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坂井という元刑事が『幻燈』を訪れた翌朝、福岡の街は珍しい大雪になった。須藤はいつもよりも一時間ほど早く店に行って、店の前に積もった雪かきをしていた。
「おはようございます」
隣りのジャズ喫茶のドアが開いて、チャップリンのような髭をたくわえた恰幅のいいマスターが顔を出した。
「おはようございます」
須藤も掃除の手を休めて会釈をした。
「よく降りましたねえ。何年ぶりかなあ。こんな大雪」
マスターはそう言いながら大き目のスコップを手にして、鼻歌を歌いながら、店の入り口と道路に積もった雪を掻き始めた。二十分ほどして、作業が一段落した須藤が立ち上がって腰を伸ばしていると、再びマスターが声をかけてきた。
「そういえば、おたくはずいぶん遅い時間まで開いてることがあるんですね」
須藤はマスターの言葉に怪訝な顔をした。
「いえね。店のドアは閉まってるし、電気も消えてるんですけどね。私が帰る頃、奥の部屋から薄く明かりがもれていることがあるんですよ。いつもはブラインドが下りていて中は見えないんですけどね。この前たまたまブラインドが起こしてあって、髪の長い若い娘さんが、奥の部屋のデスクに座っているのが見えたんです」
須藤は黙ったまま、ただうなずいた。そういえば去年の夏ごろだったか、事務服を着た若い女性が入ってきて、須藤にいきなり「この店で働かせてくれないか」と頼んだことがあった。もとより人を雇うほどの商売でもなく、しかもその娘がひどい顔色で、まるで病人のように見えたので、丁寧に断った覚えがある。その思いつめた様子や、断られた時の落胆ぶりが尋常ではなかったので、須藤の記憶に鮮明に残っていた。
須藤はほっと小さく息をつくと「あれは親戚の子でね。時々店の手伝いに来てもらってるんですよ」と答えた。あの娘は須藤が気づかなかっただけで、あれからずっとこの店にいたのかもしれなかった。生ききれなかった思いを抱いて、古い絵葉書に囲まれながら。それでも彼女があの頃よりは少しは幸せでいられるのなら、そのままこの店にいてくれて構わないと思いながら、須藤は店を開けるために、玄関に置いてある『幻燈』の看板を抱えあげた。 <完>