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年の瀬が近づいて、絵葉書仲間の懇親会があった。人数は少ないものの、古い絵葉書のコレクターは福岡にもいて、須藤もその一人だった。年に数回集まって、絵葉書の交換会や情報交換をする。
普段はアルコール抜きだが、年末は忘年会ということで、中州の割烹に集まった。お開きとなって店を出たのが九時前で、外は意外にも暖かい。須藤は、店まで歩いて戻ることことにした。
那珂川沿いの舗道をほろ酔いで歩いていくと、さすがに夏場ほどの人出はない。出会い橋を過ぎて、春吉橋との中間あたりまで来た時、前方に桜の木が見えた。時節柄、花も葉もなく、黒ずんだ幹だけがネオンに浮かんでいるが、周りを柵で囲って、しめ縄が巻かれている。
はて、こんなところに桜があったろうかと須藤が首をひねっていると、前方から来た老人が、桜の前で立ち止まり、頭を垂れて手を合わせた。
「あの、ちょっとおたずねします」
須藤は、酒の勢いも手伝って、老人に声をかけた。
「この桜は、なにか由緒がある木なんでしょうか」
老人は須藤を見て、笑みを浮かべた。顔全体に深いしわが刻まれて、目がどこにあるのかも定かでない。
「話せば長いんじゃが、お急ぎかな」
「いえ、急いではいません」
老人はうなずくと、桜の木から少し離れた、丸太で作ったベンチに、よっこらしょと腰を下ろし、手招きするので、須藤も、老人の隣に腰かけた。
「あの桜の木があるところには、もともとは井戸があったんじゃ」
そう言いながら、老人は桜を振り返った。
「ここ西中洲は、古くからの歓楽街。この先の春吉は、戦後は赤線があった色街でな。そこで働く女たちの中には、その井戸に身を投げた者もおった。病いで死んだ女を、井戸に投げ込んだという話もたくさんある」
須藤は黙ってうなずいた。
「ここに舗道を作ることになった時に、何回舗装をしても、三日もすると、井戸のあった場所に、大きな穴があいてしまう。業者が気味悪がって、町内の年寄りに話を聞いて、その井戸の由来が分かった。それで、市とも相談をして、供養のために植えられたのがこの彼岸桜」
「なるほど」
「苗はすくすくと育って、その名の通り、時には三月の中旬から花をつける」
「花は、死者たちの御霊を鎮めることができたんですね」
「さあ、それはどうかな」
老人は、暗い川面に目を向けた。
「そこの桜の木の前で、店を出している屋台は、すぐに店が変わった。わしも直接話を聞いたわけではないが、花の頃になると、携帯で撮った写真に妙なものが映り込んだり、夜が更けて若い女が立っていたりするらしい。そんな話が広がって、とうとうその一角からは、屋台が撤退したということだ」
夜の世界に身を落とし、言葉にはできないほどひどい目にあって、どこの誰とも分からぬまま、命を落とした女たちの怨みは、未来永劫消えることはないということか。
「わしくらいの年になると、悲しいことも、むごいことも、たんと見聞きした。死人を見た、死人に会ったという話を聞いたことも、二度や三度ではない。死ねば誰でも仏になって、極楽に行けるという話も、悼んでくれる者がいればこそ。死んで、物のように打ち捨てられた身には、そう言われてもというところであろう。だから、わしのように、縁もゆかりもない人間でも手を合わせて供養してやれば、ほらこの通り」
そう言いながら老人は手のひらを開いて見せた。
そのしわだらけの手に握られていたのは、薄紅色の桜のはなびら。しかしよく見れば、その一枚一枚に目があり、鼻があり、唇があって、白い女の顔になる。
須藤がたじろぐと、折から吹いてきた風が、花びらを一瞬に川面へ散らせて、あとは闇になった。
須藤は、ゆっくりと腰を上げた。いつのまにか老人の姿も消えている。この季節は、海から吹く風の音が、どこか女たちのすすり泣く声にも似て、歩き出した須藤の背中を追ってきた。