第一章 2-2
2-2
閉ざされた扉の隙間から、廊下へ細い明かりが漏れている。
厠へ行く途中のオルソはそれを横目に通り過ぎた。夜半まで書斎の明かりが点いていることは珍しくない。それは日付が変わる頃のときもあり、明け方近いこともあった。天才造園家は極端に短い睡眠で事足りるのかもしれない。稀にそんな人物がいる。
前線にいない平時のオルソは、頻繁に眠りの途中で目が覚めるたちではない。それでも記憶する限り、書斎の明かりが絶えたことがないのに彼は今更ながら気付いた。
ひょっとして、眠る必要がないのだろうか。
二晩三晩ならいざ知らず、眠りを必要としない人間がこの世にいるのだろうか。
「グラーブ?」
オルソは相変わらず師匠を呼び捨てにしている。彼が元来あまり遠慮のない性格な上、グラーブも上下関係に無関心だったので、傍目には親方と弟子というより、年の離れた兄弟のような関係に見えていた。問題は、兄のような師匠が何を考えているのか今もって弟子には多々分からない点である。
分からなければ訊くしかない。師匠も教えようという意欲はあるらしく、必ず答えてはくれる。頭から撥ね付けるような真似は一度足りとてしなかった。ただ、難解な言葉を駆使した説明をされ、さらにその難解な言葉についての解説をされているうちに、オルソはさらなる混乱に見舞われる場合が多かった。
そしてオルソはまたもやそれを実践しようとしていた。何のことはない。眠らなくていいのか尋ねようと思っただけである。
厠から戻った際に軽く扉を叩いてみるが返事はない。
「グラーブ」
再度オルソは造園家を呼んだ。
書斎は無人だった。王宮の仕事場はそれこそ足の踏み場もない状態だが、自宅の書斎は常に整然としている。
オルソは床に見慣れないものを見つけた。
正方形のなめし革である。小さな敷物のように見えた。細かな紋様で周囲を縁取られ、中央は大きく黒い正方形に塗られている。
その敷物の隣に、黒い正方形に合わせて造られたかのような平たい、しかし重厚な鋳物製の板が置かれていた。敷物の周囲に描かれているのと同じような紋様が刻まれている。
板は蓋のようだった。持ち上げやすいように取っ手が付いている。
敷物に近づいたオルソはおかしなことに気付いた。
黒い正方形は、塗られているのではない。
本当に四角く切り取られている。しかもご丁寧に、下へ続く石造りの階段まで見えた。通路である。ほとんど毎日この部屋へ出入りしているが、そんなものがあるとは聞いていない。それ以前に、こんな目立つものが床の上にあって気付かない訳がない。
オルソはその場にしゃがみ込んだ。確かに本物の階段があるのを確認してから、敷物の端を持ち上げて覗き込む。
下には見慣れた木目が並んでいた。階段などどこにも見当たらない。首を傾げて敷物の裏を見るが、やはり一筋の切れ目も見当たらない。
オルソはそっと敷物を元に戻した。
これほど迷ったのは初めてかもしれない。
彼にしてはかなり長い間躊躇してから、青年は階段を降り始めた。
階段の終わりは洞窟の出口になっていた。どこかの山腹らしいことは分かるが、林立する樹木のおかげで何も見えない。見晴らしの良さそうな高所へ登ってみたオルソは唖然とした。
来てしまったものは仕方がない。
仕方がないのだが、その光景はやはりオルソの常識を超えていた。
彼の上空は暁だが、右手は真昼の明るさで爽快に晴れ上がっている。その前方では雲の合間から稲妻が落ちており、左手は夜、その隣が夕暮れといった具合である。目まぐるしく広がっている空からは、しかし不思議なことに混沌よりも自由な秩序を感じさせた。
地上は大小の庭園だらけである。
古代のものもあれば、今流行している様式も、オルソが見たこともないような異国のものもある。きちんと手入れが行き届いているものもあれば、荒れ果て朽ちてしまった園もある。平坦な地にも、丘の斜面にも、段地にも、崖の断面にさえ庭園は築かれていた。
オルソが今立っている場所も、その庭の一つである。
考えごとでもしているのだろう、植木鋏を手にした男がゆっくりと歩いてくる。
「なあ」
オルソが話しかけるが、反応がない。こちらの声も聞こえず、姿も見えていないらしい。試しに進路を妨害してみると、男はそのまま訪問者をすり抜け、通り過ぎて行ってしまった。
「……」
さしものオルソも、茫然とその場に立ち尽くした。
気の弱い者や頭の固い者なら、その場で錯乱してしまったかもしれない。
と、聞き慣れた声が風に乗って流れてきた。微かにしか聞こえないが、確かに師匠の声である。
風が吹いてくる方向へオルソは歩き出した。幾つもの橋を渡り、彫像の脇を通り、階段を登っては降り、凝った噴水のアーチを潜り抜けるうちに、徐々にグラーブの声がはっきりと聞き取れるようになってきた。
高い石造りの壁に突き当たった。
天才造園家の声は壁の向こう側から聞こえる。はっきりと聞き取れるようになったが、やはりオルソの知らない言語を操っている。
壁に沿ってなおも歩くと、門が現れた。蔓の伸びた山葡萄をモチーフにデザインされた、精巧な鋳鉄細工である。葡萄の一房を、やはり鋳鉄細工の烏が嘴に挟んでいる。
グラーブの庭園に違いない。
オルソは決めつけた。グラーブ(鴉)という名からしてそうである。でなければ、門に鴉を組み入れる変人などいるものか。
ということは、この高い石壁は庭園を囲む塀である。
鉄門の向こうには並木道が、そのさらに向こうに、小さな広場と聖堂らしき建物が見える。
鉄の門はぴったりと閉ざされていた。格子を掴んで揺さぶってみるが、びくともしない。門に見せかけただけの飾り格子かと思わせるほどである。
オルソは諦めて門を離れ、さらに石塀に沿って歩き続けた。それにつれ、グラーブの声も遠ざかる。
と、また奇妙なものが目に入った。
石の塀に、先の門と同じ様式で造られた梯子がかかっている。やはり山葡萄の装飾を凝らされた鋳鉄製の梯子だ。華奢な外観だが、造りはしっかりとしている。これならオルソの体重も軽く支えられるだろう。
ここまで来たのだ、ためらっていても仕方がない。彼は二段おきに梯子を登り始めた。長い。何しろ塀の高さが半端ではない。何年か前に難攻不落の城壁を攻め落とした、その城壁よりも高いかもしれない。
登るにつれ、最初に尖塔の先が、次いでやはり空に向かってそびえる聖堂の屋根が見えた。梯子を登り終え、塀をまたぐと、林の向こうに聖堂の上半分が見えた。
オルソは分厚い石塀の内側へ入り今度は梯子を降りた。最後の数段を省略して飛び降り、樹木の間を縫って歩道へ出た。薄茶色の石畳で舗装されている。
池の前を通った。対岸に石畳と同じ色の荒廃した館があり、そのすぐ脇に一本の糸杉がすらりと生えている。周囲の緑と共に、館と糸杉は静かな水面に映し出されている。ただ無造作に建てられただけではない。静謐な空間を意図して造り出された風景庭園の一部であるのはオルソにも察せられた。
両側の並木が途切れた。
聖堂の前は小さな広場になっていた。門の外から見えた光景である。周囲を歩道と水路と並木で囲われ、オルソの歩いて来た小路は裏手にまで続いているようだった。
聖堂の扉は片側だけ開かれていた。
中を覗いてみると、遥か高みにある天蓋から陽の光が祭壇に降り注いでいる。
「――」
黒いコートの男が何事か喋った。明らかな命令口調であるそれに、人々はオブジェや記念碑らしきものをあちらこちらへせっせと移動させている。
いや、人だけではない。人間より大きなものもいれば、小人としか呼べないような者もいる。ずんぐりと太っているもの、手足が常識外れにひょろ長い者、衣服も身に着けていない泥人形のようなものまでが立ち働いている。
オルソの脳裏に建築家ガットの言葉が蘇った。
達人の域に達した者は、庭師というより魔術師に近い。
黒衣の男――グラーブ・ヴァンブラはオルソに全く気付いていなかった。通常の彼からは考えられない勘の鈍さである。それほど目の前の作業に没頭しているのかもしれない。
常に父の傍らを離れないプルシナの姿は、さすがに今は見当たらない。自室で眠っているのだろう。
と、忙しく動き回る小人の一人とオルソの目が合った。小人は彼を指差し、造園家へ告げた。
驚きも露わにグラーブが振り返った。半年前に会ってこの方、オルソが初めて目にする表情である。
「来てはいけなかったか?」
思わず彼は尋ねていた。狼狽とさえいえる反応を見せた師匠に、弟子は罪悪感を覚えた。
が、グラーブはすぐに常の暗鬱な面持ちに戻った。
「いけないことはない」
つまり、歓迎もしていない。
「どうやってここまで?」
オルソは経緯を述べた。話を聞くにつれ、普段陰気なだけの白皙に、理解しがたいといった表情が浮かんだ。
「勝手に書斎へ入ったのは悪かった」
「いや、そうではない」
オルソの謝罪をグラーブはあっさり否定した。
「部屋の明かりを消しておかなかったのは私の不注意だ。それより、どうやってここへ入り込んだ? 門は閉じてある」
「近くに梯子が掛かってるだろう。何だありゃ。あんた、いつもあそこから出入りしているのか?」
天才だが奇人とも噂の高いグラーブならやりかねない。
「梯子?」
造園家がますます不可解なものを見るような顔になった。
「どのような」
「どのようなって、そこの門と同じような造りの」
オルソを見つけた小人がグラーブの足下に寄ってきた。知識をひけらかすような口振りで喋りかけた小人を、黒衣の男が鋭い眼差しで睨み黙らせた。明らかに怒りを含んだ視線である。
そういえば、怒る師匠を見るのもオルソは初めてである。
グラーブが一言発すると、使い魔のような者たちは一斉に床へ溶け込んだ。しばらく消えていろとでも言ったのだろう。
男二人が聖堂に取り残された。
師匠は大柄な弟子を見上げた。苛立ちとも怒りとも驚愕とも戸惑いとも、そして恐れとも歓喜ともいえる、とてつもなく複雑な色を黒い瞳に宿し、しばらく真正面からオルソを凝視した。
そして言った。
「どこでもいい。その辺りで待っていてくれ。少し考える時間が欲しい」
オルソを残し、暗鬱な造園家は歩き出した。どこを見るでもない。左手を黒コートのポケットに入れた格好でゆっくりと建物の中を一巡し、思案に耽りながらそのまま外へ消えた。
物珍しさに、オルソも聖堂内をぶらぶらと歩き出した。
聖堂の形自体は標準的である。内陣、身廊、その二つの空間を隔てる翼廊。翼廊は左右に伸びて袖廊となり十字を形作っている。
ただ、祭壇に祭られているのはオルソの知っている神ではない。壇といっても高さはほとんど無きに等しい。そこには彼の知らない言語が彫られたオベリスクが置かれている。石ではないが金属でもない。生えている、もしくは建てられているといった方が良い。祭壇には豊かな栄養を含んでいると一目で知れる黒い土が敷かれ、そこへ突き刺さるようにオベリスクは立っている。同じ土から蔦類の緑が伸び、優美な曲線を描いてそれに絡みついている。
パイプオルガンや墓らしき碑はある。地下墓室らしき空間へ階段もある。
教会らしいものといえばそれだけだ。
階段の下にある扉はぴったりと閉ざされている。好奇心の赴くまま降りかけたオルソは、得体の知れない悪寒に襲われすぐに引き返した。それが、王の小さな庭園に対する感想を求められたときに感じたものと同じだと、彼はすぐに気付いた。
他にも珍しい点は多々あった。内陣と身廊を隔てる仕切りもなければ、説教壇もない。貴婦人が座るための椅子もない。代わりに、何か寓意が籠められているのだろう、異国の神々や幻獣の像、宇宙を表わしたモザイク画、それから大小の鉢植えや植物で内部が占められている。
聖堂を器に屋内庭園でも造ろうとしているようである。
が、この空間が完成に程遠いのは明らかだった。それら雑多なものはまだ配置場所も決まっていないのだろう。暫定的に壁際へ立てかけられたり、一箇所にまとめて無造作に集められ積み上げられたりしている。
一通り内部を見てしまうと、オルソは聖堂の外へ出て入口の階段に座り込んだ。
暑くもなく寒くもなく、風は心地良く日差しは柔らかい。樹木の葉が擦れる音と水路を流れる水音を聞いているうちに、睡魔が忍び寄ってきた。本来なら眠っている時間である。
オルソは石段に寝そべり大きな欠伸を一つすると、すぐに寝息をたて始めた。この異常な状況下ですることではない。が、少なくとも周囲に危険を及ぼすものはないと、彼の本能が告げていた。
うたた寝から覚めたときには、頭の隣に造園家が影のように腰を降ろしていた。肘枕をしたままのオルソから見えるグラーブの横顔は、既に元の陰鬱なだけの白皙に戻っていた。
冬眠から覚めた熊よろしく、のっそり起き上がったオルソにグラーブは言った。
「何から説明して欲しいかね」
オルソは頭の中を整理しようとした。無駄だった。彼はここへ来る原因となった最初の疑問を口にした。
「眠らないのか?」
「何?」
よほど意外な質問だったらしい。またしても師匠は驚いてオルソを振り向いた。ここは何か、あるいはあの生き物たちは何なのか、そのような問いを予想していたのだろう。
が、グラーブ・ヴァンブラはすぐに前方へ視線を戻した。どこを見るでもない、いつもの空虚な黒い瞳である。
「睡眠はとっている。君にはそう見えないかもしれないが」
「毎晩ここへ来るのか?」
「大抵は」
「あんたの指図で動いてたのは、使い魔みたいなもんか?」
「そう思って差し支えない」
「この、馬鹿みたいにそこら辺中にある庭は、全部あんたが造ったのか?」
現実には考えられない。だが、人外のものを使役できるとなれば話は別である。
「違う。私が造ったものもあるが、ほとんどは移築したものだ」
「途中で人とすれ違ったが、向こうは何も見えないし聞こえないようだったぞ。さわれもしなかった」
「移築した庭園に付随してきた、影のようなものだ。ほとんどが庭園の所有者や造園者だ」
「ここは何なんだ?」
「私は箱庭と称している」
といっても、一般常識で考えられるような箱庭ではない。ここへ来る途中の高台では遠く連なる山脈や、海までもが見えた。
「こんな馬鹿広い所が? あんた一人で造ったのか?」
「最初は狭かったが、造園や庭園の移築を繰り返すうちに広がった」
グラーブは己の造形物について自慢するでもない。ただ淡々と述べた。
「……あんた、ひょっとして凄い魔術師なのか」
「以前学んでいたことはある」
傭兵時代にオルソが敵に回していた奇術師紛いの魔法使いのような、そんな代物ではない。下級精霊の使役はともかく、こんな空間を自力で作り出せる魔法使い、いや魔術師の話など聞いたことがない。
「今は造園で生計を立てている」
「そりゃ分かってるが」
なんのことはない、庭師を極めて魔術師めいた存在になったのではなく、元魔術師が造園家になっただけの話である。
「庭師としては親方に認められていない」
天才と呼ばれる男にも親方という存在があったのだと改めて思うのと同時に、もう一つの言葉はオルソを驚かせるに充分だった。
「なんでだ? その親方っておっさんだか爺さん、あんたがあんまり早く上達したんで、僻んでたんじゃないのか」
「今となっては確認する術もない。人格に関してはさしたる問題もなかったが」
過去形で言われ、既にその親方はこの世にいないのだとオルソは悟った。
「私のような者が弟子を取るなど笑止だが、時間が残り少なくなってきた」
このときのグラーブの言葉をオルソは、階段の上の世界に朝が訪れたのだと解釈した。
そうではなかったのである。
「残り少ない時間」の本当の意味を、彼は二年と半年ほど後に知ることになる。
「戻った方がいいか」
「ああ」
黒コートの男は立ち上がった。向かう先は梯子ではない。
鋳鉄細工の門は、左しか残っていない手で造園家が軽く押すと音もなく開いた。二人が出ると自動的に閉まる。
「これも魔法か?」
「厳密に言えばそうではない」
オルソはそれ以上説明を求めなかった。詳しく解説されても分からないのは目に見えている。
近道をしていないにも関わらず、帰途は往路よりも短かった。
すぐに慣れる、とグラーブは言った。
「便宜上、空間連結に個人対応認識方式を用いている。目的地をしっかりと決めることだ。どこへ行っても構わないが、もし迷った際は、君の知っている場所を念じて歩き続けたまえ」
例によって前半の言葉はオルソに通じなかったが、後半は理解できた。
「そんなことを言うってことは、また来てもいいのか?」
「そろそろここで庭を造らせようと思っていた」
「俺が全部?」
通常の師弟関係では考えられない。
「これは仕事ではない。どんなに出来が悪くとも構わん」
洞窟の階段を登り書斎へ戻ったときには、閉ざされた鎧戸の隙間から、眩しい朝の光が漏れ差し込んでいた。