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園丁の王  作者: 井出有紀
13/15

第二章 7



7.


 グラーブ・ヴァンブラは、引き受けていた造園、改修依頼を全て一方的に破棄した。相手が庶民であろうと王族であろうと関係なかった。

 己の余命を知っているのだ、さほどの件数もない。が、やはり身分の高いお偉方からは抗議の手紙がやって来た。それに対してグラーブは、オルソ・マイラーノに一任するがそれでも良ければという旨の返事を出した。小さな改修を依頼してきていた二件が承諾した。

 それから彼は、とある都市の郊外にある屋敷を買い取り、身の回りの少ない荷物を運び込んだ。

 オルソは新しく雇った使用人と手分けし、市内へ細々としたものを購入しに出かけた。すぐに暮らせるようあらかじめ家は整えられているものの、それでも足りないものがどうしても出てくる。

 オルソは比較的品揃えがあると評判の小間物屋へ行って、製図用紙を注文した。

「申し訳ありません、シニョーレ」

 店主は済まなさそうに首を振った。

「当店にございますのは、主に身の回りでお使いになるものばかりでして。そのような専門的なものになりますと……」

 店へ入った時点でオルソにもそれは分かった。見本として並べられているのは、文具ならば飾り枠の入った便箋、細かい装飾を施されたペン立てなど、気の利いた小品だけである。オルソは店主に尋ねた。

「この辺で、製図道具を扱ってる所を知らないか?」

「製図は分からんが、紙の卸問屋だったら知ってるぞ」

 新しく入ってきた中年の客が話に割り込んだ。

「ここから三区画西の、城壁の外側に店を構えている。大抵の物だったらそこで買えるんじゃないか?」

「助かった」

 オルソは礼を言って、それでもついでにと、使い心地の良さそうな羽ペンに目を留めた。

「今、店にあるか?」

「いえ、ご注文を承ってから工房で制作してございますので」

 オルソは値段を訊いた。店主の答えは、彼が予想したよりも少し高かった。まとめ買いする代わりに値切らせようと言葉をやり取りし、交渉はすぐにまとまった。

「お名前をいただけますでしょうか」

 オルソが氏名と住所を述べると、店主は工房の発注書にすらすらと記入した。

「郊外ですね」

「迷ったら、グラーブ・ヴァンブラの家と言えば誰かが教えてくれる筈だ」

 狂える天才造園家の名を聞いても、礼儀をわきまえた店主は承りましたと答えただけで、特に反応を示さなかった。

 店を出たオルソを、先程の中年客が追いかけてきた。

「俺も問屋に用事があるんだ」

 言ってから、男は大柄な庭師を見上げた。

「あんたがあのグラーブ・ヴァンブラの弟子か。彼は家を持たないって聞いたことがある。引退するのか」

「あんた、何だ?」

 失礼した、と詫びて男はグフォーと名乗った。

「同業者だ。引き受けていた仕事を全部取り消したってのも聞いた。病か?」

 普段なら人との会話も苦にならない。が、オルソはずけずけと尋ねてくる男に煩わしさを感じた。

「耳が早いな」

「天才の噂なんか、すぐに広がるぞ。自分の棺を造らせて、いよいよ本格的に狂ってきたのかなんてな。冗談だろう」

 オルソは足を止めなかった。が、思わず同業者を見下ろした。

「棺桶だって?」

「ああ」

 男は頷いた。こっちだ、と角を曲がる。オルソも続いた。

「知らなかったのか? 造園関係者の間じゃ、今はその話で持ちきりだぞ。本人がぴったり納まる大きさの棺を発注したってな。まあ、あんたが知らないんだから、それに関してはでたらめだったって訳だ」

 屋敷へ戻るとオルソは師匠を探索した。探すまでもなかった。果てしなく黒に近い灰色のコートをまとい、左手をポケットに入れた例の姿勢でグラーブは中庭をゆっくりと歩き回っていた。曇り空である。太陽の暖かい恩恵は、今日は冷え切った身体にはもたらされない。

 その姿を見るなりオルソは言った。

「棺桶を造らせてるって?」

 さほど深い思索に耽っていた訳でもないらしい。師匠は足を止めてオルソを振り返ると、すぐに返答を寄越した。

「そうだ」

「何考えてる」

「狂人が何をしたところで不思議ではない。『下』へ降りている間、亡き娘を想い棺の中で眠っているということにする。使用人も気味悪く感じて書斎には近付かない。都合が良かろう」

 グラーブは普段通り陰気かつ沈着な表情で説明した。「下」は、なめし革の敷物から通じる階段下の「箱庭」を指している。

「もっとも、遠からず通常の用途で使用することになるが」

 冗談でないだけに全く笑えない。

 何か皮肉を言ってやろうと口を開きかけたオルソだったが、グラーブに機先を制された。

「オルソ・マイラーノ」

 姓まで含めて名を呼ばれ、オルソはきょとんとした顔で師匠を見た。

「何だ?」

 グラーブは全く感情のこもらない、平坦な口調で言った。

「今までご苦労だった。本日をもって君を解雇する。私は親方職を持っていないが、私の弟子であったことが君の有利に働くならば、そのように証明書を作成しよう。当面の仕事が済むまではこの家に荷を置いても構わないが、自身の落ち着き先を早々に探したまえ」

 長い沈黙が落ちた。

 怒りも露わにオルソは青白い貌を睨みつけた。殺気といっても良い。相手がグラーブでなければ、ほとんどの人間は怖気をふるって逃げ出していただろう。

 その怒りを押し殺した低い声で彼は言った。

「ふざけるな」

「ふざけてなどいない」

 オルソの感情など、グラーブは全く意に介さなかった。

「君は、学べることは全て学んだ。実績はまだ少ないが、名も知られてきた。もう単独で生計を立てられる」

「俺は、あんたの何なんだ!」

 自分でも思いがけない言葉がオルソの口から飛び出した。

「弟子だった」

 過去形の返事はオルソの怒りを何倍にも増幅させた。

「そんなことを聞きたいんじゃない。あんた、どうして俺を弟子にしたんだ。庭師の仕事自体に興味がないのにそれを教え込んだ。だが、あんたがしてることの役には立たなかった。結局『間違い』だった俺をお払い箱にするって訳か。それとも、手前の本心を知らせる役目を果たしたから用済みか」

「オルソ」

 さらに怒りをぶち撒けようとする弟子を、グラーブは疲弊した顔で遮ろうとした。が、オルソはそれを許さなかった。

「ここまで引き摺ってきといて勝手に放り出すな。畜生、手前で棺桶まで作りやがって。『正解』だろうが『間違い』だろうが、あんたの葬式を出すまで俺は居座り続けるからな」

 言いたいだけ言ってしまうと、青年と呼ぶには年を重ねた男は再び隻腕の造園家を睨み下ろした。が、やはり青白い疲れた顔に変化はない。

「君を選んだのは少なくとも間違いではない」

 何度も言ったことを、グラーブは暗鬱に繰り返した。

 それから彼は、オルソが耳を疑うような発言をした。

「君には感謝している」

 聞き間違いかと一瞬戸惑ったオルソを見上げながら、隻腕の男は続けた。

「しかし、これ以上私に付き合って、君の時間を無駄に費やす必要はない。私の計算が間違っていてまだ十年以上生きる可能性もある」

 それはない、とオルソは声に出さずに否定した。グラーブの体力は以前より衰えている。件の悪寒以外で特に病を患うでもないが、疲労しやすく、しかも回復の遅い体質になっているのは傍目にも明らかだった。

 何より理屈を超えたところで、オルソの直感が嫌なものをじりじりと告げている。

「……一人で死にたいのか」

「死ぬときは誰でも一人だ」

 そんな決まり文句を聞きたいのではない。

 相手もそれは分かっていた。グラーブは再びゆっくりと中庭を歩み始めた。その影法師のような背から、暗い声が漏れた。

「君に、これ以上不様な姿を見せたくない」

 階段下の世界で避けられている理由を、オルソは悟った。あそこでのグラーブは、地上にいるときとは比べものにならないほど無防備になる。

 が、今までのところ、この男が不様というほど取り乱す場面になど、オルソは遭遇した記憶がない。プルシナの葬儀の夜にしろ、クレイフィッシュ親方の伝言をつたえたときにしろ、茫然自失といったところがせいぜいである。「箱庭」にいる彼は確かに無防備だが、どこが不様なのか、オルソには全く分からない。

「あんた、俺の前で見苦しいことでもしたか?」

 間抜けな質問だったが、尋ねずにはいられなかった。

 グラーブは背を向けたまま答えた。

「全て」

 オルソは開いた口が塞がらなかった。

 何故この男がそんな結論に達したのか、皆目理解できない。が、本気でそう思い込んでいるらしいことだけは分かったので、オルソは今度はあえて何も訊かなかった。それでも何か言わなければ、と思って彼は口を開いた。

「自分の時間をどう使おうと俺の勝手だ。それに他の奴にあんたの葬式を出させたくない」

 葬儀にこだわる自分が滑稽だった。が、他にこの男に対してできることが思い浮かばなかった。

 珍獣を見るような目でグラーブはオルソを見上げた。

「おかしな男だ」

「あんたの方がよっぽどおかしい」

 束の間二人の男は、にこりともせずに視線をぶつけ合った。

 降参したのはグラーブだった。

「勝手にしたまえ」

 こう言うと隻腕の男は、それきりオルソに対して興味を失ったように、深い思索に沈み込みながら再びゆっくりと中庭を歩き始めた。


 遠出の仕事から戻ったオルソを、老いた使用人カヴァッロがグラーブに勝るとも劣らない蒼白な顔で出迎えた。いや、使用人というより執事といった方が相応しい。事実、かつてはさる大屋敷で執事頭をしていたという。カーニャのときといい、グラーブは有能かつ口の堅い人物を探し出すのに長けている。一片の軽率さをも、彼の半生は許してこなかったのだろう。

「旦那様が」

 棺、と言おうとしただろうカヴァッロが無難な言葉に言い換えた。

「書斎から出ておいでになりません」

 今までにもあったことである。その度にオルソは階段下の世界へ降りて行っては、聖堂や廃園などで倒れているグラーブを担いで戻ってきていた。

 隻腕の造園家は、寝食を忘れて聖堂の内部と庭を造り変えていた。オルソが行く度にそこは、禍々しいうすら寒い空間へ変貌を遂げていた。細かな変更はなされているものの、並木の配列や聖堂の形など、大まかなものには変化がない。

 が、以前のような穏やかな空気は、もはやどこにも感じられなかった。聖堂内部は暗く翳り、数々の装飾品はどこかしら不気味なものに姿を変え、庭の草木は太陽ではなく暗闇の中で育ったかのような得体の知れない雰囲気を漂わせていた。上空はいつ来ても重たげな曇天だった。降雨もあれば雪が降っていることもあった。夜の時間帯であることが多かった。雨や雪は実際地上で降るものより、遥かに冷たく刺々しく、まるで皮膚に突き刺さるような感触だった。

 それはまるで、グラーブが沈着な面を自ら剥ぎ取り、暗い狂気を露わにしたような印象をオルソに与えた。

 が、造り手たるグラーブには、聖堂での作業に没頭する以外、全く変化がない。相変わらず陰気なもののあくまで冷静であり、オルソが観察する限り狂気はこれっぽっちも窺えなかった。元々が紙一重である。そうなると、オルソには元師匠が正気を保っているのか既に狂気の世界へ足を踏み入れてしまっているのか、全く見当がつかなかった。

「いつからだ」

「五日前です」

 執事は答えた。

「扉を破ろうかとも存じ上げたのですが、旦那様ご自身が、自分から出てくるまでは決して部屋に入らないようにと仰せになりましたもので」

 オルソは居間へ荷物を放り出し書斎へ向かった。

 書斎の合鍵はオルソしか持っていない。老執事は、狂人である主人をあきらかに扱いあぐねていた。

「分かった」

 鍵を書斎の扉に差し込みながらオルソはカヴァッロに指示を出した。

「引きずり出すのに時間が掛かるかもしれんが、何か食い物を用意して待っててくれ」

「お手伝いいたしましょうか」

「いや、あんたは来ない方がいい」

 いくら出来た執事といっても、この地域の人間の礼に漏れず魔術には免疫がない。魔術師より狂人と思わせる方が良いのは、彼に対しても同様である。

 書斎に入り、オルソは中から施錠した。カヴァッロ執事に空の棺桶を見られては元も子もない。

 端から棺を無視して、彼は革の敷物に四角く開いた空間を降りた。

 階段から出た瞬間、得体の知れない違和感がオルソの全身に粟を立たせた。

 常の空気ではない。

 空間自体が歪んでいるというのだろうか。そんな形容など彼の脳裏には浮かばないが、空気だけでなく、視覚に入るものにも異状が見られた。

 空一面が暗く、黒い雲が立ち込めている。同時に様々な表情を見せてしかるべきこの世界では、この均一さは異状でしかない。

 聖堂へ向かう道が変化していた。道だけでなく、庭園も、その中にある草木も建造物も、全てが黒ずんでいる。

 山葡萄と鴉の鋳鉄細工の門は開いていた。

 あの嫌な虚無がどっと押し寄せ、一瞬オルソは入るのをためらった。が、彼はすぐに毅然として足を踏み入れた。その直前で地面が盛り上がった。

 オルソの片腕ぐらいの大きさの泥人形が現れた。人形といってもかろうじて人の形をしているだけで、下手をすると四肢と胴体の区別さえあやふやになりかける。泥人形はなんとか人の形を取ろうと努力しているようだった。

「熊……」

 口と思しき穴から声が漏れた。奇妙に蠢く泥塊の正体をオルソは悟った。

「ロムブリコ、おまえ大丈夫か」

「俺、大地。形は気にするな……」

 言う端から地面に崩れ落ちる。泥の塊となってロムブリコはオルソの後からついて、大きな友人を制止した。

「熊、進むな。これ以上行くと危ない」

「グラーブが中にいるだろうが」

「……ご主人様、いる」

 悲しげな口調にオルソは泥塊を振り返った。もはや口の役目を果たす穴しかついていない泥塊は続けた。

「だが、おまえ、もう行くな」

 頭へ重いものを乗せられたような気がした。

「死んだのか」

 ロムブリコの答えを待たずしてオルソは聖堂に飛び込んだ。

 薄暗い。

 薄ら寒い。

 何より、おそろしい虚無感が内部を覆い尽くしている。

「グラーブ!」

 オルソは大声で名前を呼んだ。響かない。

 今や闇に味方した草木や装飾物が、彼の声を通すまいと幾重もの壁と化し吸収して、聖堂の主にまで若い庭師の声を届かせないよう邪魔をしているようだった。

 が、渾身の声は届いた。

 黒いコートをまとった隻腕の男がゆっくりと振り返った。

 鼻梁の高い、陰鬱な青白い貌、後ろへ撫でつけられた黒髪、光を吸い込む黒い瞳。

 男は確かにグラーブ・ヴァンブラだった。が、彼の足下に崩れ落ちているものを見て、オルソは目を疑った。

 黒い髪、黒いコート、くたりと床に落ちた虚ろな右腕。

 倒れているのもグラーブだった。

「倒れてる方、ご主人様の身体。立ってる方、魂」

「戻せないのか」

「あそこまで分かれては、もう手遅れ。ご主人様、死んだ」

 おそろしくあっさりと断言されたためだろうか、オルソには全く実感が湧かなかった。頭の上に石を乗せられたような感覚だけが続いている。

 彼でなくとも信じるのは難しかっただろう。目の前に立っているのは紛れもなく、その死んだ筈の師匠である。

 立っているグラーブは、足下に倒れている己の身体を一瞥もせず、地下墓室へ向かった。

 とにかく倒れている方を何とかせねばと、オルソはぴくりとも動かない男の元へ駆け寄った。痩身を抱え起こしたオルソは、声をかける必要すらないのを悟った。

 いつも青白い貌が、今は白茶けた色にまで変色している。紛れもない死相が浮かび上がっていた。頬も冷たい。常の氷のごとく張り詰めた冷たさではない。どこか弛緩した、生温かいような生理的に嫌悪を催させる冷たさだった。

「熊、おまえ早く逃げろ」

「逃げる?」

 グラーブの遺体を背負いながらオルソは尋ねた。

「ご主人様、おまえのこと気に入っていた。連れて行く気かも……」

 ロムブリコの言葉は突風によって遮られた。

 外から強烈な勢いで大気が流れ込んでくる。

 いや。

 全てのものが、ある一点へ吸い込まれていた。

 地下墓室の扉が開いていた。中は見えない。何もない。

 風どころか、草木や内部の装飾物までもがじりじりと地下へ引き込まれていく。

 確かにここにいては危ない。

 風の抵抗を受けないよう姿勢を低く保ち、オルソは一旦は背負ったグラーブの遺体を引き摺って脱出を試みた。黒いコートの裾に、人型を保てないロムブリコが泥となってしがみついている。

 万物を吸い込もうとする暴風に逆らい、徐々に遠ざかりながら、オルソはふと墓室の入口に目を留めた。

 グラーブが、髪もコートもなびかせることなく、虚無の入り口に立っていた。陰鬱かつ冷静な表情で吸い込まれていくものを点検している。その様子は、作業現場に運び込まれた樹木や切石の数を確認しているのと変わりなかった。

 光のない黒い瞳が、オルソの明るい茶色のそれを捕えた。

 沈着な面持ちでグラーブは口を開いた。

 聞こえない。が、確かに彼はこう言った。

 来たまえ。

 普段のグラーブ・ヴァンブラと全く変わりない。それでもオルソの背に凄まじい悪寒が走った。

 これまでに経験したことのない恐怖だった。

「グラーブ!」

 オルソは恐怖心に逆らって叫んだ。

「戻ってこい!」

 己の遺体を引き摺る元弟子を見つめるだけで、グラーブは返事をしなかった。代わりに風の勢いが増した。草木どころか、樹木までもが根こそぎ墓室へ引き寄せられていく。入口を通らない大きさの枝や幹が、ばきばきと音をたて潰されながら虚無へ吸い込まれる。

 標準よりやや重いとはいえ、通常の体重しか持たないオルソがその勢いに抵抗できる筈もない。

 引き摺った遺体もろとも、大柄な身体がふわりと浮き上がった。

 吸い込まれる、とオルソが思った瞬間、何かが彼の襟首を掴んだ。身体が浮き上がったまま、それでも聖堂の出口へ彼は導かれ始めた。

 若い庭師は首をねじ曲げ、恩人を見上げた。

 曲がった腰と、禿げた褐色の後頭部が見えた。

「えい、くそ重てえ」

 聞き覚えのある声が降った。

「クレイ親方?」

 老人とは思えない力強さで、クレイフィッシュは二人分の重量を引っ張っていた。

「若えの。オルソとか言ったな。死骸なんぞ捨ててしまえ。重くてかなわん」

「駄目だ」

「そんなもん持ち帰って、どうするつもりじゃ」

「葬式出すに決まってるだろうが!」

「そやつがそんな頼みごとをしたとも思えんがの」

「俺が決めたんだよ!」

 オルソの叫びに、老庭師はやれやれと首を振った。

「意固地だけはレイヴンから受け継いだようじゃ」

 聖堂の外へ引きずり出された途端、今度はオルソは一本の樺の根元へ放り出された。

 彼が最初に造った庭だった。

 いつも晴れ上がっている筈の空が、ここも他同様、上空一面に黒い雲が立ち込めている。

 グラーブの黒衣にへばりついていた泥塊が小人の姿をとった。ロムブリコは言った。

「俺が連れてきた。ここ、少しは安全。ご主人様のものじゃない。熊が俺たちにくれた庭だからな」

 オルソは飛び起きて痩身の鼓動を探した。頸動脈の辺りを探る彼に、ロムブリコが悲しげに首を振った。

「駄目。ご主人様、死んだ」

「聖堂にいたのは幽霊か魂か、そんなもんなんだろう。戻せないのか」

 オルソの問いに、ロムブリコとクレイフィッシュ親方は困ったように顔を見合わせた。どうやって説明したものか、考えあぐねているらしい。

「……聖堂にいたの、ご主人様の影」

 ロムブリコが口を開いた。その後をクレイフィッシュ親方が引き継いだ。

「影に、妄執が憑いたものじゃ。おめえさんにわしの伝言をつたえてもらってから、レイヴンは造るもんを変えた」

「ああ」

 オルソは頷いた。

「あやつは『穴』を埋めるのをやめて、己の心をそのまま形にしようとしたんじゃ」

「だけどご主人様、頭良過ぎた」

 と、ロムブリコ。

「心の闇考えるうち、考え過ぎて、ご主人様の方が取り込まれてしまった。心、裂けた。魂も裂けた。死んだとき、ひとつ影にとり憑いた。ひとつ、どこか行った。大地に還らなかった」

「要は狂っちまったんじゃ。おめえさん、気付いとらなんだのかね」

 その問いはオルソの胸を鋭く突いた。彼は視線を落として首を振った。グラーブは最後まで、考えられないほどの自制心でもって、弟子に本心を明かさなかった。あるいはあまりにもひそやかに狂気を進行させたために、オルソが気付けなかったのかもしれない。

「もう俺はグラーブの弟子じゃない。不様なところを見せたくないと言われてクビになった」

「哀れな奴じゃ」

 オルソではなく、グラーブを指した言葉だった。老庭師は遺体の傍らに胡坐をかいた。

「おそらくその時点で、己が狂い始めておったのを分かっとったのやもしれん。それを、おめえさんにだけは見られたくなかったんじゃろう」

 狂っていようが正気だろうが関係ない。

 三年も傍らにいて、何故、察知することができなかったのか。

 情けなさと自分に対する怒りを発散する気にもなれず、オルソはただ固く奥歯を噛みしめた。

 彼の内心を読んだかのように老親方が口を開いた。

「師匠思いじゃな」

「成り行きだ」

「こういう接し方しかできなんだ奴じゃ。許してやってくれんか」

「もう死んじまったんだ。許すも何もないだろう」

「あまり長くいない方がいい」

 ロムブリコが割り込んだ。

「ここ、しばらく不安定。帰り道、俺、案内できる」

 大きく項垂れていたオルソは顔を上げた。老庭師と小人を見比べる。

「あんたたちは?」

「ロムブリコ、大地。ここおかしくなっても、逃げる必要ない。そのうち落ち着くか、崩れてなくなっても地に還るだけだ」

「わしゃ、もともと影に過ぎん。レイヴンが何ぞやらかしたおかげで今はこうやって動き回っとるが、そのうちまた、影に戻るんじゃろ。消えるなら消えるで、それもまた構わん」

 二人からは飄々とした答えが返ってきた。まるで自我に固執しない、人外のものならではの意思なのかもしれない。

「おめえさんは外のもんじゃ。とっとと戻ったがええ」

「行くぞ」

 ロムブリコが案内に立つ。

「達者でやれよ、若えの」

 別れの挨拶に、オルソは返す言葉がなかった。

「ああ」

 ひとことだけ答え、オルソは遺体を背負い地精に続いた。


 時間にすれば小半時も経っていなかっただろう。

 オルソは痩身を棺に納め、書斎の扉を開いた。

 主人の遺体を見ても、老執事は驚かなかった。こうなるのではと、多少なりとも予想していたのだろう。

「ご愁傷様でございます」

 沈痛な面持ちで言った後、カヴァッロは尋ねた。

「棺の内側から鍵でも?」

 時間がかかった理由を言外に問うていた。オルソは首を振った。

「いや、済まない。情けない話だが俺が取り乱していた。大の男が人前で泣くのもみっともないだろう」

 何かと文句を垂れながらも、オルソが気の触れた師匠を心配して面倒を見ていたことは使用人の誰もが知っている。誰も彼の言葉を疑わなかった。

 臨終の際に医師が立ち会わなかったため、役所の検死医が遺体を引き取って行った。グラーブは紛うことなき人間である。プルシナのときのように芝居を打つ必要もなかった。

 オルソが出すと宣言したグラーブ・ヴァンブラの葬儀は、つつがなく終了した。天才造園家に敬意を表し同業者が集まったが、式自体は娘のとき同様、ひっそりとしたものだった。

 屋敷を引き払う直前に弁護士と公証人が訪れた。弁護士は遺言書を読み上げオルソに手渡し、遺産相続の証書にサインを求めた。証書には、一見しただけでは認識できない桁の数字が並んでいた。

 オルソは弟子募集の際の面接で、自分が述べた答えを思い出した。

 永遠の平穏と、老後まで完全に食っていけるだけの金。

 オルソは言われるがままに署名した。今となってはことさらに金が欲しいとも思わなかったが、といって、孤独な天才造園家がこのような形でしか自分に意を示すことができなかったのであれば、いらないと放り出す気にもなれなかった。

 独りになったオルソは再び故郷へ戻った。彼はプルシナ・ヴァンブラの埋葬されている教会へ赴き、遺体から切り取ったグラーブの黒い髪を謝礼と共に神父へ差し出した。

「娘の隣に、墓を作ってやってください」

 くだらない感傷だと分かってはいた。グラーブ自身、墓の下にあるのはもはや娘ではない、ただの人形だと言っていたのだ。

 教会の神父は沈痛な面持ちで承諾した。天才造園家の狂気がどんなものかを聞き及んでいた上、何よりレオーネ王より直々に、墓守を厳しく命じられている。

 以前世話になったカーニャは健在だった。オルソが報告するまでもなく、グラーブの訃報は彼女にまで届いていた。

 またしても目頭をハンカチで押さえながら、それでも初老の女は気丈にオルソを励ました。

「お気を落とされませんよう」

「厄介者がいなくなって、せいせいしてるさ」

 オルソの減らず口に、カーニャは以前のように叱責を浴びせなかった。大柄な造園家が意気消沈しているのが、傍目にも明らからしい。

「これからのご予定は?」

「何も決めてない。当分は今まで通り、あちこちを回ろうと思っている」

「また近くにみえたら、家にお寄りくださいまし」

 一晩をカーニャの家で厄介になり、オルソは早々に故郷を出た。まさかとは思うが、レオーネ王に呼びつけられないとも限らない。今はなおさら、社交辞令は御免だった。

 造園家オルソ・マイラーノの名は、ごく一部の間で知れ渡っていた。グラーブ・ヴァンブラの弟子という肩書は、仕事を受ける上で確かに役に立った。が、天才造園家の弟子ではなく、オルソ・マイラーノその人に造って欲しいという依頼が徐々に増え始めると、その肩書はじきに必要がなくなった。

「箱庭」にも幾度か足を運んでいた。が、階段下の世界は消滅こそしていないものの、いつ行っても荒れ狂っていた。聖堂に向かおうとしては道に迷い、半分形の崩れたロムブリコに入口まで送り返され、ついにはこう言われた。

「熊。おまえ、しばらく来るな。ここ危ない」

「しばらくって、どれぐらいだ。落ち着く気配はないのか?」

 泥人形のような小人は、頭と思しき場所を横に振った。

「分からない。ご主人様の影と魂、ずっとこのままかもしれないし、俺たちに還ってくるかもしれない」

 それでもオルソは諦めなかったが、目的地へは相変わらず辿り着けず、徐々に足が遠のいていった。

 所詮、死者は死者だ。


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