吹っ飛んだ頭(改)
聴き慣れた音階が、脳みその中をぐねぐねと巡っている。
本日は、晴天なり。鬱陶しいほどに青が広がる空の下を、真新しい制服をぎこちなく身に纏った女の子達が歩いている。僕はそれを怨めしい気持ちで見送ってから、一年間履き込んだ何の洒落っ気もないローファーを踏みしめて、彼女達とは反対の方向へ歩き始めた。やがて騒々しい声が大きくなってくるのを感じると、イヤホンを耳の穴の奥までぎゅうっと押し込んでMDプレーヤーの音量をぐんと上げる。年季が入っているためか所々ペンキが剥がれているボロっちい校舎が近づいてきて、僕は今にも朝御飯の白飯と味海苔を吐いてしまいそうな気分になった。
やかましいほどに歪みを効かせたギターと鼓膜を震わせる分厚いベース音に集中しながら玄関をくぐり抜け、底が磨り減った上履きに履き替え、僕が今この世で一番行きたくない場所と言っても過言では無い教室へと向かう。イヤホンから「ぶっ壊せ」と物騒な単語が飛び出し、嘔吐感に拍車がかかる。廊下を歩く僕は、そこら中で阿保みたいにデカい声をあげて騒ぎ立てている生徒を一人一人殴りつけ、蹴り倒し、投げ飛ばす妄想をして少し愉快になったふりをしてみる。口元がにやけそうになるのを慌てて手で隠し、これまたボロっちい木製の戸をガタガタと言わせて開け、誰とも言葉を交わすことなく自分の席に着いた。
予鈴が鳴る。先生が教室に入ってくるまであと五分。僕は真っ黒な黒板を凝視しながら、女子生徒のキャーキャーとうるさい鳥みたいな声と、男のゲラゲラとうるさい猿みたいな声から逃れるために、イヤホンから流れる音に集中する。
三十とちょっとの机と椅子が乱雑に配置されている教室内では、大半の生徒が笑顔を浮かべながら談笑していて、そのほとんどが髪を茶色か金色に染めている。手入れをしていないのは僕と、物静かに本を読んでいたり空虚を見つめたりしている気弱そうな男女数名だけだ。
どうして一見まともそうな彼らがこんな動物園のような学校に来てしまったんだろう、何の間違いが起こったのだろうと考えて、自分もきっと周囲からそう思われているんだろうと気がついた。もっとも僕は、まともというよりは陰気な人間に分類されるのだろうが。そもそも、まともかどうかなんて外から見たところでわかるわけもないのだ、と思い直す。だって、今は大人しく文庫本を読んでいる短髪で中肉中背の彼が、自宅では誘拐してきた幼女を生きたまま解剖して快感を覚えているマッドサイエンティストだという可能性もある。僕も実は優秀なスナイパーで、目立たない生徒に扮して敵から学校を守っているかもしれないのだ。そうだったらいいのに。
長く視線を送り続けてしまったためか、短髪の少年が顔をあげたため、僕は慌てて下を向く。イヤホンは未だ「全てをぶっ壊せ」と身勝手な文句を繰り返している。
僕は目を瞑って、この学校に入るまでの古い記憶を手繰り寄せた。
「パパみたいになっちゃダメよ」
それが母親の口癖だった。
僕には父親がいない。いや、最初っからいなかった訳ではなく、いつの間にか消えていたと言うのが正しい。
記憶の中ではっきりしている父親の姿というのは、小さなプレハブ小屋みたいな工場で大きな機械を操作し火花を散らしている所だ。台所に手も届かぬほどの背丈だった当時の僕は、そんな父親の姿が妙にカッコよく見えて、大はしゃぎをした。「パパ、カッコイイ」「僕もやりたい」と跳ね回る僕に、父は「お前はちゃんと勉強して、いい大学に行くんだぞ」とかなんとか返事になっていない返事をして、笑いながら僕の頭に無骨な手を置いた。
その工場は、その後潰れてしまったんだろうか。それとも、単に僕と母が捨てられたのか、台所に手が届くようになった頃には父はいなくなっていて、母はしょっちゅう出かけるようになった。さみしいと思ったような気もするが、もう今となっては思い出せない。
母は時々ひょっこり帰ってくると、「パパみたいになっちゃだめよ」「ろくに勉強しないと、後々苦労するんだから」「いい学校を出て、早く自立するのよ」と繰り返し唱えながらお酒をチビチビと飲んだ。それらは全て呪いとなり、僕はやがて父をカッコイイと思うのをやめた。
全ては予想に過ぎないが、父と別れた母は父よりは稼ぎのいい相手を見つけたのだろう。しかし、その相手はきっと子供が嫌いなのだ。母は父をバカにするような言葉と、僕をさっさと社会に放り出したいというような言葉をしきりに吐いた。それらを聞くたびに、純真無垢だった僕の心は少しづつ鉛が積まれていくような息苦しい気持ちになったが、従順に言いつけを守った。
学校の授業ではしっかりノートを取り、教科書の文字の羅列を理解し、休み時間も復習に費やした。先生には真面目だと褒められたが、同級生たちにはつまらない奴だと嫌悪され、「虫」というあだ名がついた。意味はよくわからなかったが、大人しい、気持ち悪いと思われているようだった。虫になった僕は、家に帰れば母が酒を飲みながら唱える呪文をおとなしく聞くか、一人で教科書を何度も何度も読み返す。
そうやって、勉強と食事と睡眠だけを繰り返す無味無臭かつ単調な日々の中で、唯一僕の心を動かすものが音楽だった。
小学校六年生の時、音楽の先生がくれた一つのカセットテープがキッカケだ。腰が曲がり、いつも顔をくしゃくしゃにして笑っていた先生は僕に「いつか君に、君の人生に何かを与えてくれるかもしれないし、くれないかもしれない」なんてテキトーなことを言って、血管が浮き出た皮の薄い手で僕の掌にプラスチックケースに入ったそれをのせた。家にあったカセットプレイヤーにテープを埋め込み再生スイッチを押した瞬間の、あのガサついた質の悪い音を、頭の中で何かが爆発したような衝撃を、今でも鮮明に思い出せる。行き場もなく小さな身体の中で彷徨っていた興味や興奮が、音楽という標的を見つけ猛然と突っ走っていった。
それから僕は、少ないが使い道のなかった小遣いを全てカセットテープやCDに費やし、音楽に溺れながら勉強をこなす日々を過ごした。僕を罵倒し、僕には菌があるなどと言って楽しそうに追いかけっこをし合う中学校のクラスメイトが全員馬鹿で中身のない薄っぺらい人間に見えた。同年代の誰もが知らないであろう曲を、世界を、僕は知っている。そんな哀れでくだらない優越感を感じることで、プライドを保っていたのだと思う。なんともイヤな子供だ。
中学三年生になった頃、母はお酒をチビチビと飲みながら「県で一番偏差値の高い高校に行きなさいね」と、まるで決定時事項のように言った。僕がプライドが高く見栄っ張りなのは、母のDNAの賜物らしかった。もちろん僕はそれに、決定事項のように頷くしかない。
しかし、受験当日、試験会場へ向かう途中のバスの中で、何かが弾けた。バチンとたまらない音がして、胸に充満していたどす黒いものが飛び散り、「全てをぶっ壊せ」と質の悪い音が僕の頭の中で確かにそう言った。試験終了時刻になって、何も書いていないまっさらな紙をそのまま提出した。全ての解答欄を埋め、満点を確信した用紙を回収される時の比にならないほどの満足感に襲われる。
帰り道には、中古屋で五千円のエレキギターを買ってしまった。眠そうなオヤジ店員からギターを受け取った瞬間、物心ついた頃からずっと頭の中で渦巻いていた黒いモヤがいなくなるのを感じた。初めて自分の意思でハンドルを切った僕は晴れやかで清々しい気持ちで満たされ、世界がきらきらして見えてスキップなんて似合わないことをしたものだ。
後日、結果を知ったのか、全く勉強をしなくなった僕に腹をたててか、母がお酒も飲まずに「どういうつもり?何考えてるの!?」と問い詰めてきた。ひどく不愉快そうな顔をしていて、まるで僕が知っている母ではないような大きな声で僕を責めるのだ。それがもの凄く馬鹿らしく見えて、大声で笑ってやりたい気持ちになった。
「壊してみただけだよ」
すごく楽しそうな声が聞こえたので驚いたが、それは自分の声だった。母は目を見開いたまま固まり、それから軽蔑するように目を細めて僕を見てお酒をちびちびと飲み始めたため、そこで会話は終わってしまった。
それから僕は、名前を書けば入れると言われていた高校に滑り込みで進学することとなる。母の完璧だったはずな計画が大失敗に終わったこの時、僕・鈴木翼にはめでたく自我が誕生した。十五歳の冬にして、初めて自分の人生が幕を開けたのだ。
華々しい気持ちで大きな決断をしたところで、当たり前にそう上手くいくことはない。現実は、ドラマや映画とは違うのだ。そしてそれに気づく時というのは、大抵もう取り返しがつかなくなっている時である。
そんな訳で、やっと始まった僕の人生は、あまりにも悲惨なものだった。
「てめぇ、なんで今日も学校いんだよ」
「気持ち悪りぃから来んなっつったろ、こら」
イジメにもマニュアル本があるのか?というような、ありきたりな罵倒が飛んでくるのは日常茶飯事だ。髪を赤茶色に染めてワイシャツのボタンは意味をなさず、ズボンを限界まで下げて軽く床を引きずるというユーモアに溢れた格好をしている馬鹿達に囲まれている僕は、髪を掴まれて顔を殴られている。
初めての時は衝撃を受けた。僕は今までに一度も、誰にも暴力を振るわれた事はなかったし、面と向かってこんな低レベルな悪意を突きつけられた事はなかったからだ。足が、手が、全身が震えて喉がからからになった。「やめてくれ」とでも言おうものなら奴らは更に勢いづく。何が楽しいのか、ギャハギャハと下品な笑い声をあげながら僕を叩き、蹴りつけるのだ。
今はもう慣れたもので、できるだけ反応を示さないようにただ耐えるだけだ。抵抗をしてはいけないというのは最初の二ヶ月ぐらいで学んだ。もう少し早く気づきたかった。
始まりは確か、「暗い」とか「気持ち悪い」とかそういう今まで散々言われてきた事を、やっぱりまた誰かが言い始めたからだと記憶している。その陰口は複数人の中で共通認識となり、大声でからかわれる、軽く叩かれる、を経て、めでたく今のリンチへと変貌していったのだった。
僕は、ここではどうも異端らしかった。
芋虫のように丸くなって耐えていると、まるで本当に虫にでも成り下がったような気持ちになる。奴らと同じ人間ではなく、別の何かになったような。傷やあざをこしらえて家へ帰っても母は何も言わない。母の思い通りではなくなった僕は、母の興味の対象ではなくなったのだから、当たり前といえば当たり前だ。
雲がのろのろと流れる青空の下、笑い声が耳に流れ込む。満足したらしい奴らは「明日、三万持ってこいよ」と無理難題を言い残して去っていった。僕が優秀なスナイパーだったら、今頃お前達の頭はそのへんに転がってるんだぞ。
垂れ流れてくる鼻血を手の甲で拭いながら、ズボンのポケットの中に突っ込んでいたMDプレイヤーの再生ボタンを押す。何ともなさげに音が流れて、壊れていないことを確認した。これが壊れたら大変だ、僕の尊厳とプレイヤーはイコールなのだ。
無意識に止めていた息をゆっくりと吸い込み、大きく吐き出す。向日葵の香りがどこからか漂ってきて、吐き気がした。汗でシャツが肌にべたりと張り付く。イヤホンを片耳に差し込んだまま、テキトーに曲を飛ばして手を止めると、中学の夏頃に出会った曲が流れ始める。
「例えば僕が死んだら」
とめどなく流れる赤い液体が唇の上を通り、顎をつたい、シャツの襟を汚すのを感じながら、綺麗な女性の歌声に合わせて口ずさむ。気持ちのいい風を受けつつ、この手すりを飛び越えて飛んでしまえたら、それこそ全てをぶっ壊したことになるんじゃないか、と考えた。飛び降りる瞬間は、性行為の比ではないほど気持ちいいと何かの本で読んだことがある。
痛みをこらえながら柵に手をかけて身体を起こすと、遠く下のほうで運動部員達がチラチラと動き回るのが見える。
「そっと忘れてほしい」
歌詞をなぞりながら、僕が死んだところでそもそも忘れてくれる人さえいないんじゃないかと冷静に分析する。母は、少しは悲しいと思ってくれるのだろうか?僕の葬式でしんしんと泣く母を思い描こうとするも、僕の乏しい想像力では到底無理だった。
「寂しい時は僕の好きな」
透き通る声が右耳から、僕の聞き苦しい声が左耳から身体中へ浸透していく。どうしてか、視界がぼやけてきた。まばたきをしたらきっと溢れてしまうのだろうと思い、目を無理矢理見開いたまま次の言葉を紡ごうとした。しかし、
「菜の花畑で泣いてくれ」
気だるそうな声が、右耳の声とはズレた速度で背後から飛び込んできた。心臓がキュッと縮み、振り向いた僕はさぞ情けない顔をしていたことだろう。
そこには、細くて長いスラッとした指で煙草を挟み、白い煙を吐き出している男が立っていた。髪はウチのクラスのバレー部の女子よりも長く、耳にはジャラジャラとピアスをつけている。口の端には何故か血が滲んでいた。
誰だ、こいつ。
口を開けたまま呆然と立ち尽くしていると、その男は不機嫌そうな顔をしながらこちらに近づいてくる。かかとが潰れた上履きがベタベタとまぬけな音を立てる。
「ひっでぇ顔してんな。何?喧嘩?」
言いながら、煙草の先端を赤く燃やし、ふーっと息を吐き出す。堂々としたいで立ちに萎縮した僕は「は、え、あ、はい」なんておどおどしながら返すしか出来なかった。喧嘩なんて人生で一度もしたことは無いが、「いえ、実は、リンチをされていたんです」なんて素直に言える訳も無い。
すると男は愉快そうにケラケラと笑い出した。僕はもう、片耳から流れてくる音と目の前の景色が混濁して胸がばくばくと悲鳴をあげ、今すぐにでも逃げ出したくなっていた。
「森田童子、好きなの?」
ボロボロの上履きで吸い殻をすり潰しながら、男は先ほどの歌の歌手名を口にする。風が僕と男の髪を揺らした。運動部の声がプレーヤーから流れている曲と混ざり合い、混乱という二文字が頭の中にはっきりと浮かび上がって、真っ白になる。
「違います」
僕はどうしてかまたもや嘘をつき、言い終わると同時に駆け出した。チャチな作りのドアを開け放ち、階段を二段飛ばしで一心不乱に下っていく。足も相当蹴られ殴られをしていたらしくズキズキと痛んだが、それよりも久々に行った人間との会話の方が耐えきれなかったのだ。突然発生した非日常的イベントから、いち早く逃げ出したかった。
思えば、この学校に入学してからまともに人と言葉を交わしたことがあっただろうか?いや、そもそも、僕は今までの人生で同年代の人間と事務的でない意思の疎通をはかったことがあったか?
僕はやはり、圧倒的にまともではないんじゃないだろうか?
追ってきたらどうしようと何度も背後を振り返ったけれど、男の姿は見えなかった。ドクドクと激しい心音が、自問自答を繰り返す僕の耳のすぐ側で鳴っていた。
続く