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「実は、これからお話しすることは、あまりに突拍子もないので」
佳つ江はそう言いながら、息を整えるようにひと口茶を飲んだ。
「あの写真の女性に会ったのです。それも二度」
須藤の表情は変わらない。
「私、昔は博多の券番で芸妓をしておりました。三年ほど前に引退したのですが、月に二、三度地方の助っ人を頼まれて、お座敷に出ることがあります。先月の半ばも、お座敷が引けて、帰って来たのが、ちょうど今時分でしょうか。そこの橋のたもとに、和服の女性が立って会釈をするので、その時は知り合いの人かと思ったのです。でもあとから考えてみたら、着物の柄も、髷の結い方も、何か違う。そしたら一昨日の夜、同じ女性が、その橋のたもとに立っていました。とっさにあの写真の人だと思いました」
「なるほど」須藤は真顔でうなずいた。
「驚かれないんですね」
「いや、驚いています。ただ……」
「そういうこともあるかもしれないと」
傍らで聞いている美弥子も、このやり取りに秘かにうなずいた。
夜、この店で店番をしていると、誰もいないはずの二階で足音や話し声がしたり、地下室で水音がすることがある。それが、この古い建物のせいなのか、いたるところに置かれている、人間よりもはるかに長いい刻を経た様々な道具や手紙の類いのなせる業なのか、美弥子にはわからない。初めの頃はびくびくしていたが、ここににずっといるうちに、いつのまにか慣れた。
「正体がわかった瞬間は、腰が抜けそうでした。怖いし、気味が悪いし。その人は、私に背を向けて、ゆっくり橋を渡っていき、気づいた時はもう姿が消えていました。一足ごとに影が薄くなっていくようなその後ろ姿が、なんともいえないくらい寂しげで」
佳つ江は、膝の上にきちんと揃えた指先に視線を落とした。
「こんなことを言ったら、お笑いになるかもしれませんが、もしかしたらあの女性は、私と何か縁故があるんじゃないかと思いました。二度も、私の前に現れたのは、何か私に伝えたいことがあったんじゃないかと。ですから、あの写真の女性の身元がわかればと、今夜おうかがいしたのです」
「そうですか」
須藤は、気の毒そうな顔をした。
「あの絵葉書の出版元が、福岡の写真館だということは分かるのですが、モデルになったのが誰という記録は、残念ながら残っていません」
「そうですか」
「けれど、あの絵葉書は、女性の美しさといい、表情や仕草といい、カメラのアングルや色の入り具合にしても、同時期に作られた美人絵葉書の中でも際立って美しいものです。そう言われれば、あの女性、どこか貴女に似ていないこともないような気がしますよ」
「恐れ入ります」
佳つ江は、軽く頭を下げ、微笑みながら言った。
「あの絵葉書、ご主人のお気に入りなんですね」
「こうして古いものに囲まれていますと、過ぎ去った時間と今との境界があいまいになるようですね。どの時代も、たくさんの人たちが生きて、様々なことを思い、日々の営みを重ねていた。古い手紙の中には、その人たちの思いがせつせつと綴られているものもあります。そういう世界がすべて消えて失くなったと思うのは、私たちの側だけで、もしかしたら今でもそこにあるのかもしれない。見えないだけでね。けれど、それを拒まない人には、なにかの拍子に見えるのかもしれませんね」
「ほんとにね。わずかの間に、雲をつくような高層ビルが立ち並んで、昼も夜も音と光があふれ、街は、おとぎ話の世界のようになりました。この街を歩くと、なんだか自分が、有史以前の化石にでもなったような心持ちがします。過ぎていった時を懐かしむ私の心が、あの写真の女性を呼び戻したのかもしれません。そんなことを言うと、お前は長く生き過ぎたのだと言われそうですけど」
そう言うと、佳つ江は腰を上げた。
「お時間を取らせてしまって申し訳ありません」
「とんでもない。またいつでもおいでください。お待ちしておりますよ」
佳つ江が去っても、部屋の中には、まだその残り香が漂っている。
「さて、そろそろ、終わりにするか」
須藤は、帰り支度を始めた。美弥子は黙って会釈をして、出ていく須藤を見送った。しまい忘れたのか、須藤の机の上に、あの美人絵葉書が置かれている。美弥子は、絵葉書を手に取って、じっとそれをみつめた。
旭日旗が敷かれたテーブルに頬杖をついて、どこか物憂げな表情を浮かべる女性。この人は、どんな人生を生きて、どこで、なんで死んだのか。幸せだったのか、不幸せだったのか。
問いかけるような美弥子の視線の先で、その唇の紅が、鮮やかな血の色となって、ひと筋流れ出た。