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年が明けて五日が過ぎた。松の内は休むということだったが、美弥子は、せめて掃除だけでもしておこうと『幻燈』へ行った。
それまで、一度も上がったことがない二階の洋間。
電気をつけると、カバーのかかった本棚やソファー、アンティークのテーブルが、整然と並んで、ヨーロッパの古いホテルのようだ。テーブルの上に、螺鈿細工のほどこされた黒い文箱が乗っていた。蓋を開けてみると、油紙に包まれた手紙の束が入っている。表書きは「警固町 塚本寛之殿」差出人は「須藤彰三」。手紙も、それを包んだ油紙も、変色して今にも破れそうなので、美弥子は、中を見ることはせず、そっと元に戻しておいた。
それから十日後、時折雪の舞うような寒い日だった。一人の年配の客が『幻燈』を訪れた。白髪混じりの角刈頭で、丸顔に団子鼻という、どこか愛嬌のある顔立ちだが、目つきが鋭い。
「私は、昨年の六月まで福岡県警におりました坂井と申します」
須藤は立ち上がって、軽く会釈をした。
「これはこれは。しかし警察のお世話になるような覚えはないのですが」
「須藤さん、私はもう刑事ではありません。警察は昨年、定年で退職しました」
「では、定年後のご趣味に絵葉書集めでも思い立たれたとか」
須藤に言われて、坂井が苦笑した。
「いやいや、生涯、血やら泥やらにまみれた不風流な場所で生きてきた人間ですから、そういう浮世離れした趣味など似合いそうにはありませんが、実は以前から、あなたと一度ゆっくりお話ししたいことがありまして」
「わかりました。うかがいましょう」
須藤は、坂井に、デスクの前にある椅子を勧めた。
「昨年の正月に、警固の塚本賢一さんという人の一家四人が惨殺された事件をご記憶ではありませんか?」
傍らで聞いていた美弥子は、思わず声を上げそうになった。先日、二階で見た古い手紙の宛名にあった名前。
「ああ、あの事件ですか。ずいぶん話題になりましたからね。私も、新聞やテレビで見て知っています」
須藤は落ち着いた口調で答えた。
昨年の正月早々、警固の塚本賢一という資産家の家の一階の居間で、当主夫妻と、高校生の娘二人が血まみれで死んでいるのが見つかった。犯人は今でも捕まっていない。
「私はあの事件を担当し、解決できないまま定年を迎えました」
坂井はポケットからハンカチを取り出すと、それが癖なのかごしごしと顔をぬぐった。
「殺された四人の周辺からは、事件に結び付くようなものは何も出てきませんでした。動機も分からなければ、犯人の指紋も遺留品もなく、貴重品など、盗られたものもないという、まさにないないづくしだったんです」
坂井の愛嬌のある顔が、無念そうにくしゃりと歪む。
「須藤さんは、塚本さんをご存知ですよね。というより、先代同志が、おつき合いがあった」
「まあ、そう言えなくもないですけど。何かと因縁があったのは事実です」
須藤の父の彰三は、戦前から川端町で、洋品店を営んでいた。士族の出で、多彩な趣味人でもあり、上流階級にも広い人脈があって、商売は順調だった。けれど、戦争と、その後の不景気で苦境に陥った。その時に、彰三に金を貸したのが、塚本だった。塚本家の先代の寛之は、戦前はカフェー、戦後はキャバレーやパチンコ屋、金貸しに不動産業と、人間の色と欲につけこむ商売で、一代で財を成した。
「実は、あなたのお父さんは、塚本寛之氏にだまされたのだという話を聞きました」
「戦後、塚本氏が水商売から不動産業に転身し、福岡の財界で地位を築いたのには、父の強い後押しがあったのは事実です。博多はもともと昔からの商人の街で、それなりに伝統や格式を重んじる気風があります。色と欲のからんだ商売で、のし上がった人間を快く思うはずがありません。まして塚本氏が大量の土地を取得した背景には、戦争中のどさくさにつけこんだ、良くない噂もいろいろあったそうです。しかし、塚本氏に、たってと頼まれた父が、それならと後ろ盾になったわけです」
「そういう大恩ある人間を、塚本氏は裏切ったわけですな」
「父は、商売人というよりも趣味人でした。そして、金のためなら、恩のある人間でも平気で裏切るような人間が、この世にはいることを理解できなかったのだと思います。刑事さんは、もしかして、私が父の恨みを晴らすために、塚本さんの一家を殺したと思われているのですか」
坂井は、一瞬あっけにとられた顔になったが、笑い出した。
「とんでもない。それに私はもう刑事じゃありませんよ。今日は、刑事だったら、絶対に口に出せない話をするために来たのです」