軽音部(改)
五
校舎の三階、三年生の教室と音楽室と家庭科室が並ぶ階に降りると、当たり前だが授業中のため廊下に人の姿は見えない。代わりに、各教室から動物の奇声のようなものと、先生らしき人物の「静かにしろ」という感情のこもっていない声が聞こえてくる。
その廊下をずうっと歩いた突き当たりのさらに左奥に、なんというか、良く言えばレトロで雰囲気のある、見たままを言えば犬小屋にドアをつけて大きくしてみました、というような部屋があった。
僕はそもそも三階に来たこと自体ほとんど無いし、こんな立入禁止区域みたいな場所を目の当たりにしたのは初めてだったため、見惚れるようにぼーっと突っ立っていると、阿部先輩がその今にも留め具が外れて倒れてしまいそうなドアを重たい音を立てて押した。戸には、それこそ犬小屋のようなプレートにミミズが這うような字で「軽音部」と書いてあった。
「入れよ」と言う先輩に続きその廃屋に足を踏み入れると、壁一面に小さな穴が開いていて、ドアの正面の壁には黒板。その下には、床から少しだけ高く段になっているステージのような場所があり、その右側にはシンバルが錆びたり割れたりしている腐りかけのドラムセット。左側にはアンプが雑に積み上げられ、埃を被っているのが遠目でもわかった。
それよりも何よりも、ドアを開けてすぐ、部屋のど真ん中に置いてあるテーブルに足を乗せた男と、その横に置いてあるソファに寝転び煙をふかしている男二人に僕の視線は釘付けになった。
あれ?今授業中だよな。僕は、自分がそれを言える立場にないことをすっかり忘れてそんなことを考える。
「んぁ?誰ソイツ」
テーブルに足を乗せた男は、その姿勢のまま読んでいた雑誌から目線を外しこちらを見た。雑誌には「ムー」と書かれている。男はもじゃもじゃした肩につくかつかないか程度の髪をおでこの真ん中で分けていて、唇にはピアスが光っていた。
「この前言ったじゃん、森田だよ」
鈴木です、とはこの空間では言えなかった。
「あー、森田。お前が森田ね。あの、一年の不良達をボコボコにしばいたっていう」
どんな伝わり方をしたんだ。というか、先輩が法螺を吹いたな。横目で阿部先輩を見るとにやけた面で「そうそう」と返した。
するとソファに沈んでいた男が勢いよく立ち上がり、じりじりと音を立てて煙草を短くして煙を吐き、「君かぁ」と発した。そのままずんずんと僕に歩み寄り「コイツの世話、大変だったでしょ」と人懐っこい笑顔を浮かべ、阿部先輩の腕を肘で突いた。
黒髪で制服を普通に着こなしている彼は、ずれ落ちていたメガネをかけ直し「千葉優馬です」と名乗った。それだけで僕は、久々にまともな人間に出会えたような気がして、感動して涙が出そうになった。この際、授業中に煙草を吸いながらソファに寝転がってゲームをしていたことなんて、どうでも良いのだ。上履きのカカトを潰していない、制服を着ている、その二点だけでじゅうぶんだった。
千葉さんは「ごめんね、ここキチガイしかいないから」と朗らかに言ってのけ、「で、どうしたの?」と阿部先輩に視線を送った。
「あー、コイツのギターがさぁ、教室に……、いや、入部するって」
説明がめんどくさくなったらしい先輩は、立て付けの悪いらしいドアを閉めながら続ける。そもそも僕は、入部するなんて一言も言っていないのに。
「マジ?いいじゃん。四人いりゃあドンジャラももりあがるぜ」
もじゃもじゃが嬉しそうに言う。
「おう、ジェンガも盛り上がるしな、ガンバコもできる」
先輩が応える。
「は?あの、軽音部なんじゃ……」
「森田、座れよ。コックリさんやるぞ」
僕のまとも過ぎる反論は、もじゃもじゃの無邪気な声にかき消されてしまった。阿部先輩は早々と木の椅子に座って髪に五十音を書き始めているし、もじゃもじゃは床に放ってあった黒いリュックからスタッズがびっしりと付いているゴツい財布を取り出し、「十円玉……」と呟いている。
千葉さんに目をやると、彼はさっさとソファに戻り片手に茶色く透き通った液体の入った瓶を持ち、時々それに口をつけながら相変わらずゲーム機を弄っている。なんてことだ、本当にキチガイしかいない。その瓶には「ウォッカ」と書かれている。ここはギャングの溜まり場か何かなのか。
しかし一方では小学生のような遊びを始めようと瞳をキラキラさせた柄の悪い男が二人。僕が背負っていたギターを渋々戸口の近くの壁にもたれかけると、先輩が「森田!」と僕を呼んだ。
何だかもうすごく疲れてしまった僕が「鈴木です」と訂正すると、もじゃもじゃは目をパチクリさせ、千葉さんは「モリタ・スズキ?」と僕を指差した後にゲラゲラと笑い出した。ダメだ、実はこの人が一番危ないのかもしれない。
僕は椅子を引き、「鈴木翼です」ともじゃもじゃに告げた。
「何で森田って呼ばれてんの?」
「わかんないんです。っていうか阿部先輩以外には言われてません」
「あ、わかった、家庭の事情ってやつか?悪かった、でも大丈夫。俺そういうの気にしないタイプだから」
「全然違います」
もじゃもじゃが視線を逸らし、申し訳なさそうな顔で見当違いもいいところな発言をするので静かに否定する。
「コイツがさぁ、森田童子歌ってたのに嫌いっつーからさぁ」
五十音を書き終えた阿部先輩が顔を上げた。その文字はひどく読みづらく、今までどうやって履歴書やテストを書いてきたのか心配になる程壊滅的で、ある意味芸術的だった。そして、同時に部室のプレートを書いた人物も判明した。先輩は指でペンをくるくる回しながら続ける。
「俺ちょー嬉しかったのに、嫌いとか言うから、じゃあ森田って呼んでやろうって」
別に森田童子のことは嫌いではない、というかむしろ好きな部類だった。でなければ聞かないし歌わない。しかし、何故か今更訂正することも出来なくなってしまっていた。
「あんな辛気臭ぇ歌のどこがいいんだよ、なぁ?男はやっぱりブルーハーツよ。BRAHMANよ」
もじゃもじゃが僕に同意を求めると、阿部先輩が少し不愉快そうに眉をひそめた。初めて見る表情だ。
「でも森…、鈴木はゆら帝とか好きなんだからな。パンクとか聞くタイプじゃねーからな」
阿部先輩が子供のように反論すると、もじゃもじゃは「ふぅん」と興味なさげに十円玉を指先でいじくり回す。
と、ここで急にもじゃもじゃが「あ、俺柏木っつーの、よろしく」と初めて名乗ったため僕は頭を下げた。するとすかさず「ユリ。柏木ユリな」と笑いをこらえるような声。見れば、阿部先輩が意地の悪い笑みを浮かべている。心なしか、部室の空気がヒリつき出し、肌を刺激しているように感じた。
「おい、別に下の名前まで言うことねぇだろ」
コックリさんを提案した時のキラキラ輝いていた瞳は何処へやら。人一人殺していそうな目の柏木先輩が地を這うような声で凄む。
「フルネーム名乗るのが礼儀ってもんだろ?ちゃんと可愛い名前も教えてやれよ、ユリちゃん」
どうやら、柏木先輩は下の名前がコンプレックスらしい。そして、阿部先輩は先ほどの「辛気臭ぇ歌」発言を根に持っていることがはっきりとわかった。柏木先輩は机に勢いよく手をつき、立ち上がる。
「おい、森田が怖がってんだろーが」
「森田を盾にしてんじゃねぇよ、びびってんのか」
「あ?」
「あ?」
「え、え?ちょっと……」
もう完全に森田になってしまった僕は、睨み合う二人と千葉さんを交互に見る。千葉さんは状況を飲み込むや否や「俺、柏木に二億!」と大声で指を二本突き出し、空になった瓶を投げ捨てた。ここに救いはないのだ。そう悟った瞬間、瓶がゴトリと音を立てて床に着地し、二人が同時に殴りかかった。
キャットファイト後、僕は頻繁に軽音部の部室に通うようになった。別に殴り合いに惹かれたわけではない、飲酒や喫煙、ましてやボードゲームに惹かれたわけでもない。流れだ。
その中で気づいたことは、まず柏木先輩はドラム担当ながら8ビートすら叩けないということだった。本人曰く「手と足が別々に動く意味がわからない」らしい。しかし、中学の音楽の授業で教わったドラムをなんとなく思い出しながら教えてやると、最初は「なんだテメェ」「やんのかこら」とメンチを切って来たが、少しずつ自分からも練習するようになり、数日後には簡単な曲をコピーして来た。
所々粗は目立つし、力任せなところもあるが、リズム感があるのかバランスのとれた演奏になっていた。根本的には素直で努力家で、なんというか、扱いやすい人なのだろう。
次に、千葉さんはどうしてこんな所で時間を無駄にしてるんだと不思議になるほどにベースが上手いということ。
僕が即興でテキトーにコードを弾くと完璧に合わせてくるし、きっと高度なのであろうスラップも軽やかに入れてくる。おまけに「上手いですね」と言うと笑いながら「そんなことないよ、森田が合わせやすくしてくれてるんだよ」と謙虚な返事をくれる。ただ、ベースに不自然な凹みがある理由を聞くと「昔、喧嘩した時に、咄嗟にね」と平然と言われ、引きつった笑顔で「そうなんですか」と返すのが精一杯だった。
そして、阿部先輩。
いつものように昼休みに購買でパンを買い屋上へ向かうと、おにぎりを貪っている阿部先輩が手を挙げた。僕は当たり前のように隣に腰を下ろして、「ギター、弾かないんですか」と尋ねた。
「柏木先輩がドラムで、千葉さんがベースってことは、阿部先輩がギターですよね」
二人に聞いたところ、以前コピーバンドを組もうかという流れになったことがあったらしいから、きっと阿部先輩がギターなのだろうと予測した。
「お前、なんで千葉だけさん付けなの」
「本能です」
阿部先輩はおにぎりを詰まらせたらしく、ペットボトルの水を差し出すと躊躇なく飲み込んだ。そして、僕の問いに答え辛そうに口を濁す。
あまり深く聞かないほうが良かっただろうかと、長年人との関わりを絶っていた自分の距離の詰め方に反省していると「なんか、かっこ悪りぃじゃん」と言った。この時代、モテたいから、なんかカッコイイからという理由でバンドを組む奴らもいる時代に、この人はギターを弾くのがかっこ悪いと言う。
「僕がこの前、屋上でギター弾いたじゃないですか」
「え、うん」
「あれ、かっこ悪かったですか?」
「んな訳ねぇじゃん」
阿部先輩は当たり前といったふうに返答する。「そういうことですよ」と言うと「そっか」となんともあっさり納得したようだった。
僕は胸が踊るような気持ちになった。このメンバーでもしバンドを組んだら、という今までの学校生活ではあり得なかった想像が、現実味を帯びてきたからである。
誰かと一緒に音楽をやるなんて考えもしなかったが、あの二人と僕でセッションすれば、なかなかに聴けるのではないだろうか。さらに、阿部先輩のギターと、あの歌声が入ったら。
「バンド、組まないんですか」
興奮を抑えて聞くと、阿部先輩は少し考えた後に「ダメだな。俺と柏木の趣味が全く合わない」と言い切った。
「前もやろうってなったんだけどな、俺とアイツがやりたいもんが違いすぎて気づいたら殴り合いになっててダメだった。千葉は何でもいいらしいんだけどさ」
ああ、ありありと想像できる。二人は好みの楽曲のタイプが真逆だ。おまけにすぐに手が出る。暴力がコミュニケーションの一環なのだろうか。
僕があからさまに落胆すると阿部先輩は「明日、ギター弾いてやるから」と言った。
しかし僕は拗ねた子供のように、ただぼうっと校庭で走り回る男女達を眺めることしか出来なかった。
続く