滲む海(改)
八月も後半、ジリジリと照りつける太陽を直に肌に浴びながら通学路を辿り、部室へと向かう。校舎に入れば文化祭準備のために集まったらしい生徒たちが段ボールを切ったり暗幕を用意したりボードにペンキを塗ったりと、なにやら楽しそうに作業をしている。
そういえば、僕のクラスは何の出し物をするんだろう。夏休みが始まる前、文化祭についての会議をしていたような気がするが全く思い出せなかったし、そもそも僕が参加するような事はやらないだろう。晒し者にされるような企画がなかっただけありがたい。
部室には既に三人が揃っているようで、演奏する音が少しだけドアの隙間から漏れている。僕はそれを邪魔するのがなんだか気が引けて、しばらくドアの外でその音を聞いていた。
やっぱり、気持ちがいい。激しくもどこか悲壮的なメロディに、煙草のせいなのか少ししゃがれている気だるげな阿部先輩の声。早くここに混ざりたいという気持ちと、もう少しこの三人の演奏を聴いていたいという思いが入り混じって、陽の当たらない廊下でギターを背負って突っ立ったまま目を閉じる。
文化祭は九月、夏休みが明けて数日で行われる。去年まではただ一人で音楽を聴きながら校舎を練り歩き、空き教室で時間を潰していただけの苦痛な行事だったけれど、今年は違う。無意識に、ギターケースのストラップを握る手に力が入る。
「あら、入らないの」
振り向くと、山中先生がアイスを食べながら手で自分の顔を扇いでいた。
「ちょっと聴いてたくなって……」
「そうなの。じゃあ、私も」
並んで立って、漏れてくる音を聴く。僕は落ち着かなくなって無意味に手を動かしてみたり視線を泳がせてみたりするが、山中先生はドアを真っ直ぐに見つめながら動かない。
「私、学生時代バンド組んでたの」
それは聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで、でも僕の耳にはしっかり届いた。
「趣味が合って、気も合ってね、でも、もう会う事もなくなっちゃった」
続く言葉に、僕は返す言葉が見つからない。山中先生がバンドを組んでいたことくらい想像はしていたが、今彼女が話す言葉にはどんな意味が含まれているのか、僕にはわからなかった。
「だから、うん、何て言うのかしら、頑張ってね」
先生はやっと笑顔を見せて、ドアノブを回す。いつのまにか演奏は終わっていて、「また来たのかよ」という柏木先輩の声が飛んで来た。そして、またドアが閉まる。現代文の成績は良いはずだが、僕は中山先生が考えていることがちっともわからず気持ちをモヤつかせながらもう一度ドアを開けて部室のドアをくぐる。すると部室内にはもう、先ほどの優しくも少し寂しげな顔の山中先生はおらず、三人の演奏の粗を指摘する鬼教師に戻っていた。
「鈴木くんも早く、準備しなさい」
僕にだけは少しだけ優しいその声を聞きながら、先輩たちに軽く挨拶をしてギターを取り出し、アンプに繋ぐ。
もう何十回目となるセッションを終えると、「暑い、暑すぎる、私もう帰るわ」と先生がねをあげて撤退していった。練習開始はいつも人一倍やる気に満ちている山中先生だが、大抵一番最初に撤退するのも中山先生だ。阿部先輩はそれを「歳のせいだな」と鼻で笑っていた。
「確かに、今日暑いしもういいんじゃない」
千葉先輩がぬるくなっているであろうミネラルウォーターを飲み干して言う。
「そうですね、これ以上やっても調子出なそうですし」
「じゃ、また月曜だな。俺もうすぐバイト行かなきゃいけねーんだ」
柏木先輩が額の汗を拭って立ち上がる。この前聞いたが、どうやら近所のラーメン屋で真面目にバイトをしているらしい。「髪の毛はどうしてるんですか、それ」と聞いたら「結んでるに決まってんだろ!」と何故か強めに突っ込まれたのをいまだに覚えている。
「じゃ、今日は解散ってことで」
阿部先輩が煙草に火をつけて、ギターを乱暴に壁に立てかける。僕はここ何日かで注意するという概念を失ってしまったため、「はい」と素直に返事をして滴る汗をタオルで抑えながら帰りの支度を始めた。
玄関までだらだらと4人で歩いていると、廊下に取り付けてあった時計を見た柏木先輩が「俺ギリギリだから行くわ」と走り去っていった。多分、バイトの時間に間に合わないという意味だろう。あの人はいつも主語が抜けているのだ。
正門をくぐって、家が反対方向だという千葉さんと手を振り別れ、歩いていく背中を眺める。すると自転車置き場に向かった阿部先輩が戻って来たので、二人並んで歩き出す。練習後は大抵この流れがお決まりだ。
このまま僕は温度のない自宅に帰る。僕が帰った後、阿部先輩はその漕ぐたびにギィギィと耳障りな音を出す自転車に乗って少し遠いのだという家に帰る。明日は土曜日だから、二日間練習は無い。僕はきっと部屋にこもって音楽を聞いたり、ギターの練習をして膨大な時間をすり潰していくのだろう。
「じゃあ、また」
自宅の近くになり、僕がそう声をかけると、阿部先輩は返事をせずに立ち止まる。そして、
「今から海行かねぇ?」
と言った。
「は?今からですか?」
「何だよ、どうせ暇だろ」
「……そうですけど」
暇を否定できないのが悲しい。が、そもそもここから近い海なんて、歩いて一時間はかかるはずだ。
「遠いじゃないですか」
「チャリならすぐだろ」
「僕、自転車持ってないです」
「後ろ乗ればいいだろ」
当たり前のように荷台をトントンと叩く。以前にも、学校帰りに阿部先輩と自転車の二人乗りをしたことはあったが、バランス感覚のない阿部先輩のグラつく運転が怖いのと尻が痛くなるのとで、その一回きりとなっていた。
「何で急に…」
僕が渋っていると、先輩は「お前が行かないなら俺一人で行く」と言って自転車を漕ぎ始めた。ので、僕は慌てて荷台に跨る。
「飛ばすからな、つかまってろよ」
「自転車ごときで何言ってんすか」
何のドラマに影響されたのか、キザなセリフをかまし荒々しい運転をする阿部先輩を笑い飛ばし、背の部分のシャツを掴む。尻が痛いのを我慢して、揺られながら風を受ける。時刻はまだ十七時すぎぐらいだろうか、冬だったら暗くなっている頃だが、真夏である今はまだ空が青い。僕は、阿部先輩が作って僕が詞をつけた曲の歌を口ずさむ。
「音痴」
「うるさい」
音程ががたがたな僕の歌を聴きながら、先輩の肩は揺れる。その足はひたすらにペダルを回し続ける。背負ったままのギターが邪魔だなと思った。
二十分ほどで、あまり栄えていない海についた。先輩が自転車を放り捨てるみたいに転がして、海岸まで続く階段を下るので、僕は自転車を起こして鍵をかけ、その後に続く。
「やっぱ、あんま綺麗じゃねぇな」
ローファーに砂が入るのも気にせず砂浜を進んでいく先輩が海を見渡しながら言う。僕は靴を脱ごうか迷ったが、面倒くさくなって同じ様に砂浜を歩く。辺りには夏休みの小学生や中学生、その親やカップルなど、色々な人間がぽつぽつといる。
「まぁ、穴場って感じのとこですしね」
「あー、海入りてぇなぁ」
波が寄せる寸前のところで歩みを止める。
「入ればいいんじゃないですか、着替えはないですけど」
「パンツで入って捨ててけばいいんだよ。お前入りたくねーの」
「僕はいいです」
ギターもありますし。言うと、阿部先輩はローファーと靴下を僕の方に投げてよこし、そのまま普通の道路でも歩くみたいに、制服のまま海の中に入っていった。
「ちょ、先輩!」
思わず出た声は思ったよりも大きく、周囲の視線が集まり始める。先輩は制服のスラックスで膝上まで海水に浸かりながらこちらを振り向き、「気持ちいい」と本当に気持ち良さそうな顔で笑った。僕が一人で慌てていると、先輩はまた背を向け、ざぶざぶと海の奥に進んでいく。
空は日が落ち始め、青の中に赤が滲み出している。僕はなんだか怖くなって、「先輩、戻ってきてください」と懇願するように叫んだが、先輩は赤色が海と溶け合い出すまでの間、帰ってこなかった。
「すげー寒い」
「バカなんですか?」
「あ?」
やっと海からあがってきたずぶ濡れな先輩は、暗くなって少し星が見えてきた帰り道でそう言いながらシャツを絞っては震えていた。代わりに僕が自転車を押し、僕の使い古しのタオルを貸してやる。
「なんか、海とか行くと曲が降ってきたりするらしいじゃんかよ」
「降ってきたんですか?」
「ちっとも」
悪びれる様子もなく、即答。僕はため息をつく。
「お前、なんかいい詞浮かんだりしなかった?」
「あんな状況で何が浮かぶってんですか、ただ恐怖でしたよ」
先輩の止まってくれない背中を思い出し、「初めての海だったのに」と言うと、当の彼は「お前海初めてだったのかよ」と声を上げて笑い出した。
「トラウマになりましたよ」
言えば、「ふぅん、じゃあまた行って塗り替えればいい」と口角を上げる。そうだ、この人はこういう人なのだ。僕もおかしくなり小さく笑うと、先輩が駆け出す。今度はちゃんと、僕の手の届く範囲に背中が見える。
「次は、四人で来ような」
振り向いたその顔はあまりにも無邪気で、僕は「そうですね」と返した後、何故か泣きそうになった。
続く