差すと、老婆に何事かを訴えていた。

老婆はうんうんと頷くと、柚子達に近いてきたのだった。

老婆は柚子が泣いている事に気づくと、少女と同じ色の茶色の瞳を大きく見開いた。

そうして、青年に向かって何かを叫んだ。

「———! ———————!!」

「—! ————。—————-!」

しばらく、青年と老婆は何か言い争っていた。

その間に柚子に近いてきた少女は、柚子にニコッと笑いかけてきた。

その笑顔を見た柚子は、安心して小さく微笑んだ。

すると、言い争っていたはずの青年も、柚子の微笑みにつられる様に笑みを浮かべたのだった。


それから、老婆によって青年は部屋から追い出された。

柚子は老婆に手伝ってもらいながら、熱い湯とハーブの様な爽やか香りのする石鹸で身体と髪を洗った。

その後、少女が持ってきたシンプルなデザインの膝下までの丈の紺色のワンピースに着替え、冷たいタオルも渡された。

少女の目を冷やすように身振りで伝えてくるところから、柚子の目が腫れている事に気づいて持ってきてくれたらしい。

目にタオルを当てて冷やしている間に、一度部屋から出て行った老婆が軽食を手に戻ってきた。

温かそうな湯気を立てるスープと柔らかそうなパンを見ている内に、柚子は昨夜から何も食べていない事を思い出して、お腹が空いてきた。

テーブルの上に老婆が軽食を置くと、柚子はその近くのソファーに座って軽食を食べたのだった。


朝食を済ませてしばらくすると、少女と一緒に青年が部屋に入ってきた。

柚子が警戒して老婆の後ろに隠れると、青年は大きく肩を落とした。

青年は老婆に何事かを言われると、ショックを受けた様に部屋から出て行ったのだった。

柚子が老婆の後ろから出てくると、老婆と少女は柚子を心配そうに見てきた。

心配されていると思った柚子は、大丈夫という意味を込めて何度か頷くと、小さく笑ったのだった。

柚子が食べ終えた食器を持って、部屋から出て行く二人を柚子は扉近くまで見送った。

その後、ベッド近くまで戻ってくると、部屋の窓から青年が屋敷から出る姿が見えた。

黒髪を後ろで一つにまとめた青年は、窓下に広がる庭園を抜けて、門前に停めている馬車に乗り込んだ。

すると、馬車は音を立てながら、そのまま真っ直ぐ走り去って行ったのだった。

青年を見送った柚子は、ベッドに腰掛けると天井を見上げた。

(ここはどこなんだろう? 部屋で寝ていたはずなのにどうして……?)

柚子は身体を見下ろした。老婆に着せてもらったワンピースと朝食を食べている間に用意してもらったオレンジ色のフワフワしたスリッパ、そうして青年が乗って行った馬車。

どれも柚子が住んでいた日本には無かったものだった。

柚子は試しに頬をつねってみた。

昨夜の床の冷たい感触や、今朝のお湯の温かさからなんとなく気づいてはいたが、やはり夢ではないようだった。

(家に帰りたい……。帰りたいよ……)

柚子は膝を抱えて丸くなった。

目にはまた涙が溢れてきた。

今日は、いや、昨日から泣いてばかりいた。

柚子が鼻をグズッと鳴らすと、扉が控えめに開いた。すると、老婆と一緒に部屋から出て行った少女が、扉の陰から柚子を興味深く見つめてきたのだった。

柚子は涙を引っ込めて手招きをすると、少女はぱあっと顔を輝かせて部屋に入ってきた。

「——! ——————?」

柚子が首を傾げると、少女はまた何かを話しかけてきた。

柚子が身振り手振りで言葉がわからない事を示すと、少女は悲しそうに肩を落としたのだった。

すると、少女は走って部屋から出て行った。しばらくすると、少女は本やおもちゃを抱えて柚子の元に戻ってきた。

柚子は興味深そうに本を手に取って、パラパラと捲った。

本は絵本の様で、大きな絵と文字が書かれていた。

文字が読めない柚子が絵だけを見ていると、少女がトランプの様な掌サイズの紙の束を渡してきたのだった。

柚子が受け取ると、少女は身振り手振りで遊び方を教えてくれた。

どうやら、トランプの遊び方とほぼ同じ様だった。

二人でしばらくトランプの様なもので遊んでいると、老婆が三人分の軽食を持って部屋に入ってきた。

いつの間にか昼食の時間になった様だった。

三人でスコーンの様なものを食べ、アールグレイに似た香りの紅茶の様なものを飲んだのだった。


それから、柚子は少女に屋敷内を案内してもらった。

屋敷は二階建てとなっており、柚子の部屋は二階の最奥にあるようだった。

少女と老婆は一階の厨房脇の部屋に二人で住んでいるらしい。

それから、庭を案内してもらっていると、老婆が少女を迎えに来たのだった。

「—————! ——————!」

何事かを老婆に言われた少女は、肩を落として屋敷へと戻って行った。

柚子も二人の後に続いて、屋敷の中へと戻ったのだった。

部屋に戻ると、老婆が絵本を大量に持ってきてくれた。

柚子は手振りで感謝の気持ちを伝えると、老婆は嬉しそうに去って行ったのだった。

それから、柚子は絵本を読んで時間を潰した。

ソファーに座って読んでいる内に、昨夜の疲れが出たのか、緊張の糸が緩んでしまったのか、柚子は本を持ったまま、眠ってしまったのだった。


夕方、柚子は人の気配で目を覚ました。

ゆっくり目を開けると、目の前には今朝、出掛けて行ったはずの青年が、柚子の顔を覗き込んでいたのだった。

「わっ!?」

驚いた柚子が勢いよく起き上がると、柚子の前髪がふんわりと落ちてきた。

顔があった辺りに青年の手だけが所在なさげに残っている事から、どうやら柚子がソファーで寝ている間、青年が柚子の前髪に触れていたようだった。

(ど、どうしよう……!?)

昨夜の恐怖を少しずつ思い出してきた柚子は、オロオロと顔を彷徨わせた。

「——!」

すると、挙動不審になった柚子がおかしかったのか、青年が突然、笑い出したのだった。

口元を押さえて笑う青年の姿に、柚子は恐怖心よりも怒りが湧いてきた。

挙動不審になっているのは、誰が原因だと思っているのか。

怒りと不満で柚子はムスっとしていたが、やがて青年につられて笑ってしまったのだった。

(なんだ……。改めて、こうして見ると普通にイケメンじゃない)

二人はしばらく笑い合った。

そうして、落ち着いてきた頃に、青年は柚子の隣に座った。

そして、自分の顔を指差しながら、柚子に話しかけてきたのだった。

「ア……ズー…ル……ス」

柚子は青年の指先をじっと見つめながら、何を伝えたいのかを考える。

その間も、青年は自らの顔を指差しながら、何度も同じ言葉を繰り返していた。

どうやら、青年は名前を名乗っているようだった。

「あ、ずー、る、す?」

柚子がおずおずと言葉を返すと、青年は満足そうに何度も頷いた。

青色の瞳を細めて、嬉しそうに笑う青年のーーアズールスの顔を見ていると、何故か柚子は安心した気持ちになったのだった。

そうして、柚子も自らの顔を指して口を開いた。

「ユ……ズ……。ユズ」

今度はアズールスが首を傾げる番だった。

柚子は根気よく何度も続けた。

「ユズ!」

やがて、柚子の言葉が通じたのか、アズールスは名前を呼んでくれた。

柚子は嬉しくなり、笑顔で何度も頷いたのだった。

(なんだろう……? この気持ち)

昨夜の恐怖を忘れた訳ではなかった。

けれども、嬉しそうなアズールスの顔を見ていると、実は良い人なのかもしれないと思えてきたのだった。

すると、アズールスは柚子の手を取って立ち上がった。

柚子も立ち上がると、アズールスは柚子の手を引っ張るようにして部屋を出たのだった。


連れて行かれたのは、屋敷内の食堂であった。

二人が食堂にやって来た音が聞こえたのか、老婆が反対側の扉から入って来た。

老婆は驚いた顔をしたが、アズールスといくらか話すと、入って来た扉の向こうに消えた。

柚子はまたアズールスに手を引かれると、椅子に座るように身振りで示される。

アズールスと一緒にしばらく待っていると、老婆が夕食が載ったワゴンを押して入ってきたのだった。

どうやら、アズールスが柚子と一緒に食べると老婆に話したらしい。

ワゴンにはきっちりと、二人分の夕食が載っていたのだった。

朝食や昼食よりも、やや豪華な夕食を柚子は対面に座っているアズールスと一緒にとった。

食事をしながら、アズールスは何かを話しかけてくるが、全く言葉がわからない柚子は笑ったり、頷く事しか出来なかった。

それでもアズールスは不快な顔をする事も無く、柚子に話しかけ、笑いかけてくれたのだった。


二人で夕食を済ませた後、アズールスは柚子を部屋まで送ってくれた。

柚子を部屋の前まで送った後、隣の部屋の扉を開けて中に入って行った事から、どうやら隣がアズールスの部屋だという事がわかったのだった。

柚子は老婆が用意してくれた湯で身体を清めると、用意してもらった寝巻きに着替えてベッドに入る。

そうして、昼間、少女と老婆が持ってきてくれた絵本を読んでいたのだった。

(いつ元の世界に帰れるかわからない以上、この世界の言葉を覚える必要があるよね……)

絵本はおそらく、幼児向けに描かれたものであろう。

この絵本を繰り返し読む事で、いつかはこの世界の言葉がわかるようになるかもしれない。

柚子が言葉を覚える事を決意すると、部屋の扉をコンコンと叩かれたのだった。

「はい?」

柚子が返事をすると扉が開かれた。

部屋に入ってきたのは、先程、自分の部屋に戻ったはずのアズールスであった。

柚子が首を傾げていると、アズールスはつかつかとベッドに近づいてくる。

アズールスも身体を清めたのか、胸辺りまで伸びている黒髪はやや湿っていた。

そうして、当たり前の様にベッドに入ってくると、柚子の隣に寝たのだった。

「ちょっと……!? 何してるの!?」

柚子はベッドから追い出そうとするが、アズールスはビクともしなかった。

やがて、柚子も横になって隣に来るように手振りで示してきた。

柚子は絵本をベッドサイドに置くと、諦めてアズールスが寝ている側の反対側の端に横になったのだった。

アズールスは一度起き上がると、燭台の蝋燭ーー老婆が用意してくれた。を消した。

すると、部屋は月明かりが差し込むだけの真っ暗闇に包まれたのだった。

柚子は昨夜の恐怖を思い出して、心臓がバクバクと激しく波打ち始めたのを感じた。

ギュッと目を閉じ、シーツを握りしめて、息を潜めていると、背中に温かいものが当たった。

柚子が驚いていると、今度はシーツを握りしめていた手を別の温かい手が、優しく包んだのだった。

柚子はそっと目を開ける。

やがて、暗闇に目が慣れてくると、シーツを握る柚子の手を、後ろから伸びてきた大きな手が包んでいる事に気づいたのだった。

頭だけ動かして柚子が後ろを向くと、柚子の背中にぴったりとくっついたアズールスが眠っていたのだった。

柚子はアズールスを振り解こうとするが、アズールスの気持ち良さそうに眠る姿を見ていたら、だんだん気力が無くなってきた。

それどころか、アズールスの体温に負けて、眠気も出てきたのだった。

(どうして、昨晩、あんな事をされたのに……)

どうして、アズールスの隣で眠れるわけが無いのに、どうして。と柚子は自問自答しながらも眠りについたのだった。


そして、アズールスは柚子が寝息を立て始めた事に気がつくと、柚子の手をそっと離した。

愛おしそうに、柚子の肩まで伸びた黒髪を撫でると、その髪にそっと口づけを落とす。

柚子の腰に腕を回すと、アズールスもまた眠りについたのだった。

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