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園丁の王  作者: 井出有紀
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第二章 8

8.


 何年か各地を気ままに放浪しつつ、頼まれるままに幾つかの庭園や小さな庭を造った後、オルソはジラソーレという町の庭師と意気投合した。

 いきなり潜り込んできた余所者に、弟子職人たちは最初いい顔をしなかった。が、人好きのする性格と豊富な知識や経験を惜しげもなく他の職人に分け与える気前の良さで、オルソは例によってすぐにその一家へ溶け込んだ。

 親方には二人の娘がいた。妹の方は既に嫁いでいたが、長女がまだ結婚していなかった。名をセルヴァという。妙齢というには少しとうが立っており、古くからいる職人の中に父親が決めた許嫁の候補がいる。が、腕は良くても風采の上がらないその男を、彼女は受け入れようとしなかった。艶やかな黒い髪に濡れた黒い瞳、庭師の娘らしからぬ白い肌とほっそりとした肢体が魅力的な女性である。それも無理からぬことだと職人たちの間では囁かれていた。

 その親方の家に腰を据えて数ヶ月が経ったある日、娘を貰ってくれと言われオルソは酒を噴き出した。

「それはまずい」

 オルソとて自分の立場はわきまえている。セルヴァを嫁に迎えるということはすなわち、親方職を継ぐことをも意味している。すっかり職人や家族たちに溶け込んでいるものの、この町にずっと居続けるのかさえオルソは決めていなかった。

「だが、弟子連中もおまえさんを、余所者どころかもう新入りとしてさえ見ちゃいねえ。どちらかといや、兄弟子だ。実際、わしより仕事に関しちゃ腕も上だからな。それに何より、セルヴァがおまえさんに惚れ込んじまってる。フレットにゃ済まねえが」

 フレットとは、件の許嫁候補である。黒髪のたおやかな娘が最近ダーリオ家に入り込んだ見栄えのする大柄な庭師に入れ込んでしまっているという噂を、近所で知らない者はいなかった。

 オルソ当人も分かってはいたが、といって、責任を取る気もないのに堅気の娘に手を出す訳にもいかない。亡き師匠の影響かその辺り、妙に彼は生真面目な考えの持ち主になっていた。

「一晩考えさせてくれ」

 言葉通り一晩考え、オルソは親方の申し出を承諾した。彼自身とうに腰を落ち着けても良い年齢に達している。職人フレットに対する同情的な意見もあったが、二人の結婚は大方の者に祝福された。

 オルソ・マイラーノは、オルソ・ダーリオになった。

 二年後、オルソはセルヴァとの間に娘をもうけた。さらに五年後、親方職をオルソに引き継ぎ、義理の父がこの世を去った。

 姓がマイラーノからダーリオになっても、耳の早い趣味人はオルソの住処を聞きつけては依頼書を送りつけてきた。

 食うには困っていない。が、やはり町の仕事だけでなく、大掛かりな造園設計にも職人としての血が騒ぐ。

 日程や報酬などの条件が合えば、オルソは何人かの職人を連れ国外へも足を伸ばした。数日家を空けるだけのときもあれば、一年を越すこともあった。そんなときオルソは、可能な限り家と職場を往復するようにしていた。ほとんど行き当たりばったりで結婚したものの、それでも妻子は可愛い。

 数ヶ月ぶりに家へ戻った日のことである。

 留守を預かっていた職人が言い辛そうに口を開いた。

「おかみさんが出て行きました」

 発言の意味をオルソは理解できなかった。

「出てったって、どこへ。市場か?」

「いえ、そうではなくて、その、フレットと……」

「何でそうなるんだ?」

 声をあげたのはオルソではなかった。一緒に出かけていた職人である。

「パッセラお嬢だっているし、寂しさも少しは紛れるだろ?」

「それより、よりによって相手がフレットってのはどういうことだ?」

 騒ぎ出した職人たちを置いて、オルソは子ども部屋へ行った。

「パッセラ」

 七歳になった娘は窓枠に両肘をつき、頬杖をついていた。

 いつもなら駆け寄り父親に飛びついてくるところだが、今日は振り返りもしない。

「パッセラ」

 再び呼ばれると、パッセラは服の袖で顔をごしごしとこすり、ようやく振り向いた。常に悪戯ごとを探している黒い瞳の周りが腫れぼったい。瞳と黒髪は母譲り、太陽の下で走り回って過ごす日焼けした肌は父親譲りである。

 ぽつりと少女は言った。

「おかあさん、行っちゃった」

「ああ、聞いた」

 少しためらってから、オルソは尋ねた。

「おまえは、ついて行かなくて良かったのか?」

「おかあさんにはフレットおじちゃんがいるもん。それに、こういうのって、良くないんでしょ?」

 幼い少女は怒りも露わに言ってから、寂しげな口調に戻って続けた。

「それに、あたしがついてったら、おとうさん一人になっちゃうよ」

 オルソはしばし絶句した。

 十二歳で故郷を飛び出して以来、自分がずっと一人だったのに改めて気付かされたのだ。その時々の戦友はいたし、職人仲間もいた。短い間だったが、ヴァンブラ家という仮の家族もいた。

 が、本当の肉親は、この幼い少女が初めてである。

 オルソは大股で歩み寄ると娘を抱き上げ、強く抱きしめた。

 泣くだけ泣いてしまった幼いパッセラは、もう涙を流さなかった。抱擁に応えるように彼女も小さな手で父親の首にしがみついていたが、不意に、あっと小さく叫んでオルソの腕から飛び降りた。

「おてがみ、おかあさんから預かってるの」

 パッセラは机の引き出しから封書を取り出した。

「ついて行かないって言ったら、じゃあ渡してって」

 オルソはその場で封を切った。

 飾りも何もない便箋に、一行だけが記されていた。


 貴方は一度も私を見てくれなかった。


 しばらく文面を見つめていたオルソは突然、頭を殴られたような衝撃に襲われた。

 黒い髪、黒い瞳、白い肌。

 共通点はそれだけである。しかも髪はセルヴァのように艶やかでもなく、短く、後ろへ撫でつけられており、瞳は光を全て吸い込むかのように、まるで生気がなかった。

 どう考えても別人である。少なくとも、自分ではそう思っていた。それどころか忙しい日常の中で、もういない、暗い天才造園家をしみじみと懐かしむことすらなかった。

 が、セルヴァにとっては違ったのだ。幾年間を夫婦として過ごす間に、彼女の鋭い感性は、自分のさらに向こうにいる誰か、あるいは何かを確実に感じ取っていた。そして、本当に自分だけを見つめてくれる者と共に家を去った。

「なんて書いてあるの?」

 幼い少女の声が、オルソを現実に引き戻した。

「さようなら。パッセラが元気に育ちますように」

 偽りの内容を読み上げてから、オルソは小さな黒い頭に大きな手を置き、中腰になって娘の顔を覗き込んだ。

「パッセラ。母さんが悪いんじゃない。父さんが悪い。理由は言えない。話しても多分、今のおまえじゃ分からないからだ。大人になったら教えてやる」

「うん」

 納得しかねる表情ながらも少女は頷いた。

「きっとだよ?」

「ああ、約束する」

「……かあさん、あたしが嫌いになったから行っちゃったんじゃないよね?」

「違う。だったら、おまえについて来るかなんて訊かないだろう?」

 日焼けした小さな顔がくしゃくしゃに歪んだ。

 再び首にしがみついてきて泣きじゃくる娘の背中を、オルソは優しく撫で続けた。



「園丁の王」第二章 了

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― 新着の感想 ―
[一言] ハードカバーの小説を読み終わったような、そんな気持ちです。
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