始動(改)
六
翌日、授業中は無心でノートをとり、やっと訪れた昼休みに屋上への階段を駆け上がっていると、ジャカジャカと荒々しい音が聞こえてきた。走ってきたからか、はたまた別の理由か、僕の心臓はうるさいくらいに拍動をとっている。
扉を開けて音が鳴る方へ走っていくと、地べたに座り込んで赤いエレキギターをかき鳴らしている阿部先輩がいた。先輩は一度こちらを見たあと、にひりと口角を上げて、また視線を落とす。
不思議なメロディだった。校内や校庭から聞こえる外野の騒ぎ声でかき消されそうになりながらもしっかりと耳に届くその音は、コード進行はでたらめでストロークもめちゃくちゃなのに、胸がぐうっと締め付けられるような哀愁が漂っていた。それなのにうるさいくらいに歪みがかかっていて、悲鳴のようにも聞こえる。この、奔放で我が道を行く大雑把な男が鳴らす音とは思えない。
立ち尽くしていると、ふと音が止まった。
「どうだ、うめぇだろ」
引き込まれていた僕に、手を止めた阿部先輩が自慢げに言う。
「まぁまぁです」
「てめぇ」
軽口を叩きながら、僕も熱を持った地面に座り、購買で買ったおにぎりの袋を開ける。
「今の、誰の曲ですか?初めて聞きました」
「ん?今のはテキトー」
「……え、即興ですか?」
「あ?あー、だからもう忘れた」
危うく、おにぎりを無駄にするところだった。
「思い出してください!」
「は?」
「さっきの曲、思い出してください!!」
「無茶言うな!」
気づけば、僕は大声を出していた。さっきの曲をもう一度聞きたい。産まれたばかりのあの曲が、このまま死んでしまうなんてあまりにも勿体ないと思ったのだ。それほど、正直あまり上手いとはいえないあのギターが紡ぎ出した音に惹かれていた。
「今の、すごい良かったのに……」
「何だよ、情緒不安定かよオメー」
「何で録音とかしとかないんですか」
「しつけぇー!」
面倒臭そうに仰け反った阿部先輩はもう一度弦にピックをあてがうと、また音を鳴らし始めた。先程のものとは違って、今度はしっとりと、優しげな曲調だ。
「曲とかわかんねーよ、ノリだろノリ」
ぬるい風が肌を撫でる。僕は身体の中に炭酸水でも突っ込まれたかのように血がざぁっと弾けるのを感じた。この人は、もしかしたら、すごい人なんじゃないか?
「お前の頭で録音しとけ」
言われるまでもなく、僕は彼の指が抑えるコードを必死に追いかけた。それは、自分が考え抜いて作り出す退屈極まりない音とは比にならないほど、綺麗で、それでいてどこか哀しかった。
「先輩、音の神様に愛されてるんですか」
真剣に言い放った僕を、阿部先輩は「お前、詩人になれるよ」と小馬鹿にして笑った。
部室に入り浸りながらも僕は、必要最低限の単位は取るために授業には適度に参加していた。幸い、あまり評判の良くない先輩たちと一緒にいるようになったからか、教室内で奴らに絡まれることはほとんどなくなっていた。
「鈴木くん」
移動教室のため、いつものごとく一人で渡り廊下を歩いていた僕を引き止めたのは現代文の先生だった。何度か授業中に指されて発表をしたことはあったが、一人の人間として話しかけられたのはここが初めてだ。
そもそも、学校内で本名を呼ばれること自体が久しぶりすぎて、僕は一瞬、自分に向けられた言葉だと気がつかなかった。
「何ですか?」
「最近、少し様子がおかしいんじゃない」
「……は」
「悪い人達と付き合っていたら、あなたまでそうなってしまうでしょう」
悪い人達、と聞いて真っ先に思い出したのはクラスの奴らの顔だった。が、少し経ってから、この人が言っている悪い人達が阿部先輩ら軽音部のメンバーを指していると理解した。
「何か脅されていたりするの?だとしたら、正直に先生に言ってみなさい」
「いや……いってる意味が、よくわからないんですが……」
言葉が出るまでに嫌に喉につっかかった。なるほど、僕とあの人達は、周囲の人の目にはいじめられっ子といじめっ子のように映るのだろう。
「あなたはこの学校には珍しいくらいに勤勉で、真面目な生徒だったじゃない。それが、最近はどう見たっておかしいわよ。何があったの?どうしてあんな、危ないな子達と一緒にいるの?先生達はあなたに期待をしているの。悪いことに憧れを抱く年頃っていうのもわかるけれど、一緒にいる人間はよく考えて選ばないとダメよ」
「僕は、あの人達と一緒に居たいからいるだけですけど」
「……多感な時期だから何か勘違いしているのかもしれない。あなたはまだわからないでしょうけど、大人の言うことをちゃんと聞きなさい。あんなダメな人達といたら、あなたまでダメになる。今あなたがいる状況をよく見てみなさい」
日本語というものは、どうしてこうも回りくどいのだろうか。先生が言いたいことはよくわかった、僕は国語の成績は良いのだ。だからこそ、ここで退くわけにはいかなかった。
「あんたに、あの人達の何がわかるって言うんですか」
まさか、自分の人生においてこんな陳腐な台詞を吐く時が来るとは思っていなかった。しかし、一度口から出て行った言葉は取り消せはしない。顔に熱が集まっているのがよくわかった。
わかってないのはそっちの方じゃないか。いや、僕だってあの人達のことはまだよくわかっちゃいないが、あの人達のおかげでどれだけ僕の学校生活が、人生が色を持ったか。
毎晩明日が来なければいいと願い、毎朝このまま車にでもひかれないかと考えていた頃を思い出す。
何もわかっちゃいないのはお前の方だ。
「何も見えてないくせに」
先生達が期待を寄せていたという僕が、クラスでどんな扱いを受けていたか、果たしてこの人は知っているのだろうか。
「……とにかく、冷静に考えなさい。もっと将来のことをよく考えて、自分の生活を見直しなさい」
まるで正しいことを教えてあげているとでもいうような顔でありがたいお言葉を吐いて、先生は歩いて行った。僕はこの気持ちをどう伝えたらいいかわからずに、ただ悔しいと思いながらその真っ直ぐ伸びた背中が遠のいてゆくのを見つめる。
チャイムが鳴っても僕はまだそこから動けずに、陽射しを受けながら佇んでいた。何が将来だ。こんな学校に来た時点で僕は、自分の未来に希望なんて持っていないというのに。
黙って突っ立っていると、「なんつー顔してんだよ」と頭上から声が降ってきた。
反射的に顔を上げれば、渡り廊下の突き当たりの、屋上のフェンスを越えた庇の部分で寝転んでいる阿部先輩の輪郭がぼんやりと見えた。僕は急いで目元を拭って「いつから」と掠れた声を絞り出す。
「鈴木くん、とか言われてるあたりから」
「序盤も序盤じゃないですか」
「参戦するタイミングを逃した」
眠っていたのだろうか、目をこすりながら伸びをする阿部先輩の髪は、陽の光を浴びて赤く見える。
「まぁ、しょうがねぇよ」
阿部先輩は言いながら、体制を変えて庇に腰掛け足をぶらんと垂らす。スリッパのような形状になっていた上履きが僕の足元に落下して、パタリと音を立てた。
「そう思われても、しょうがねぇんじゃん。そんなムキになんなって。もっとめんどくさいことになるぞ」
僕は静かに廊下に転がっている上履きを見つめている。阿部先輩が足をぶらぶらと振り回して遊んでいるのが影でわかった。良くない、何も良くない。
「っていうか、うん、そうだな。そんな、無理してあそこ通う必要もないっていうか。真面目な奴ってうちの学校だと少ないから、過保護なんだよセンセー達も。まぁ、そんな感じだし」
どうしたというんだ。聞き分けの良い、僕に気を使うようなことを言う先輩に、気味の悪さを感じる。そうして気づいた。いつも無神経で傲慢なように振る舞ってはいるけれど、その実、人の感情の機微を上手に汲み取ることができる人物なのだ。
きっと、人が離れていくことにも慣れているのだろう。
黙って地面を見つめ続ける僕に困惑したのか、影の動きが止んだ。汗が首を伝う。
「……つか、チャイム鳴ったけど、お前授業」
「行きません」
顔を上げると訝しげな表情の阿部先輩と目が合う。僕が急に言葉を発したため、一瞬だけ目を丸くしてすぐに「俺に怒んなよ」と不服そうな顔でこちらを見下ろした。
「部室行きましょう」
項垂れた上履きを拾い上げる。買った当初の形を保っている僕のものとは全く別の物体のように見えた。
「ちょ、いやだって、今さっき……」
「バンド組みましょう」
「……は?」
上履きを差し出すと、阿部先輩は素っ頓狂な声を上げた。僕はそれに反応も示さず背を向けて、部室へ向かうべく渡り廊下を引き返す。
「おい!」
背中に声を受けても、振り向かずに進んでいくと、少ししてからバタンと派手に着地する音。僕ら以外誰もいない渡り廊下を早足で歩く。これはもう提案ではなく、決定事項だった。
「バンド?」
柏木先輩が眉を寄せ、片目を細めて僕の言葉を反芻する。授業中だというのに、部室には当たり前のようにトランプを持って睨み合っている二人がいた。ずかずかとそこに進入すると、後から阿部先輩がやってきて、ドアを閉める。千葉さんは興味深そうにこちらを見るだけで言葉を発しない。
「だからさー、俺とコイツじゃ趣味合わねーんだって」
「あー、おう、そうじゃん。前やろうってなったけどダメだったんだよ」
「それが、そうも言ってられないんですよ」
僕が言うと、単純二人の視線が僕に向く。
「先生に言われたんですけど、部活動はちゃんと目に見えた活動をしてないと廃部という形になって部室の使用許可が下りなくなるらしいんです。今までは黙認されてた部分も、今年の生徒会長が取り締まりを強化するって言って、軽音部も対象外じゃないんですよ。生徒総会が十月なので、それまでに音楽活動を大々的にやらないとここが使えなくなるんですよ」
「マジで!?」
もちろん嘘だ。声をあげた柏木先輩を神妙な顔で見つめて、さらに語りかける。
「そうなると、ぼくらのサボり場所がなくなって、もう好き勝手に授業中ジェンガしたり酒飲んだりゲームしたり漫画読んだり煙草吸ったりえっちな本読んだりができなくなるんですよ」
迫真の演技だった。阿部先輩も「あ、だからか…」と以前の僕との会話を思い出して納得しているようだった。計画は僕の意のままというところであった。しかし、
「そんなん黙っちゃおけねぇ、殴り込みだ」
「あぁ」
「え」
柏木先輩がトランプを机に放り投げ、勢いよく立ち上がる。それに阿部先輩が続く。予想外の展開である。
「ちょ、ダメですよ!」
「なんだよ、舐められるままじゃやってらんねぇだろうがよ」
「こういう時はな、武力行使だ。しかも俺らじゃなくて森田に言ってくるとはやってくれるじゃねぇか」
話がこじれ始めた。まずいまずい、ドアの前で押し問答を続けていると「はいはい、戻ってきて」と千葉先輩が卓上で手を鳴らした。二人は顔を見合わせて、ぶちぶちと文句を垂らしながら椅子に腰を下ろした。
「いいんじゃん?一回曲やればあとは部室使い放題ってことでしょ?殴り込み行くよりよっぽどイージー条件だと思うけど」
千葉さんの言葉に、狂犬たちはうーんとかでもとか唸っていたが、「学祭、隣の女子高の子達もいっぱい来るじゃん。目立っとけばチャンスあるよ」の一言で柏木先輩は静かになった。ソファの下に散らかっているエロ本はこの人のものだろう。
それでも阿部先輩は「んでも何やんだよ、俺好きじゃねぇ曲なんかやりたくねーぞ」と反論を示し続けていた。僕には考えがあった。
「オリジナルをやるのはどうでしょう」
「は?」
「自分達で曲作るんですよ」
国語教師に売られた喧嘩は国語力で返してやる。作詞なんてものはしたことがなかったが、僕はさきほど燃え上がった闘士の中でそう決心していた。
「あー、そっちのが面白いかもね」
千葉さんが同意する。
「作詞は僕がやりますし、それが気に入らなかったら直してもらっても大丈夫です。」
「曲は?」
「全員でテキトーに作りましょう。意外と簡単に作れるものですよ」
作ったことなんて一回もないが。
「ゔぇーーめんどくせぇよ、とっとと生徒会長シメてジェンガやろうぜ」
「ダメです!」
最後まで渋っていた阿部先輩をなんとか説得し、翌日からギターを持って来るという約束を取り付けた。千葉さんと目が合うと、今にも大爆笑し出しそうなのをなんとか堪えているといった様子で親指をグッと立てた。きっとこの人には全てお見通しだろうと思い、僕も親指を立てて返した。
続く