乱闘(改)
三
翌朝、いつもよりも重たい瞼をなんとか持ち上げながら自分の席で休み時間を堪能していると「鈴木ぃ、金持ってきたかよぉ」と、すさまじい巻き舌で奴らが近寄ってきた。僕というやつはそんなことすっかり忘れていたため、純粋に驚いて「あ、持ってきてないや」と馬鹿正直に口を開いてしまった。
すると大変だ。猿達は「っメェまじでナメてんじゃねぇぞ」「約束しただろうがヨォっざっけんなよコラァ」と独特な日本語を使って詰め寄ってくる。昨日の恐喝を、彼らは約束だと思っているらしい。とんだ見解の齟齬である。グイ、と胸ぐらを掴まれ、これは屋上連行ボコボコパターンだなぁ、ととりあえず一発もらうことを覚悟して目をつむる。
「あー!森田見っけたー」
どこかで聞いた声だった。閉じていた目をゆっくりと開くと、昨日屋上で出会ったあの男がズカズカと教室に入ってきて、僕を取り囲んでいた男たちを押し退け「お前さぁ、ゆら帝は好き?」と問いかけてくる。
周りが呆気に取られる中、ユラテイと二回ほど脳内で繰り返しやっとあるバンドの略称だと気づいた僕は「す、好きです」と今度こそ本当のことを言った。
「よっしゃ」
男がグッと拳を握る。
「森田知ってる奴なかなかいねーからさ、他に好きなバンド絶対当ててやろうと思って、朝から全部のクラス回ってお前探してたんだよ、俺。じゃあ村八分は?ヤプーズは?」
複数人の殺気立った男達の中心に立ち、教室中の視線を集目ているこの状況を何とも思っていないのか、目の前の男はベラベラと話し続ける。このなんとも珍妙な光景に、全ての雑音が遠くに聞こえ、僕の世界にはこの男だけが存在しているような錯覚に陥った。
「す、好きです。あと、たまも好きです」
幼稚園生みたいな返答だと我ながら思った。複数の視線が僕に向けられていることを感じて、顔が熱くなる。手に汗をかいているのがわかる。
「お前、やっぱいい趣味してんな」
なぁ森田、と言いながら男が僕の肩を叩く。昨日の傷が痛んだが、そんなことは気にならなかった。
「森田じゃなくて、鈴木です。鈴木翼」
名乗った声は少し震えていて、男が「ひゃははは」と笑う。
「俺、阿部結城。三年ね」
いつの間にか胸ぐらの手は離れていて、代わりに阿部と名乗った先輩が僕の首根っこを掴み「ちょっと来いよ、俺興奮してきたから責任取れよなぁ」と側から見たら何か誤解を生みそうな事を言いながら、群れの中から俺を引きずり平然と教室を出ていく。
始業のチャイムが鳴るも、そんなことはおかまい無しにずんずんと階段を登って行く阿部先輩の後に続いた。背丈は僕よりも幾分か高い、170中盤だろうか。髪をかけた耳に並んでいる銀色のピアスが、踊り場の窓からさす陽の光を反射してきらきら輝いていて、綺麗だと思った。
屋上の立て付けの悪いドアを足で強引に蹴飛ばしたため、凄まじい音を立ててドアが跳ね返る。眩しい日が踊り場に差し込んで、埃が舞うのが良く見えた。阿部先輩は鼻歌を歌いながら塔屋の上に繋がる梯子に手をかけ、上履きを何度も落としかけながら登っていく。
「おい、早く」
踊り場で呆けている僕を呼ぶ声につられて、登ったことのない梯子に恐る恐る触れる。
「俺いっつもここにいんの。サボり場所に丁度良いんだよ」
慣れない手つきで登り、辺りを見回すと、風が頬を触って心地がいい。確かに、ここは職員室からも教室からも見えないし、校庭やプールを見下ろせて気持ちがいい。
「僕、授業サボったの初めてです」
事実を伝えただけなのに、阿部先輩は「ひゃはは」と笑い声をあげながら転がる。シャツが汚れてしまう、と思ったが当人はそんな事てんで気にしていない様子で「俺、村八分知ってる奴に初めて会った」と寝っ転がったまま僕の目を見て言う。
「僕もです」
「どいつもこいつもさ、耳触りがイイだけの曲をありがたがって聴いてんの。アイドルソング作ってるのは禿げたデブのオッサンだって、皆ちゃんとわかってんのかねぇ」
なぁ?と同意を求められて、頷く。
「意外ですね」
「あ?何が?」
「先輩みたいな見た目の人が、こういう音楽聴くなんて……」
本心だった。華やかな見た目で堂々としていて、制服も着崩し、些細なことで笑う。人生において、何の障害も不都合も無さそうなこの人が、僕と同じ音楽を好んでいるだなんて、俄かには信じがたい。むしろ、禿げたデブのオッサンが作る曲のメインターゲット層であるはずだ。
「そりゃ偏見ってもんだろ。っていうか、それを言うならお前もだよ」
「え、僕ですか?」
「クラシックとか聴いてそうな顔してる」
「小学生の時、授業で聴きました」
「ひゃはは」
先輩は自然な動作で赤いパッケージから煙草を一本取り出して咥え、オレンジ色のライターで火をつけた。僕はギョッとしてしまった。サボりに喫煙、昨日とは比にならない非日常がドッと押し寄せる。
「煙草……、未成年なのに」
「あ?」
「す、すみません」
鋭い視線で睨まれて恐ろしい気持ちになりながら目をそらす。と、すぐさま「なぁなぁ」と子供のような無邪気な声を出し「お前、他何が好きなの?」と煙を吐き出しながら言った。僕が日を遮っているため、阿部先輩には僕の影が落ちている。
僕は思いつくだけのバンド名・歌手名を挙げていった。それは、まるで爆発でもしたみたいに。この日のために、誰にも言わずに大切に取っておいたみたいに。
阿部先輩は「俺も好き」とか「それ知らねぇ」とか「苦手だそれ」とか、相槌を打ちながら僕の口から次々と出てくる言葉を聞いては笑い、煙を吐き出し、自分が好きな曲なんかを教えてくれた。
終業のチャイムが鳴っても、僕たちは話し続けた。人生で初めてこんなに喋った僕は喉がガラガラになって声が掠れてしまい、阿部先輩に「喉、赤ちゃんか?」とよく分からないからかわれ方をした。
それからというもの、阿部先輩は何度も僕のクラスに訪ねてきては僕を引っ張り出して屋上に出向き、新しいCDを流して聴かせてくれた。僕も負けじと好きな曲を聴かせ、タカが外れたように音楽の話をした。僕は阿部先輩のことをほとんど何も知らないし、阿部先輩も僕のことを友達がいない奴ぐらいにしか思っていないはずだ。その関係が、いやに心地が良い。
ある日、最近絡んでくることの無かった猿達に裏庭に連れ出された。生えっぱなしの木と雑草が好き放題やっている裏庭は人が来ることはほとんどなく、人目に付くとまずい事をするのにもってこいな場所だ。そんなスポットを高校の中に作るなよ、と僕はいつも思う。
体育の授業でしか身体を動かす機会のない僕は、彼らのされるがままに突き飛ばされ、ドサっと間抜けな音を立てて地面に這いつくばった。
「お前、なんか最近勘違いしてんじゃねぇ?」
ボス的存在の男が眉毛を釣り上げて不機嫌そうな声音でそう言い、僕を見下ろす。僕はポケットに急いで押し込めたプレイヤーをさりげなく手で庇う。数年間繰り返された暴力から自分の宝を守るためについた悲しい癖だ。しかも今日は運が悪いことに、先輩に阿部先輩に借りているMDプレイヤーなのだ。
「お前、あの三年の奴にくっついてるみてぇだけど、何なんだよ」
子猿の一人が続く。お前にその言葉そっくりそのまま突っ返してやろうかと思ったが、もちろんそんな事をしたら火に油を注ぐどころかガソリンを振りかけることになるので、黙って見上げる。
「お前がアイツとどうなろうと、お前が偉くなった訳じゃねぇんだからな」
蹴り出されたローファーの先が腹にめり込む。鈍い音がして息ができなくなり、じわじわと重い痛みが広がってくる。奴らは笑い出して、一発、もう一発と好き勝手に僕の体を蹴り上げた。頭の中で、どろっとした嫌な感情が流れ出し、ゆっくりと全身を侵食していく。僕がいつ、自分が偉くなっただなんて言ったんだ。そりゃあまあ、少し浮かれていたのかもしれないけれど。
「お前、どうやってあんな変な奴に取り入ったんだよ。金?まさか、身体?」
ボスは卑下た笑みを浮かべ、周りがそれを聞いてギャーギャーと笑い出した。その辺の話題に疎い僕は少し遅れてその意味を理解し、しばらくの間思考が停止する。そして阿部先輩との会話を、あの埃っぽい屋上に聞こえる校庭の生徒達の声を、光を受けてキラキラ光る銀色のピアスを思い出して、途端にブツンときた。
プレイヤーに添えていた手をポケットの中から抜き出して、ボスの顔めがけて拳を握りしめ、全力で振り切った。ボスは一瞬目を見開き、すぐに後ろに避ける。僕の手はボスの鼻先を掠って空を切った。バランスを保てない身体がよろけて、次には鼻に衝撃。ズンとした激しい痛みに目の前が霞み、プレイヤーが滑り落ちて地面でかしゃんと音を立てた。
「んなもんが当たる訳ねーだろ」
声を荒げ、次々と蹴りが飛んでくる。プレイヤーは踏み潰され、形が崩れて破片がそこら中に飛び散っていた。僕は、コイツを殺してやりたいと思った。同時に、このまま死んでしまいたいとも思った。
ボスが「死ねやテメェ」とがなって、足を振り上げる。僕は血と涙でベトベトになりながら衝撃に備えて目を閉じた。しかし、
「正義の味方、レーダーマン」
場にそぐわない危機感のない台詞と、激しい音。どよめき。もしやと瞼を持ち上げると、いつも通り制服を着崩し、野外だというのに上履きを履いた阿部先輩が清々しい顔をして立っていた。その傍らには、ボスが顔を抑えて転がっている。
目が合うと先輩は「ひでぇなお前、その顔」と呑気に言い放った。
やけに彼の周りの空気だけが澄んで見えて、ろくに返事もできずにその光景を目に焼き付ける。
その間にもボスは立ち上がり、先輩に殴りかかった。頬に一撃をくらった先輩が「いて」と鳴くと、他の猿達も一斉に集まってくる。先輩は珍しく切羽詰まった様子で僕に手を差し出し、「逃げるぞ!」と叫んだ。立ち上がれる状況なんかじゃない、身体が痛くて動けない。それでも、僕はその手を掴んでなんとか起き上がり、走り出した先輩の後を夢中で追いかけた。
校門を抜けて雑木林を走り続ける。振り切れたらしく、背後を確認しても誰もいない。
「何で、戸川純なんですか」
「他にいいのが出てこなかった」
僕と阿部先輩は、地面に座り込んだ。アスファルトがひんやりと冷たい。どちらともなく笑い声をあげると、通行人が不思議なものを見るような目でこちらを見たあと、すぐに視線を逸らした。じくじくと痛む唇をシャツで拭うと、白い生地が真っ赤に染まる。
「めちゃくちゃ血が出てるんですけど」
「俺も、殴られただけなのに何でか鼻血が出てんだよ」
先輩の顔を見れば、頬が腫れていて左の鼻の穴から血が滴っている。お互い少し見つめあった後、また気が狂ったように笑い出した。さらに「あ、すみません、借りてたMD壊されました」と粉々になったプレイヤーを思い出して謝ると、先輩は「気にするとこそこかよ」とひっくり返って腹を抑えながら笑い続けた。僕はその姿を見て更におかしくなってしまい、もう声が出ないくらいに笑った。
家に帰ってから、危機感と笑いの関連性について調べたが、そのうちにどうでもよくなって、寝た。
続く