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西鉄福岡駅の南口を出て、大丸の前の信号機を渡った角に小さな靴屋がある。その靴屋から路地を曲がって少し行くと橋がかかっていて、古い民家を改造した『幻燈』という骨董屋はその橋のたもとにあった。隣りには福岡でも老舗のジャズ喫茶が軒を並べている。
藤村美弥子がその『幻燈』のレジに坐るようになったのは梅雨の最中だった。『幻燈』に通い始めて二週間ほどすると山笠が始まって、博多の街は年に一度の祭りの熱気に沸いた。
美弥子は今年二十八になる。『幻燈』で働くようになるまでは、大通りを隔てた大丸の先の証券会社で、OLとして働いていた。暮らしに不安はないものの、金がすべて、金以外には何もない金融の仕事にはまったく向かなかった。内向的な性格で友達と呼べるような友達もできず、日に日に職場に行くのが苦痛に思えるようになった頃、『幻燈』の店先の「店番求ム」という貼り紙に出会った。墨で書かれたその文字の力強さに引き寄せられたように、美弥子はふらふらと店の中に足を踏み入れた。
奥の部屋の事務机の向こうに、眼鏡をかけた初老の男性が坐って、何か書き物をしていた。
「あの、私……」
美弥子がおそるおそる声をかけると、男性は顔を上げた。
「表の貼り紙を見ました。私、藤村美弥子といいます。ここで……雇っていただけませんか?」
その言葉がとっさに口をついた。男性は眼鏡を額の上に上げてじっと美弥子の顔を見た。
「私が帰った後、夜の七時から十一時くらいまで店番をしてくれる人を探しています。時給は七百円。それでよかったら、明日からでもきてください。私は店主の須藤です」
美弥子の転職は、そんなかんたんなやりとりであっさりと決まった。さすがに翌日からというわけにはいかなかったが、美弥子は二週間ほどして証券会社を辞め『幻燈』に通うようになった。
『幻燈』は不思議な店だった。通りに面した三畳ほどの部屋には普通の骨董屋と同様に、年代物の皿や壷、古いカメラやラジオなどが置かれていたが、奥の部屋の中央には大きな木製のテーブルがあり、その上には長方形のプラスティックのケースが並んでいて、古い絵葉書がぎっしり詰まっていた。四方の壁にも一面にセピア色の絵葉書がディスプレーされている。
「この部屋全体で四万枚くらいですかね」
須藤は言った。日本の絵葉書だけでなく、美しく彩色された外国の絵葉書もたくさんあった。百年以上前に作られたものもあるのだという。
「テレビもビデオもなかった時代ですからね。昔の人たちにとって、絵葉書はとても便利な情報源だったんです。だから何度も爆発的なブームが来て、ありとあらゆる種類の絵葉書が作られた、そんな時代があったんですよ」
須藤はもう二十年以上も前からその古い絵葉書を集めているのだと話した。
<アンティーク・ポストカード>初めて耳にする言葉だった。しかも、その古い絵葉書一枚に、時には五千円とか一万円とかの値がついて、それを買う人がいるということに、美弥子は驚いた。
「セーヌ川の河畔には、こんなアンティークの紙物の露店が出るんです。まあ日本じゃ、こうして店を構えていてもお客さんはほとんど来ないんですけどね」
そう言って笑う須藤の言葉どおり、一晩に一人でも客があればいいほうで、店の収入のほとんどは、ネット通販によるものらしかった。美弥子は店のかたわらを流れる川の水音を聞きながら、須藤に言われたとおりに、古い絵葉書を一枚づつビニールの袋に詰めて夜を過ごした。大通りから少し入っただけなのに『幻燈』の店内は、夜は車の音もほとんど響かず、都会の喧騒が嘘のようにしんと静まり返っていた。