第一章 4-1
4-1
庭師というものは冬の間はのんびりできるものだとばかり、オルソは思っていた。
そうではない。草木によっては真冬に植え付けをするものもあれば、次の季節に備えて土壌を改良しておかねばならない場合もある。寒さに弱い樹木には霜雪対策を講じなければならず、その場から動かしたことのない樹木を移植する場合など、その前年か前々年に根切り、根回しなどの処置を施しておかねばならない。完成予定日まで既に半年を切っているので根回しはともかくとしても、宮苑ほどの規模となると、そのような細々とした作業が莫大な量になる。
分野別に親方を置いてはいるものの、最終的にそれら全てを監督・総括するのがグラーブ・ヴァンブラの役割である。
特に寒い夜だった。
門衛には既にお馴染みとなった三人連れが、王宮の門から出てきた。黒コートをまとった隻腕の男、彼にぴったりと寄り添うように隣を歩く亜麻色の髪の少女、二人を護衛するようにその後ろに従う大柄な青年。
「仕事熱心なのも結構だが、大概にしとけよ」
背後からオルソが、ここぞとばかりに師匠に説教を始めた。
「あんたが過労でぶっ倒れるのは構わんが、お嬢ちゃんまでそれに付き合わせることはないだろう」
「ああ」
グラーブは初めて気付いたかのように、無言で隣を歩くプルシナを見下ろした。
「大丈夫だ。この子は、私などよりよほど丈夫にできている」
自分に話題が及んでも、少女は全く関心を示さない。紫の厚手のコートに身を包み、ただ黙々と歩いている。
こちらが言うことを完全に理解しているが、声をなくしているので愛らしい唇を動かして答えることはない。オルソが話しかけると最小限の身振りで応えるものの、他の職人たちはプルシナを遠巻きに眺めるだけで近づこうとせず、また、彼女も彼らに対しては無関心に見えた。
父親を「半分死んでいる」と形容するならば、この娘は「心が死んでいる」といえる。それでも何かにつけ父親を気遣う様子から察するに、心の全てが死んでしまった訳ではないのだろう。
実際、十歳という年齢にしては際立った少女である。ほとんどの場面で、用事を言いつけられる前に父親の意図を悟り、必要な動作を行う。読み書き計算は言うに及ばず、父の指示通りに基本的な設計図も描ける。知能の高さはお墨付きである。その上グラーブの言う通り、確かにどれだけ歩こうが、疲れ知らずでもある。
母を亡くしたときにこの状態になったという。母親が生きてさえいれば、例え変人の父親に似たにしろもっと人がましい娘か、あるいは表情豊かな才媛に育っていただろう。
「丈夫っていっても子どもだからな。もう寝る時間だ」
夜半に近い。子どもどころか、庶民ならば翌日の労働に備え大人も眠る時間帯である。もっとも貴族たちは、夜遅くまで舞踏会に興ずることもしばしばだが。
普段ありえないことだが、そのときに限ってオルソもグラーブも、プルシナに道路の端ではなく中央側を歩かせていた。
ここ連日、オルソは睡眠不足で注意散漫だったかもしれない。グラーブは例によって、弟子には図り知れぬ深い思考に意識を委ねていたのかもしれない。そしてプルシナは、父親の右腕役をあくまで果たすつもりなのか、言われない限り必ずグラーブの右隣を歩く。
王宮の門から家は、ごく近い場所にある。それで二人ともあるいは気が緩んでいたのかもしれない。
背後に蹄の音が迫っている、とオルソが気付いたときには遅かった。
鈍い音と共に、小さな身体が弧を描いて高く跳ね上がった。上空で一瞬停止したように見えた少女は、凄まじい勢いで頭から石畳に叩きつけられた。
通り過ぎた馬車が停止する。が、夜目で判別されないと判断したのだろう、すぐに御者は馬に鞭を当て、馬車を逃走させた。
加害者より被害者である。角を曲がり姿を消した馬車に見向きもせず、オルソはぴくりとも動かない少女に走り寄った。どこからも出血はしていない。グラーブは既に、左しかない手で娘の容体を確かめている。
「大丈夫か」
「分からん」
「分からん訳ないだろうが!」
オルソは怒鳴ってプルシナの口の前に手をかざし、心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
呼吸をしていない。
オルソはプルシナの温かい手首に触れた。あるべきものが、感じ取れない。首筋に手をやり、それでも確認できず、コートの前をはだけ、ふくらみかけた少女の胸へ衣服越しに耳を押し当てる。
聞こえない。
オルソは師匠よりも蒼白になった顔を上げ、連れを見た。
「家へ運んでくれ」
人工呼吸を施そうとする弟子を留め、おそろしく無感動にグラーブは言った。
王宮の門衛が一人走ってきた。夜で見通しは利かないが、物音で何かあったと悟ったらしい。道路に面した家の窓も開き、幾つもの顔が四名を見下ろしている。
「娘さんは大丈夫か」
「分からん」
死んだ。
オルソがこういう前に、グラーブは繰り返した。
「今、医者を呼びにやる。それとも連れていくか?」
「いや、この子は特殊な体質だ。私以外の者では診療できない。早く運んでくれ、オルソ」
天才造園家の娘に障害があることは、誰もが知っている。
「あんた、医術の心得があるのか?」
驚く門衛に、もはやグラーブは答えなかった。弟子を急かし、彼は足早に自宅へ向かった。
もう死んでいる。
オルソはそのひとことが言えない。まだ温かいプルシナを両腕に抱え、黙って隻腕の男に従った。
「どうなさいました」
ただならぬ様子の三人を見るなりカーニャが言った。
「プルシナが馬車に跳ねられた」
「なんですって」
オルソの言葉に彼女の顔からも血の気が引いた。すぐお医者様を、と家を飛び出そうとする女をグラーブが呼び止めた。
「呼ばないでください。どちらにせよ医者ではどうにもできない。オルソ、この子を寝室へ」
暗澹たる思いで階段を登りながら、ふとオルソは師匠の前職を思い出した。
「もしかして、蘇生できるのか?」
「診てみないと分からない」
ベッドへ少女を横たえたオルソは即座に寝室を追い出された。追って上がってきたカーニャが呼びかけた。
「何かお手伝い……」
「必要ない」
閉ざされた扉越しに固い声が返ってきた。途方に暮れた面持ちでカーニャがオルソを見上げた。
「本当にお医者様を呼ばなくてよろしいんですか」
オルソは返答に窮した。グラーブは彼女に己の前身を明かしていない。
「今は説明できない」
とにかく下で待とう、とオルソはしっかり者の召し使い女を促し、階段を降りた。
何かしていないと落ち着かないらしい。初老の女はお飲み物をお持ちします、と言い残して台所へ立った。
飲んだのが酒なのか茶なのかも分からない状態が、どれほど続いただろうか。
「オルソ」
声が降った。上から聞こえるのに、地の底から這い上がってくるような響きを帯びていた。
オルソは二段おきに階段を飛び上がった。普段とは比べ物にならない暗鬱さでもって、グラーブは弟子を寝室へ招き入れた。
ベッドの中のプルシナは眠っているかのようだった。小さな貌は未だもって血色が良い。
「君もそう判断したに違いないが、即死だった」
グラーブは例によって重たげに口を開いたが、一旦声を出すと淡々と話し続けた。
「死んだ以上、手続きを踏まねばならない。この場合変死になるのだが、この子を検死解剖へ回したくない」
何を言っているんだ。
オルソは師匠の真意をはかりかねた。
「よって私は、この子が眠り続けていると主張する。葬儀の邪魔はしない。棺の中で眠り続けるのだと言うだけだ。シニョーラ・カーニャへは、私が狂ったと伝えてくれ。あくまで検死だけはさせたくない。幸い、君という目撃者がいる。あえて解剖までしなくても、死因は特定できる。首の骨が折れたとでも背骨が折れたとでも、好きに言えばいい」
オルソはグラーブの青白い貌を凝視した。陰惨とさえいえる、いつもより濃い暗い空気をまき散らしている以外、普段通りの面持ちである。
それが異常なのだ。
白皙に浮かぶ表情は、娘を失って嘆くそれではない。
「……何を言っているんだ、あんた」
オルソは今度は声に出した。
無言でグラーブは、娘に掛けられた毛布を剥いだ。
プルシナは一糸まとわぬ姿で仰向けに横たわっていた。
いや、横たわっているとはいえない。
そこにあったのは、大まかな関節ごとに分解された人形だった。
血色の良い肌色をしているのは、首から上だけだった。それ以外は木目の細かい白木か、あるいは白磁か、いずれにせよオルソには分からない素材で形造られた胴体と四肢が並べられている。
オルソは無意識のうちに椅子を引き寄せ座り込んだ。腰を抜かしたといった方が正確かもしれない。しばらくベッドの上を凝視した後、彼は、無言で立つ隻腕の男を見つめた。それからまた解体された人形に視線を戻した。そして、ようやくひとこと言った。
「人形?」
「そうだ」
オルソは片手で口元を覆った。
悪い夢でも見ている気分だった。戦場で感じた恐怖とは全く違う。未知のものに対する違和感、もっといえば嫌悪感に近い。
彼は気力を振り絞って口を開いた。
「飯を食ってたぞ。さっき運んできたときもまだ温かかったし、柔らかかった。背だって少しずつ伸びてた。髪も爪も、カーニャが手入れしていた」
グラーブは黒コートに入れていた左手を出し、握り拳を開いた。砕けたガラスのようなものが現れた。尖った欠片が白い手の平に突き刺さり血が滲んでいるが、彼は気に留めない。
「この器に生命が入っていた。堅く見えるが、人骨と同じ程度の強度しかない。地面に叩きつけられたときに、おそらく砕けた。中身は空へ散った。やがて大地へ還るだろう」
もと魔術師は再び拳を握り締めた。指の間から鮮血が滴り落ちたが、それにも気付かず彼は左手をコートへ戻した。
「その散った生命とかを、集めて戻すことはできないのか」
グラーブはゆっくりと首を振った。
「一度死んだものを、どうやって蘇らせることができる」
「じゃあ、その器とやらを手に入れてもう一度命を入れることはできないのか?」
君には分からないのか。
暗い黒い瞳で見つめられたとき、オルソはこう言われたような気がした。
「子どもが死んだからといって、もう一人産めば良いというものではない。彼女には彼女の、十年があった。同じことをしても、決して同じ存在にはならない。それに」
グラーブは微かに笑みを浮かべた。
「私にはもう、そんな力は残っていないのだよ」
オルソが初めて見た笑顔は、やはり昏いものだった。全てを諦めきっているような、それでいて何かを歓迎しているようにも見える、不思議な笑みだった。
「笑うな、気色悪い」
思わずオルソはつっけんどんに言った。見ている方が、いたたまれない気持ちにさせられる。
「いつもの陰気面の方が、よっぽどマシだ。で、カーニャには即死だったって言えばいいんだな。あんたは娘が死んだと信じてないと」
「そうだ」
グラーブは頷いた。元の暗鬱な白皙に戻っている。
「葬式はどうする。まさか、このまま人形を出すのか」
「その間ぐらいは目眩ましをかけられる」
「分かった」
「オルソ」
椅子から立ち上がったオルソをグラーブは呼んだ。
「なんだ」
「世話をかける」
一瞬きょとんとした顔で、オルソは師匠を見下ろした。指示されるのに慣れ切っていたので、そんなことを言われるとは思いもしなかったのだ。
「全くだ」
憎まれ口で応えてから弟子は部屋を出た。
即死したのなら何故すぐに通報しなかったのかという警察の事情聴取に、オルソはグラーブの提案通りに答えた。
「俺はもう死んだと分かったが、グラーブが連れ帰ると言って聞かなかった」
もともと天才だけでなく、奇人との評判も高いグラーブ・ヴァンブラである。王宮の門衛も、造園家が娘の容体を確認してから家に連れ帰ったところへ居合わせていたので、オルソの証言はいとも簡単に信用された。もっとも、ほとんど事実を言ったまでなのだが。診療云々というグラーブの言葉は、錯乱していたものとしてあっさり片付けられた。
警察の検死医がヴァンブラ家を訪れた。
「眠っているだけの娘を生きたまま解剖するのかね」
陰惨な顔で問われ、検死医は困惑した。それでも及び腰で彼は反論を試みた。
「しかし、こうして葬儀の準備がされているでしょう。これは何なんです?」
「娘の葬儀だ」
白皙が無表情に答えた。
「なら、娘さんがお亡くなりなのはお分かりの筈だ」
「娘は騒がしい地上を厭い、眠りの場を地下へ移すに過ぎない」
検死医はオルソをプルシナの寝室から連れ出した。完全にお手上げですと言ってから、
「貴方から説得してくれませんか」
「駄目だ」
オルソは首を振った。
「他はまともなんだが、プルシナに関してだけは、昨夜からずっとあの調子だ。誰にも触らせようとしない。俺が運んだときにはもう心臓も動いてなかったし、頭蓋骨も砕けてた。それじゃ駄目か?」
「それでは手続きが……」
「じゃあ、せめて宮苑が完成するまで待ってくれないか。無理に娘を運び出すと、まともな部分まで狂ってしまうかもしれない。グラーブしか知らないことが多過ぎて、彼がいないと作業が進まないんだ」
「無茶言わんでください。四ヶ月後に墓を掘り起こせとでも言うんですか」
「そう言われても、宮苑が期限までに完成しなかったら王様の雷がどこへ落ちるか分からんぞ」
「困りましたな」
署長に相談してきます、と言って検死医は一旦引き下がった。その日の午後、彼は再びヴァンブラ宅を訪問した。
「検死は取りやめます」
ほっとした表情で検死医は言った。彼は、陰気極まる狂った男にこれ以上会わなくても良いことを、あきらかに歓迎していた。
「署長が言うには、貴方という目撃者もいることですし、そんな時間に馬車を走らせる者も少ないでしょうから捜査にはさして影響もなかろうと」
「迷惑をかけて申し訳ない」
詫びるオルソに、検死医が同情に満ちた眼差しを向けた。
「大変な師匠をお持ちですな」
「全く」
それには心底同意し、オルソは検死医を玄関から送り出した。