第一章 4-2
4-2
葬儀は雪が降る中、ごくひっそりと行われた。グラーブとオルソの他に立ち会ったのは、カーニャ、下男、レオーネ王の遣いであるサンティーニ、建築家ガットと数名の庭園担当の親方のみである。
娘は眠っているだけだと繰り返すグラーブを目の当たりにして、数名の親方は、こいつは本当に頭にきちまってるぞ、とこっそり目配せを交わした。
明晰な建築家は、天才造園家が狂ってなどいないことを見抜いた。が、そこは個人の事情と割り切り、口を挟まないことに決めたらしい。沈痛な面持ちをしたサンティーニと悔やみの言葉を述べ、早々に墓地を立ち去った。親方たちもそそくさと帰って行く。冷えた身体を温めに、これからどこかのカフェか酒場へ、一杯引っかけに行くのだろう。
カーニャと下男は家を暖めておくから、と先に屋敷へ戻った。
「旦那様をよろしくお願いいたします」
去り際にカーニャはハンカチで目頭を押さえつつ、白い息を吐いてオルソに言った。まだ墓の前に立っている後姿に気遣わしげな視線を向けながら、
「思い余って早まった真似をなさいませんように。ご病気もお持ちですし、お風邪を召しませんよう、早いうちにお帰りくださいませ」
「分かった」
例によってカーニャに対しては大人しく返事をし、オルソは二人を見送った。
しんしんと雪が降り続く。
肩や頭に降り積もる雪を何度か払ってから、オルソは言った。
「いつまでそこにいるつもりだ?」
「先に帰りたまえ」
背を向けたまま、陰気な声でグラーブが答えた。彼の方は、自分にどれだけ雪が降り積もろうと構わないらしい。棺が埋められてから、微動たりともせず立ち尽くしている。
「カーニャに、あんたの面倒を見るように言いつけられた」
「自分の面倒ぐらい自分で見られる」
「俺は見張っているからな」
「勝手にしたまえ」
それきり会話が途絶えた。
雪は一向にやむ気配がない。
さらに何度かオルソは雪を身体から払い落とした。冷気が、分厚い外套と喪服を通して身体の中にまで染み込んでくる。
落下する純白の向こうに、コートの上からでもそれと分かる痩身が見える。その後姿が段々と見辛くなってきた。雪が激しくなったからではない。
グラーブは一度たりとも雪を払い落としていなかった。
黒が、冷たい白に徐々に浸食されてゆく。
「くそ」
オルソは呻いて、ずかずかと師匠に歩み寄った。腹立ち紛れに、思い切り手荒に頭や肩や背をはたいて、髪や衣服に積もった雪を落とした。それから彼はグラーブの左の二の腕を掴み、有無を言わせず墓地の出口へ引っ張って歩き出した。引き摺るといった方が正しい表現かもしれない。
「何をする」
「帰る」
「君だけ帰ればいい」
「明日また葬式を出すのは御免だ」
「私が自殺をするような人間に見えるかね」
「今のあんたを放っといたら、墓と一緒に雪に埋もれちまうだろうが」
「実は、それもいいと思いかけていたところだ」
その台詞を聞いた途端、オルソの頭にかっと血が昇った。何か違うことを言う筈だったが、舌が勝手に言葉をすり替えた。
「俺まで巻き込むな!」
「君が勝手にここにいるだけだろう」
「だからそれはカーニャに……」
言い合うのも馬鹿らしくなり、オルソは口を閉ざした。
それは向こうも同様らしい。
「分かった」
陰気にグラーブは言った。
「手を離したまえ。帰ろう」
二人は並んで帰路を辿った。双方共に終始無言だったが、途中、グラーブが一度だけ尋ねた。
「今の私は、そんなに情けないかね」
「ああ」
オルソは容赦なく答えた。
「見ていて苛々する」
当然である。人形にしろ人間にしろ、十年間育ててきた娘が死んだのだ。本来なら大声をあげて泣き崩れてもおかしくはない。
それでも、師匠の打ちひしがれた姿は無性にオルソを苛つかせた。ただでさえ陰気な男がひしゃげたところで大差ない。そう思おうとしても駄目だった。一体何が駄目なのか、自分でも分からない。
帰宅した二人を、カーニャは心底ほっとした表情で出迎え、雪に濡れたコートを受け取った。コートだけでなく忌々しい喪服も脱ぎ捨て、オルソは普段着に替えた。
グラーブも着替えてはきたが、黒い着衣には変わりがない。
暖炉の前で向かい合った師弟が揃って黙々と早めの夕食をとったのを見届けると、カーニャと下男は気を利かせたつもりなのか、さっさと後片付けを済ませ、いつもより早く自分たちの家へ帰った。
取り残されたオルソはいい迷惑である。
彼とて伊達に十五年以上も戦場にいた訳ではない。味方から死者が出たときの仲間の励まし方も知っていれば、士気をなくした兵士を奮い立たせる術も持っている。我が子を死なせた父親の隣で、夜通し酒を飲んだこともある。
しかし、ここは戦場ではない。戦時と平時では心理状態が全く異なる。しかも、グラーブ・ヴァンブラは兵士でない上、常人からいささか逸脱した人間である。
普段は頼もしい父親が悲嘆にくれる様を、不安と戸惑いを感じて見つめる子どもの心境に似ているのかもしれない。それがどんなものなのか、親のないオルソには知る由もないが。
家の中なら凍死する心配もない。
放っておいて寝てしまおうかとオルソは思ったが、まだ宵の口である。といって、師匠の娘を弔った夜に盛り場をうろつく気にもなれなかった。彼とてプルシナの死を悼んでいるのである。仕事も溜まっているが、とても取りかかれる心境ではない。
グラーブの方はというと、当然だがオルソよりも酷い状態だった。食事の後でしたことといえば、椅子をテーブルから暖炉へ向けただけである。光のない瞳で炎を眺めるでもなく、パチパチと薪のはぜる音に耳を傾けるでもない。仕事どころか、常に俗人から遠い彼方を漂っている思考でさえ、今は完全に停止しているのが明白だった。
見ていて苛々する。
白い横顔を眺めながら、オルソは墓地からの帰路で吐き捨てた言葉を、心の中で繰り返した。
それならさっさと自室へ引き上げればいいのだが、これまた腹が立つことに、この陰気な男を置いて何故か去り難い。
何を喋れば良いのか、何をすれば良いのかも分からない。
仕方がないので席を立ち、オルソは自分のためにワインを、腑抜けのためにブランデーを手にして戻ってきた。彼は持ってきた物をわざと無粋に音をたてて各々の前に置き、師匠のグラスにブランデーを注いでから、暖炉で温めている湯を雫が飛ぶほど勢い良く注ぎたした。自分のグラスにはなみなみとワインを注ぐ。
重い沈黙を破ったのはグラーブだった。
「東方のトゥールス山脈の向こうに、小国がある」
白い横顔を弟子に向けたまま、彼は暗い声で語り始めた。
東方のトゥールス山脈の向こうに、小国がある。
山脈のこちら側と向こう側では、魔術に対して示される反応が正反対である。こちら側では魔術も単なる魔法もまとめて胡散くさいものと見られ、国によっては、両者とも弾圧されるほどに魔術は軽んじられ、廃れている。
山脈の向こう側では、魔術が重要な学問として体系づけられ、実生活でも頻繁に使用されている。学ぶ者は理論、実践ともに修めて初めて魔術師と呼ばれ、中途で脱落し半端な術しか使えない者は魔法使いとして、いささか軽んじられている。
青年は山脈向こうの、とある国で生まれ育った。代々魔術師の家系であり、本人も優れた資質と探究心を兼ね備え、若年で大学の教鞭を取るほどの能力の持ち主だった。
魔術師はその国では最高の知識階級であり、畏敬の念で周囲から見られた。若いうちに高い地位を得た青年は、彼にふさわしい家柄のやはり若い女と結婚した。夫がいささか研究に没頭しがちになる以外は、おそらく幸福な夫婦だっただろう。
娘が一人生まれる頃には、青年は既に明らかにされている魔術を全て修めてしまった。彼は、周辺諸国でも屈指の魔術師となった。一度は国家の頭脳として招聘されたが、自分には研究が向いていると、年配の魔術師と共に研究機関を作り、更なる自己の向上と術の開発にいそしんだ。
能力に満ち溢れ、挫折を味わったことのない若者は恐れを知らない。魔術の研究は留まることなく、とうとう青年は、自然界の最高位にある精霊の支配を目標に定めると宣言した。山脈のこちら側で言えば自然界の神ともいわれるような存在を、人の分際で使役するというのである。
周囲の全員が止めた。身の程に余る術は身を滅ぼす。実際、最高位の精霊がその姿を垣間見せることもあるのだ。人が加護を願い、聞き届けられれば、その強大な力の一端を貸してくれる。
それで充分ではないか。大抵のことは中位にある精霊と契約を結べば事足りる。第一、魔術の根本は自己の果てなき向上にあるのだ。それによって得られる力は副次的なものに過ぎない。
青年にとって、使いこなす術が強大であればあるほど、それは己の向上を意味するものだった。幼少の頃から父に言い聞かせられてきたにも関わらず、少年期に魔術師を目指した精神を、彼は忘れていた。地位や力を得るにつれ、知らず道を踏み外していたのである。
彼には、既に師と呼べる者がいなかった。魔術師の頂点に立ってしまったからだ。老師たちの諫言は、彼にとって負け犬の遠吠えに過ぎなかった。
青年は複雑極まりない結界を編み上げ、最高位の精霊、氷雪の女王イーサを呼び出した。彼はイーサに敬意をもって接することなく、契約による己への服従を要求した。
畏敬、信頼、崇拝の念をもって人外のものに臨まねば、あとには狡知と力による競り合いしか残らない。
結果、所詮人でしかない青年はイーサに敗れた。結界の中にいた青年自身は右腕を凍結させられただけだったが、怒り狂った氷雪の女王はそんな報復では満足しなかった。全てを見通す目で青年の最も大切なものを見抜き、代償としてそれを奪った。
イーサは高く笑いながら青年の妻子を本人の前へ連れてきた。そして、若い妻とまだ赤ん坊の娘を目の前で凍りつかせ、そのまま焼き菓子を割るように粉々に砕いた。それから彼女の力では崩せない結界の中にいる青年に、今は無理だが徐々に命を奪ってやると宣言し、結界ごと怒り任せに平手で叩き飛ばした。
青年は激痛と共に意識を蘇らせた。全く見知らぬ場所に彼はおり、見知らぬ人間が彼の知らない言語で話しかけてきていた。
激痛の原因は、右肘から先にあった。周囲の者は意思疎通ができない異国の青年に、どう説明したものか困惑していたが、彼はすぐに悟った。いや、悟らざるを得なかった。
右肘から先が切断されていた。組織が壊死して、そうせざるを得なかったのだ。
青年はすぐに、自分がトゥールス山脈の西側へ飛ばされたのだと察した。そこでは魔術がほとんど使用されていなかったからである。安易に術を使えば奇術師か化け物を見るような視線を浴びるのは明らかだったが、青年がその危険に晒される心配は、今のところはなかった。なぜなら彼は、先の戦いで魔力をほとんど使い果たしてしまっていたからだ。
元来知能が高く年齢も若い。言語の習得は早かった。すぐに自分がどの国へ飛ばされたのか把握した。西の海に浮かぶ島国だった。体力も衰え一銭も持たない青年が単独で移動できる距離ではなかった。しかも彼が愛する妻子は今やこの世のどこにもいない。
言葉が通じるようになっても、青年と住民の溝は埋まらなかった。自分に原因があるのは分かっていた。あの恐ろしい体験を通じて彼は別人と化していた。己の傲慢のために妻と娘を目の前で殺され、右手を失い、非力を徹底的に思い知らされた。これで人格に変容をきたさない方がおかしい。自信に満ち溢れた意欲的な青年は、陰気で無気力で刺々しく、そのくせ常に恐怖に晒されている、どうにも扱いにくい男と化していた。
右腕の切断面が皮膚で覆われると、青年は慈善病院を放り出された。物乞い同様の生活をしばらく続けた後、初老の男に拾われた。同じ年頃の息子を最近亡くしたからという理由だった。身代わりである。
それで構わなかった。家庭を失くしたばかりの青年である、初老の男の喪失感は理解できた。
男は植木職人の親方だった。よく喋るが偏屈な面もある男で、片手しかない青年に無理矢理鋏を扱わせた。左手だけでほとんどのことができるようになったのはこの頃である。
別に庭木いじりなど楽しくはなかった。親方も特に、片手しか使えない青年を職人として育てようとは思っていなかった。ただ、何もしないよりはましだという程度で、強制的に始めさせただけである。
それでも物覚えの良い青年は、教えられることをじきに全て覚えてしまった。何かしていれば、あの恐ろしい記憶から逃れていられることにも気付いた。
人並みに仕事ができるようになった青年は、他の職人と同じようにあちらこちらの庭へ連れていかれた。数をこなすうちに腕は人並み以上になった。陰気な顔で黙々と剪定鋏を動かす隻腕の職人は、少しずつ名が知れ始めた。
当初の狷介さは薄れていたものの、それでも親方より偏屈な青年が余暇を職人仲間と過ごすことはなかった。人との交流に何の価値も見出せなかった。が、何もせずにいるとあの忌まわしい記憶が蘇る。彼は一般にも開放されている大学の図書館へ通い、独学で設計と建築学を学び始めた。
後を継ぐ筈だった息子はいない。年齢も序列も関係ない、一番良い仕事をする弟子に親方職を譲ると、初老の男は公言していた。しかし、砂漠が水を吸い込むように技術と知識を習得する青年に、親方は決して良い顔をせず、ことあるごとに説教をした。
おめえは頭もいいし腕もいい。だが、それだけじゃあ駄目だ。
何が駄目なのか、青年には分からなかった。つまるところ、いくら実績を上げても外国人で片腕しか使えない、人格にも問題がある。だから端から親方は自分に後を継がせる気などないのだ、と彼は解釈していた。
それもまた別に構わなかった。親方になれば弟子の面倒を見なければならない。厄介事ばかりが増える。自分と異なる存在を見る、警戒と蔑みの入り混じった視線に、青年はうんざりしていた。
時を同じくして、母国の使者が青年を探し当てた。植木職人をしている青年に、使者は帰国を勧めた。研究機関はまだ残してある、ぜひ戻って魔術の探求をして欲しいと。
青年は訪問者を追い返した。もう、魔術などどうでも良かった。魔術どころか、今学んでいることにさえ興味はなかった。ただ彼は、学ぶことしか知らないから学んでいるに過ぎなかった。
母国は諦めが悪かった。何度目かの訪問の折、使者は餌を目の前にぶら下げた。
娘さんを育てる気がないのですか、という問いに青年は驚愕した。目の前で粉々に砕かれた赤子が、生きていよう筈もない。
使者は透明な球体を取り出した。中は空洞になっていた。
奥さんと娘さんのお身体です、と使者は言った。粉々に砕かれた妻子は、永久氷壁がごとく凍りついたままだったという。魔術を駆使して遺体から、ようやくこれだけの組織を抽出し、後は埋葬された。
人の組織で作られているとは思えない、透明な球だった。
中に生命を吹き込めば成長する、と使者は言った。理屈は青年にも理解できた。要は成長するゴーレムである。
一方でホムンクルスという存在がある。禁忌の人工生命体だ。神でなく人の手による生命の創造が許されるのか、青年の母国では何百年にも渡って議論が交わされていた。
青年の前に置かれた透明な球体は、生命自体はどこかから調達しなければならないので、禁忌のホムンクルスには該当しない。
植木職人となった青年は帰国を承諾した。その旨を親方に告げると、初老の男はしばらく黙ってから言った。
そうだな。おめえは一度、外へ出た方がいいかもしれん。
帰って来なかったら親方としては絶対認めねえからな、という台詞と共に、親方は彼を家から放り出した。
大陸に渡る船の中で、青年は透き通った物体を前に考えた。中に何の生命を入れるのか。船が大陸に着いたときには、彼の心は決まっていた。
旅の途中で、青年は器を手に脱走した。今更帰国する気など全くなかった。今度は他者の力で飛ばされたのではなく、自分の意志で逃げるのである。痕跡を消して追っ手を撒くぐらい、魔力――すなわち魔術を行使するのに最低限の気力と体力を回復した彼にとっては、たやすいことだった。
彼は妻子の一部でできた器に、己の命の一部を注ぎ込んだ。いくばくか寿命が縮み生命力も弱くなったが、構わなかった。使者の言うことを鵜呑みにもしていなかった。説明を受けた段階で既に、青年は命を注ぎ込んだ球体が正常な人間として成長しないだろうと悟っていた。使者は気付いていなかったが、構造理論にごく小さな瑕疵があった。
それでも良かった。この透き通った球体を目にした途端、とにかく彼は全てが必要になった。自分から何かが完全に欠落してしまっており、その空虚を満たすものが欲しかった。それは己が手で殺したも同然の家族に対する贖罪であり、長らく失っている心の平穏であり、この育たないかもしれない半人工の生命体だった。
幼子を抱いて放浪する隻腕の男を憐れんで、修道院の僧侶が彼に仕事を与えた。何ができるかと訊かれ、庭の手入れと答えた。それがこの大陸での庭師としての初仕事となった。
片腕でありながらの見事な手入れを見て、近所の商人が庭を造れるかと訊いた。右肘と左手で設計図を描いて見せると、それを造ってくれと依頼された。
呼ばれるままに移動するにつれ、行動範囲が広がった。経済的にゆとりが出てきた頃、母国の使者が再び彼の前に現れた。
西国の親方が亡くなりました、とその使者は告げた。病死だった。貴方は永遠にあそこの親方になれなくなったと使者は言い、お戻りくださいと再三要請した。
青年は首を横に振り、大人しく座っている幼児を指して答えた。
この子は私が失った娘とは違うし、人間で言えば三歳になった今も、ひとことも口を利かない。こちらの言うことが通じているかどうかも分からない。約束と違う。だから戻らない。
自分で屁理屈をこねているのは百も承知だった。使者はあのとき、死んだ娘と同一の人物が育つとも、こうして生まれた子どもが五体満足に成長するとも保証しなかった。
ただ、庭師になった彼には、帰らない理由が必要だった。妻子の墓へ通い自責の念に駆られつつ、再び魔術の研究に明け暮れるのか。それで何もかも解決するのか。いや、そもそも何が問題かさえ、もはや青年には分からなくなっていた。ただ、帰っては元の木阿弥のように、彼には思えた。
帰国すれば娘さんを正常に育てられるよう協力できるという言葉にも、彼は首を振った。そして尋ねた。
なぜ「正常」でなければならないのか、と。
使者は返答に窮した。
そして、それきり彼の前に現れなくなった。
グラーブは口を噤んだ。話が終わったらしい。
その横顔を、オルソはテーブルに肘をついたまま話の間ずっと眺めていた。鼻梁の通った横顔は、話しながら途中で微かに表情を変えたように思われたが、おそらく絶えず揺れる暖炉の炎に照らされているためにそう見えたのだろう。それほど口調は常と同じく陰気で、そして淡々としていた。
グラーブの言った「青年」が彼自身を指しているのは明らかだった。オルソは言うまでもなく山脈のこちら側、山脈以西の人間である。話している相手が相手でなければ、そしてベッドのプルシナを見ていなければ、全く信じなかったに違いない。
オルソはまたしても理解不能に苦しんでいた。
プルシナについて話したかったのならば、何も自分の生い立ちまで口にせずとも良いのではないか。
ただ、話したかっただけなのだろうか。
他の人間だったら、オルソは容易にそれを受け入れられる。そんなことは日常茶飯事だ。昼の休憩時に弁当を食いながら、あるいは宵の口に酒を飲みながらでもいい。自分はどこそこの出身でこう育ったという話をすることは、ごく当たり前である。
ところが相手がこの男となると、話は別である。
グラーブが何かをするにあたっては、必ず根拠がある。階段下の「箱庭」ならいざ知らず、この世界で理由もなく無駄な言動を取ることはない。
師匠以外の人間が相手だったら決してしないような野暮な質問を、オルソはする羽目に陥った。
「……なんで俺にそんな話をするんだ?」
首だけを弟子に向け、グラーブは答えた。
「口に出すことで、意識の整理をしたかった」
「意識の整理」
オルソはおうむ返しに呟いた。他の者なら心の整理と言うだろう。
「あんたの頭の中は、いつもきれいに片付いているんじゃないのか」
混沌だよ、とグラーブは言った。
「常に混沌に満ちている。プルシナは私が生きるための支えとして大きな割合を占めていたので、あの子がいなくなって自力では収拾がつかなくなった」
「収拾?」
青年が聞き返したので、男は言い直した。
「錯乱しかけていた」
オルソが見た限り、プルシナを埋葬した後の墓地で以外、師匠は一度も取り乱していない。それとて、ただ単に立ち尽くしていただけだ。悲しみにくれる父親の姿としては全く異常ではない。
もし本当に気を違えることになっても、この青白い顔の男はおそらく内面だけでひっそりと狂っていくのだろう。
「オルソ」
相手の名を呼んだきりグラーブは黙り込んだ。数瞬おいてからオルソは、この無表情な男が思考に沈み込んだのではなく逡巡しているのだと気付いた。弟子を半年以上務めている成果だろう。他の者ならおそらく感じ取れない、微かな雰囲気である。
「どうせ今日は、ずっとおかしいんだ。いくら妙なこと言っても、これ以上驚かない。まあ、子ども亡くして平然としてる親の方が珍しいが」
「君の目から見て、私はプルシナへ愛情を注いでいたかね」
「そりゃ、普通の親子にしては変わってたがな」
父と娘のお互いに対する態度は共通していた。通常の親子に見られるような会話も笑みもなかったが、相手を気遣っているのだけは傍目にも明らかだった。娘の仕種の方がより顕著だったとはいえ。
「可愛がってなかったら、わざわざ連れ歩かないだろう。一日中カーニャに預けておけばいい」
「正体が知れるのを防ぐ方便だったかもしれないし、便利なので傍に置いていただけかもしれない」
「図面引きなんかは無理に教えたのか?」
「君は信じないかもしれないが、あの子が自らペンを取った」
「だったらどうしてそんな疑問が出てくるんだ。さんざん殴る蹴るしといて、自分で殺してから愛してたって泣き喚く連中だっている」
グラーブの眉間に皺が寄った。オルソの言葉に気分を害したのではない。師匠があからさまに苦悩する様を、オルソは初めて見た。
「あの子の命の源は私だ。育て方は言うまでもなく、生み出した段階で彼女に影響を与えていたのかもしれない。器に生命を注いだとき、私は『欲しい』という他に確たる意図を持っていなかった。死んだ娘として育て直したかったのか、あるいは二人目の子どもとして生み出したのか、それとも失った右手を補う便利な道具としてなのか。もし道具としてのみ見ていたのならば、プルシナが常に私の意に沿う行動を取っていたのは、機械的なものでしかない。そもそも自分の都合で命を、完全ではないにしろ人工的な手段で生み出すことが許されるのだろうか?」
オルソはじっと耳を傾けていたが、それに対しての回答を導き出す時間は短かった。
「あんた、まだ混乱してるんだ。カーニャも俺も、お嬢ちゃんが死んで悲しんでないとでも思ってるのか?」
「それには感謝している」
どこかしら見当違いな反応をグラーブは返した。そうじゃない、とオルソ。
「あんなお嬢ちゃんでも可愛げがあったってことを、言いたいだけだ」
現場で働く者たちにしても同様である。にこりともしない、薄気味悪い親子だと言いながら一方で彼らは、風変わりな造園家に直接言えない考えやお節介をさんざんオルソへぶつけていた。曰く、あれでもう少しまともに笑ったりすれば周りの少年が放っておかないのに哀れなことだ、まだ子どもなのに朝から晩まで父親の激務に付き合わせて大丈夫なのか、年頃の女の子らしく料理や刺繍をさせた方が良いのではないか、いっそ気立ての良い里親へ預けてみてはどうか、等々。
オルソは覚えていることを全部並べ立ててから、続けた。
「ということは、まあ家に帰れば忘れちまう程度にしろ、お嬢ちゃんは現場の連中に気に掛けられてたってことだ。心底憎たらしかったり、どうにも好かない奴のことを、普通そんな風には言わないからな」
グラーブは眉を寄せたまま、じっと年下の男の話を聴いていた。
「俺はあんたみたいに頭が良くない。だから分からないんだが、欲しいってだけでいいんじゃないのか? 大体、普通の人間だって予定なしにぱかぱか生まれてきては死んでるだろうが。お偉い王族や貴族は子どもを政略結婚の道具として使う。普通のことだ。女郎部屋の子どもにしたって間違いで生まれた奴ばかりだ」
「君が羨ましい」
ぼそりとグラーブは、暗い声で言った。
「十五年以上も苛酷な状況にあってなお、簡素であり続けている」
単純で図太い、と言われているようにしか思えない。
「馬鹿にされてるように聞こえる」
「賞賛しているのだ」
ふん、とオルソは鼻を鳴らした。手付かずのまま冷めた師匠のブランデーを勝手に飲み干すと、ワインのボトルやグラスと一緒に台所へ運んだ。
後片付けをして戻ると、陰気な隻腕の男は既に居間から消えていた。