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骨董絵葉書館  作者: サニー
第一章 長門峡
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「自分は祇園町で祖父の代から醤油造りをしている家の息子でした。実家には両親と兄夫婦がいて、兄が家業を継いでいました。ですから自分は親から大学にやってもらって、将来は教師になるつもりでおりました」

 

 けれど、佐伯が大学に入学した昭和十六年の冬に太平洋戦争が始まった。


「自分には好きな人がいました。実家の手伝いにきていた千鶴という一つ年下の可愛い娘です。千鶴とは幼なじみで、家族も自分たちのことを認めていてくれて、自分が大学を出たら所帯を持とうと二人で話し合っていました」

 

 開戦からしばらくは、マレー沖でも勝った、シンガポールでも勝ったと、景気のいい知らせに国中が沸いた。けれど一年ほど経つと、次第に風向きが変わり始めた。


「間もなく南方に出征していた兄が戦死したという報せが届きました。兄夫婦には、まだ二才にもならない女の子がいました。後継ぎを失った私の両親や兄嫁の悲嘆は、直視することができないほどでした。普通に平凡に暮らしていた人間にとっては、なぜこんなことになるのか、何もわからないうちに、あらゆるものが戦争一色に染まっていきました」

 

 開戦から二年後の、昭和十八年の六月に、学生に対して行われていた徴兵猶予が停止された。


「世の中のめまぐるしい変わり様を見て、自分は、日本は戦争に負けるんじゃないかという気がしました。けれど自分にとってはそんなことはどうでもよかったのです。もう少しすれば大学を卒業し、千鶴と結婚して一緒に暮らすはずだった。それが戦争のせいでなにもかも駄目になりそうでした。戦争をすることにどんな意味があるのか、自分にはいくら考えても分かりませんでした。とにかく一日もはやく戦争が終わればいいとそればかりを考えていましたが、そんなことは口が裂けても言えませんでした」

 

 一度は止んでいた雨がまた降り始めたのか、さわさわと密やかな雨音が聞こえてきた。佐伯は闇に降る雨に目を向けた。


 十二月、佐伯の、四国松山航空隊への入営が決まった

 出征する前の晩に、佐伯は那珂川の河畔を千鶴と二人で歩いた。冬の河原には他に人影もなく、二人は言葉少なに南へ南へと歩き続け、やがて春吉の橋が見えてきたところで、千鶴は歩を止めると、振り向いた佐伯の胸に自分から体を投げかけてきた。。

「彼女の体に触れたのはその時が初めてでした。それが戦場に出向く自分に対する、千鶴の精一杯の気持ちだと分かっても、自分にはどうすることもできませんでした。戦地に行けばすぐにでも死んでしまうかもしれない人間が、彼女の人生に傷をつけるのは許されないことだと思いました。その時の僕にできたのは、彼女の柔らかなぬくもりを、ただ力いっぱい抱きしめることだけでした」

 

 その佐伯の思いが千鶴にも伝わったのか、千鶴はややあって体を離すと、聞き取れないくらいの小さな声で言った。


「必ず帰ってきてくださいね。私、おばあさんになっても貴方が帰ってきてくれるのを待っていますから」

  

 千鶴は震えていた。出征する人間にそんなことを言えば非国民と罵られる時代に、その言葉を口にする勇気を振り絞った、千鶴の一途な思いがその震える体から伝わってきた。

 

 それから四ヵ月後、佐伯の配属された部隊は、松山からフィリピンへの出陣を命じられた。


「その命令を聞いた時、今度こそ本当に終わりだと思いました。自分たちは、飛行機ごと敵国の戦艦に体当たりする特攻隊としての訓練を受けてきたので、戦地に行く時は即ち死にに行く時でした。結婚して一緒に暮らすことはおろか、もう二度と、千鶴の顔を見ることさえできぬかと思うと、気が狂いそうでした」

 

 山口から来ていた兵士に長門峡の絵葉書を譲ってもらい、千鶴に別れを告げる便りを書いた。しかし、その葉書を受け取った千鶴は自宅の納屋で首を吊ったのだった。


「外地で千鶴が死んだという報せを聞いた時、自分は奈落の底に突き落とされたような心持ちがしました。千鶴を失った悲しみだけではありません。自分が軽はずみに、別れの言葉など書かなければ千鶴は死なずに済んだのではないかという後悔にさいなまれたのです。たとえ何年かは私を待っていたとしても、月日が経つうちに思い出も悲しみも薄れて、やがて子供や孫たちに囲まれて幸せな人生を生きることができたかもしれない。自分の書いたこの一枚の葉書が、千鶴の未来を奪ったのだと思うと、悔やんでも悔やみきれない、死んでも死にきれない気持ちでした。自分は千鶴を心から愛していると思い込んでいながら、実は愛することの本当の意味をわかっていなかったのです」

 

 美弥子は深くうなずいた。佐伯のその無念の思いが、一枚の葉書を求めて、時空を越え『幻燈』にたどりついたのだろう。     


「どうか早く千鶴さんのところへ行ってあげてください。千鶴さんは、あなたを恨んでなどいない。きっと向こうであなたが来るのを待ちわびておられますよ」


美弥子の言葉に、佐伯がかすかに微笑んだように見えた。


「お世話になりました」

 

 佐伯は立ち上がって深々と頭を下げた。店を出る佐伯を送って、美弥子も戸外へ出た。 雨はもう上がって、夜の闇が薄くなり始めていた。佐伯は絵葉書を握りしめ、もう一度美弥子に会釈をすると、人気のない路地を遠ざかっていった。





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