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園丁の王  作者: 井出有紀
12/15

第二章 6

6.


 むくむくと路面から生えてきたロムブリコを見て、オルソは露骨に嫌な顔をした。

「まだ呼んでないぞ」

「熊、おまえ友達なのに、あんまり来ない。俺たち退屈」

「俺はおまえのご主人様ほど研究熱心じゃない」

 グラーブに比べ、オルソが「箱庭」へ降りてくる頻度は遥かに少なかった。せいぜいが気晴らしである。まずもって彼は、師匠のように不可解な方法で休息をとっている訳ではない。つまり、きちんと眠らなければならない。

「分かった」

 ひょこひょことオルソについて歩きながら、小人は貧弱な顎鬚を撫でた。

「おまえ、一人であれこれ考えるより、誰かと話したり一緒に考えたりしながら庭造る方が好きだな」

「元々がそういう仕事だ」

「まあ客商売だからな」

 分かったような顔をしてロムブリコは頷いた。

「おまえ、庭造ることによって何かを求めていない。庭造る、それだけで楽しい。これ、結構いいこと」

「ありがとうよ」

「どうしてご主人様、おまえ避ける?」

 不意打ちを喰らい、オルソは何もない地面でつんのめりそうになった。

「いきなり何だ?」

「おまえ、前みたいにここでご主人様と顔合わせなくなった。それ、ご主人様が見られるのを嫌がってるからだ」

 二人の関係に何か劇的な変化があった訳ではない。実際していることにも変わりがない。呼ばれるままに各地を移動し、庭を造り、弟子は師匠の下で仕事を手伝い、時には一件まるごと任されることもあった。

 変わったことといえば、オルソを指名した依頼書がぽつりぽつりと舞い込むようになったぐらいである。このような依頼書が届いたときは、グラーブは自分が多忙であっても迷わず弟子をその仕事へ向かわせた。天才造園家は、弟子をもはや助手でなく、独立した一人の庭師、あるいは造園家として扱っていた。

 彼の客は大抵、整然とした幾何学式庭園や洗練された露壇式庭園ではなく、牧歌的な、あるいは可憐な、ときには遊び心のある庭を要求した。

「失礼なことを申し上げてご気分を害さないでくださいましね。お噂通り、勇ましいお姿に似合わず可愛らしいお庭をお造りになりますのね」

 ある仕事先で依頼人たる老婦人ににこやかに言われて初めて、オルソは自分の庭が世辞でなく女性陣に人気があるのだと知ったものである。

 細かいトラブルは頻発するがそれは日常茶飯事であり、二人の造園家は概ね順調に仕事を続けている。師匠は相変わらず陰気で冷静で表向きは狂人であり、しかし、仕事は淡々とこなし、弟子もこれまた相変わらず、やや粗野なものの最低限の礼儀はわきまえ人当たりは良く、機嫌良く客や職人と会話を交わしながら作業を進めている。

 ただ、時は進んでいた。二年、とグラーブが告げてからさらに一年半が経っていた。例の発作は定期的に訪れ、蒼白な貌の男の命を確実に削り取っていた。

「熊、おまえご主人様に何かしたか」

 何もしていない。

 しかし、眩しい日差しの下、ふとした弾みにオルソがグラーブの荒れた白い手に触れそうになる瞬間がある度、陰鬱な男は表情を変えず、実にさりげなく身を退けた。

 そんな数瞬が生じること自体、おかしいのだ。

 グラーブ・ヴァンブラは現在まで巧みに人との物理的距離を絶って時を過ごしており、今もそれに変わりはない。周囲の誰一人にも気付かせない程に。

 それはオルソとて例外ではなかった。

 奇妙だと彼が感じ始めたのは、グラーブから余命を聞かされた夜が明けて以降である。

 師匠の「例外」になったと自認したが故に、避けられていると自意識過剰に陥っているのか。

 あるいは――これは認めたくないことだが――オルソが無意識に死体を想起させる冷たさに惹き寄せられ、グラーブがあからさまに身を引かねばならない奇妙な空白が発生してしまっているのか。

「何って何を」

 心当たりを隠し、素知らぬ顔でオルソは聞き返した。

「分からないから訊いてる。ご主人様、考えごと多くなった」

「あれ以上何を考えるんだ」

「おまえを近づけなくなったのと関係ある筈だ」

 地精は執拗だった。

「ご主人様、頭いい。だからいっぱい考える。最近、ただ考えるだけじゃない。苦しそうに見える」

「直接訊けよ」

「畏れ多くもご主人様にそんな失礼できるか。ロムブリコ、すぐにばらばら」

「恐がってる癖に、心配なんかするのか?」

 オルソは地精をからかった。ロムブリコは呆れて首を振った。

「熊、おまえまだ分からないか。ご主人様恐いのロムブリコ。ご主人様心配してるの俺たち。イーサに喧嘩しかけたご主人様のような人間、なかなかいない。だから俺たち大地、覚えてる。ご主人様、身の程知らず。あの苦しみ当然。でも俺たち、イーサよりは生きものに優しい。皆、俺たちに還ってくるからな。だがご主人様、苦しみ過ぎて還れないかもしれない。それ少し心配」

 何を言っているのかオルソにはさっぱり分からない。ただ、ロムブリコが言ったグラーブの「苦しそうな」様子だけは気になった。

 三年余りグラーブ・ヴァンブラという人間の傍らにいる間にオルソは、師匠が聖堂で何の作業をしているのか、なんとなく分かるようになっていた。言葉にするのは難しい。

 王宮庭園で感じた底なしの穴、聖堂の地下墓室から漂ってきたもの、そして造り主自身からすっぽりと抜け落ちた何か。それはおそらく同じもので、その虚無を何とか埋めようと試みている。

「箱庭」では造った庭がそのまま心だと、地精は言った。他者の依頼を受けて造る現実世界の庭とて、それは同じだ。ただ現実の庭は、依頼者の意向を反映させねばならない。庭造りは、依頼者との精神的な共同作業でもある。

 グラーブは、言うなれば幾年にも渡って心の整理をするために、あるいは救済を求めて庭を造ってきたのかもしれない。そうならば、庭を造るという行為自体は目的達成のための手段でしかない。従って、他人から依頼された仕事を、さして熱意を持たずに義務的にこなすことになる。

 が、既に遊んで暮らせるだけの経済力があるというのに、それでもなお依頼を受けるということは、人の庭を造ることもまた、何か己の探求の参考になると思っているのだろう。

 気付いたときには、ロムブリコの姿が消えていた。大きな友人が珍しく深刻な顔で考え込んでいるのを見て、気を利かせたのかもしれない。

 例によってここは、あちらが快晴でこちらが雷雨、向こうが夜でそちらは朝という具合に、空が一度に複数の顔を見せている。ここでは空模様までもを、造り手が決められる。

 オルソの上空は、暖かくも鮮烈な茜色に染まっている。

 夕焼けである。

 彼は見慣れない人影を見つけ、彼が二、三度目に造った庭で足を止めた。

 なんということもない、小さな庭である。さして技巧を凝らしてもいない庭の背後に、これまたこじんまりとした田舎風の一軒家が建っている。技術を研鑽しようとした訳でも、庭の構造を研究しようとした訳でもない。

 ただ、あまりに漠然としていては地精が動きかねるので、一応細かいところまでは考えたが、といって何かを題材にしたというのでもない。それこそ気晴らしに、身を落ち着けるならばこんなのんびりとした家でもいい、などと思いながら造っただけである。

 夕暮れの庭で、日当たりの良い――といっても太陽はないので陰になっていないという意味だが――家の壁に半ばもたれるようにして、小柄な老人がうたた寝をしていた。

 オルソは最初、あちらこちらの庭園で見られる影の一人だと思った。が、彼らは皆、自らの考えに沈んでゆっくりと歩き回ったり座り込んだりするものの、眠りはしない。しかも、決して己の縄張りから出ることもない。

 影でなければ、ロムブリコと同じ地精なのだろう。彼らは様々な姿かたちをしているが、中にはロムブリコよりもそれらしい、人間そのものの姿で働くものもいる。

「おい」

 オルソは地精の前にしゃがみ込んで声をかけた。

「おまえたちが風邪を引くかどうか知らんが、寝るんだったら、もう少し日の高いところで寝たらどうだ」

 かくん、と老いた地精の禿頭が下がった。灰色の頭髪は頭の後ろと横に僅かに残っている程度である。

「おい、じいさん」

 老人ではないのかもしれないが、外見に従いオルソは再度呼びかけた。

「呑気にこんなとこで寝てたら、おまえのご主人様が怒るんじゃないのか? まあ俺が造った庭だから勝手に居眠りしても構わないとは思うが」

 何ごとかむにゃむにゃ言いながら、地精は目を覚ました。大きな欠伸を一つしてから、渋い緑色の目をオルソに向けた。

「おめえさんが造ったのか、ここは」

「ああ」

「よっこらしょ」

 かけ声をあげて地精は立ち上がった。ロムブリコよりも芸の細かい人間振りである。ひょっとしたら地精よりランクの高い、精霊級の存在なのかもしれない。

 幾分曲がった腰に手を当て、老人は職人そのものの眼差しで辺りを見渡した。

「しばらく放っとかれとるようだが、まあ、そこそこいい庭じゃ。あんまり気持ちがいいもんで、つい眠っちまった」

 それから老人は改めて背後の家を眺めた。

「じゃが、家の中は空だったぞ」

「家の中に何を置くかなんてのは、誰が住むかによるだろう」

「違いねえ」

 地の精霊は、ロムブリコよりもさらに流暢に人語を操った。ただ、西方の島国で使われる言語を喋っている。オルソは傭兵時代に何年かをそこで過ごしたので、意思疎通するのに不自由しない程度には老人と同じ言葉を操れた。

「なあ、若えの。おめえさん、こんな田舎の家に住みたいんかね」

「まあ、そのうちのんびりとな」

 答えながら、オルソはある事実に気付いた。精霊の口調はどこか、グラーブの微かな訛りを思い出させる。

「そこの生け垣が……」

 ぶつぶつと呟きながら、老人は刈り込み鋏を手にひょこひょこと月桂樹の生け垣まで歩を進めた。鋏の他に枝払いの箒もぶら下げている。老いた精霊は、大柄な庭師を振り仰いだ。

「ちょっと手入れしても構わんかのう?」

「やってくれ」

 オルソの返事に老人は意外そうな顔をした。

「おや、珍しい職人じゃ。この爺はおめえさんの仕事にけちを付けとるんだぞ」

「いや、実際手入れしてないんだから、文句なんか言えないさ」

 庭の完全な姿を維持するために、ここではある程度植物の生育を抑制することさえ可能である。が、オルソはそれも何か不自然な気がして、無理に草木の成長を遅らせることもせず、空模様も時と大気の流れに任せ、気が向いたら適当に手入れをしてくれとロムブリコに頼んであった。つまり、造った後は放置していた。

「それにあんたの手並みを拝見したい。腕のいい職人なんだろう?」

「ふむ、随分人を持ち上げるのが上手い若造だの」

 皮肉を言いながらも老人は満更でもなさそうだった。早速箒で、生け垣の間に張った蜘蛛の巣や枯れかかった葉を払いのけ、鮮やかな手つきで刈り込みを始めた。

 月桂樹の植え込みは、外と庭とを完全に隔ててはいない。その気になれば枝の間から内部を覗き込める、開放的な生け垣である。性分なのか、閉鎖的であまりにもきちんとした庭を造るのは、オルソはさして好きではない。

 老人は庭を見た瞬間、オルソの趣向を察知していた。樹形を生かして鋏をふるい、人工的でもなく、といって荒れた雰囲気もない、ごく自然な形に生け垣を整えていった。

「おめえさんの年にしちゃ、放っといた分を差し置いても、ちいっと雑な仕事じゃな。子どもん頃からやっとる訳でもないんか」

「最初から始めて三年ぐらいになる」

「ほう、それでも三年でここまで来たか。筋は悪くないし、師匠にも恵まれたな。わしの家にも一人おったぞ。レイヴンといってな、養子にした男だったが、何年もせんうちに、刈り込み鋏を使う仕事以外はこなせるようになっちまった。まあそいつは右手がなかったんでな、こればかりは無理だったって訳じゃ」

 刈り込み鋏は、やや長めの刃にさらに長い柄のついた大型の鋏である。小型の剪定鋏とは違って、両手でなければ扱えない。

「そのうち建築だとか設計だとか、わしには分からんことまで勉強するようになったわ」

 手を休めずに老人が続ける話を聴きながら、オルソは精霊の姿を食い入るように見つめた。

 褐色の肌に緑色の瞳、かつては黒かったであろう灰色の頭髪。操る言語に相応しい容姿である。

「じいさん、名前は?」

 オルソの問いに、気分を害した顔で老人は振り返った。

「礼儀を知らん若造じゃ。名前を聞くときは手前から名乗るもんだろうが」

 オルソは素直に謝った。

「済まん。俺はオルソ・マイラーノ」

「わしはクレイフィッシュ・ヴァンブラじゃ。まあ、長ったらしい名前だからの、頭だけとってクレイと呼ばれとった」

 驚くよりも、やはり、といった気持ちの方が強かった。オルソは言った。

「レイヴンって名前は俺が住んでる辺りじゃグラーブと読み替えられるんだ。グラーブ・ヴァンブラの世話になって三年になる」

「ほう?」

 老庭師は意外そうに唸り声をあげた。

「あやつが弟子を取ったか。しかも、そこそこ人を見る目もあるらしい。結局、親方職も渡せなんだが、食うには困っておらんようじゃ」

「あんたは死んだってグラーブからは聞いた」

「死んだ」

 あっさりとクレイフィッシュ・ヴァンブラは肯定した。世間話をしているような口調で

鋏を動かす手を止めもしない。

「あやつが出て行くと言ったとき、帰ってこんだろうとは思ったよ。それでもな、外の世界を見て回れば人ってやつは変わることもある。血は繋がっとらんが息子には違いない。待ってやるつもりだったが、わしの方が先にぽっくり逝っちまった。親方職は、女房と職人連中で話し合って、古くから勤めとった奴にくれちまった。

 話を聞く限りこの老人は死霊である。が、こうやって手際良く月桂樹を刈り込む姿からは、寒々しさも、禍々しさも全く感じられない。

「あんた、生きてるのか死んでるのかどっちなんだ?」

「一度は死んだから死んどるんじゃろう。最初は自分の庭をふらふら歩いとる覚えしかなかったんじゃが、何やらそのうち目が覚めてきて、自由に動き回れるようになった」

 影だったのが、何かの拍子で実体を伴ったらしい。

「飯は?」

「腹は減らんし、喉も乾かん。前は酒が好きだったが、今は特に飲みたいとも思わんの。先に死んじまった息子んところへ行けばええんじゃろうが、それも特に気にならんし、残してきた女房もさして気にならん。よう分からんが、少しだけ魂が残っとって、後は天に召されちまったような気分じゃ」

 それからクレイフィッシュ老人は、オルソがまるで彼の古くからの弟子であるかのように庭の管理について延々と説教を垂れ、彼に草むしりを命じた。

 作業をしながら、他に話題もないので二人は互いの身の上を語り合った。こんなとき相手がグラーブだと、沈黙が落ちてひたすら手を動かすのみになる。

「ほうか。わしもそれなりに苦労したが、そこそこは平和じゃった。おめえさんは難儀してきたな。なのに、さほどひん曲がった奴になっちゃいねえ。だから、レイヴンにぽっかりと空いちまった『穴』が分かったのかもしれん」

「あんたもそうだから、グラーブに親方を継がせなかったんだろう?」

 オルソの問いに、老人は首を振った。

「わしゃ、おめえほど勘が良くねえよ。ただ、あいつに手を入れられた草や木が、陰気に見えることはあった。木が喜んどらんように感じた」

 それとて大した勘である。オルソは以前聞いた、建築家ガットの言葉を思い出した。

 どんな職も、極めれば魔術めいたものになる。

「それに奴は、ただ仕事をしとっただけじゃったからな。確かに何でも覚えるのは早かったし、よく勉強もしとった。だが、それだけじゃ。自分のやっとることに興味もやる気もない。腕さえ良ければいいという奴もおるが、ただの植木職人でも、職人としての誇りがある」

 それにはオルソも同感である。彼は老人に尋ねた。

「グラーブの聖堂を見たか?」

「ああ、地下に墓がある所じゃろ。あそこへ行ってわしゃ、ようやく『穴』が分かったよ」

「今も考えてたんだが、グラーブはあれを何とかしようとして、庭を造っているんだと思う」

 オルソの意見を聞いた老庭師は、しばらく黙って鋏を動かし続けた。それからぽつりと言った。

「馬鹿な奴じゃ」

「なんだって?」

「馬鹿な奴だと言ったんじゃ」

 怒りと哀れみが入り混じった声で老人は繰り返した。

「世間も人も、そんなきちんとなっとる訳がない。おめえさんでも分かっとることが、頭の良過ぎるあやつには分かっとらんのじゃ。何もかも理詰めでことが運べば、誰も苦労なんぞせん」

 そこまで言って老いた庭師は作業を止めた。くるりと振り返り、地面にしゃがみ込んで草むしりをするオルソを見た。

「なあ、若えの。失くした手がまた生えてくるか? 不便になった分は他で補うしかない。わしゃ、死んだ息子の代わりにあやつを引き取った。だからといって、死んだ息子がいないということには変わりない」

 至極もっともな意見に、ああ、と青年は頷いた。

「心にしても同じだと思わんか。レイヴンがどんな目に遭ったのかまでは知らんが、暗い穴がぽっかり空いちまったんなら、それがどんなに大きくても、結局は抱えていくしかあるまい。新しく得られるものを得ようとせず、できもせん、穴を埋めることばっかり気を取られとるから馬鹿だと言ったんじゃ」

 今度は、オルソは即座に頷けなかった。老人は、グラーブのしてきたことには意味がないと言っているのだ。

「わしゃ、ここがどんな場所かもよく知らんかった。時々、妙な小人みたいなもんが出てきて教えてくれよったがな。あいつとは結構気が合う。そいつによれば、ここで造る庭は、そのまま人の心でもあるっていうじゃねえか。

「わしみたいに頭の悪いもんにはよく分からねえが、その庭を好きに造り変えたからといって、それで手前の心を思うように変えることができるのか?」

 クレイフィッシュの呈した疑問に、オルソは答えられなかった。とても彼の考えが及ぶところではない。謙虚にしているにせよ、老人は自分で言うより遥かに明晰な頭脳の持ち主である。

「あんたからグラーブにそう言ってくれ」

「おめえさん、でかいなりして辛気くさい師匠が恐いのか?」

 そうじゃない、とオルソは怒りもせずに否定した。

「グラーブは、あと半年ぐらいしか生きられない」

 オルソが告げると老庭師は、ほうか、と眉をひそめた。が、次に出てきた言葉には全く同情の余地がなかった。

「わしなんぞ、もうとっくの昔に死んどる」

「それはそうだが」

 オルソは躊躇した。余命一年を切った男に対して、おまえが今までしてきたことは無意味だとなどと、彼には言えない。

 茜色の空が薄暗くなり、群青色に染まってきた。

 そんなもんでええだろう、とクレイフィッシュ親方はオルソに草むしりをやめさせた。鋏と箒をぶら下げ、彼は小さな庭の出口へ向かった。

「まあ、気が向いたら爺からのお節介だと伝えてやってくれんか。わしは、なぜだか知らんがあやつに会うことができんのじゃ」

「ちょっと待ってくれ」

 庭を出た老人を追ってオルソも敷地の外へ出る。

 いない。

 どの方角を見渡しても、老庭師の姿はなかった。身を隠せるようなものなど、近くにはない。

「ロムブリコ」

 オルソが呼ぶと、小人が地面から生えてきた。

「じいさんがどこへ行ったか分かるか?」

「ご主人様のお師匠のことか?」

「そうだ」

「分からない」

「なんで」

「ご主人様のお師匠、難しい。最初、ただの影だった。ご主人様、死んだお師匠のこと気にしていた。ご主人様、ここじゃ頭で考えるだけで物を造り出せる。おまえが登ってきた梯子と同じ。ただ、材料俺たちと同じ」

「じゃ、仲間なんだろ」

「俺たちは呼び出されるだけ。お師匠、ご主人様が造った部分ある。ご主人様、お師匠偉いと思ってる。だからお師匠、ご主人様と同じように好きに動き回れる」

「じゃ、なんであの二人が顔を合わせられないんだ」

「ご主人様はお師匠でもあるからだ。同じ者、顔合わせられない。これ当たり前」

 この時点で、地精の答えはオルソの理解力を完全に超えた。

「もう少し分かるように説明してくれ」

「俺、人語上手くない」

 言ってから、小人は先のお返しとばかりにオルソに提案した。

「後でご主人様に直接訊いたらどうだ」

 にんまりと意地悪かつ得意げな笑みを浮かべるロムブリコを、オルソは忌々しげに睨み下ろした。


 さほど日数のかからない仕事だった。二人は依頼主の広大な屋敷内に、客間と以前書斎として使用していた空き部屋を作業場にあてがわれ、挨拶もそこそこに依頼主と仕事の打ち合わせに入った。

 さしあたって必要な物だけを運び込んだ雑然とした部屋から屋敷の主が立ち去った後、グラーブは尋ねた。

「クレイフィッシュ親方に会ったのかね」

「ああ」

 頷いてから、オルソは唖然として師匠を見つめた。当人は相変わらず陰気な雰囲気をまき散らしながら、何食わぬ顔で積み上げられた荷物の整理をしている。弟子の返事にも特に驚いていない。

 オルソは片手で顔を覆い天井を仰いだ。

 自分がとてつもない大馬鹿者になった気分だった。

「あんた、俺の心を読めるのか?」

「ここ数日の様子から推測しただけだ」

 光のない黒い瞳は、何事をも見逃さなかった。

 予想外の言動を取ることがあるものの、オルソの思考や感情の動きは、概ねグラーブに把握されていた。共にいる日が増すにつれ、その傾向は強まっている。

 オルソは違う。地精はグラーブが苦悩していると言ったが、隻腕の造園家は弟子の前ではその片鱗すら窺わせない。

 相手にばかり自分の心を見透かされ、こちらからは相手がその気にならない限り、内心を知ることができない。寿命が近づいているというのに依然として落ち着き払っているグラーブに対して、オルソは苛立ちにも似た戸惑いを感じずにはいられなかった。

「彼は何と言っていたかね」

 最も訊かれたくない問いを、グラーブは発した。

 オルソは答えずに荷の整理を手伝い始めた。グラーブは片手で荷物を選り分けながら、暗い声で催促した。

「君が案ずることはない。あのクレイフィッシュ親方は私の一部だ」

「ロムブリコもそんなことを言っていた。どういう意味だ」

「元々は親方の庭についてきた影だった。どうも私自身、知らないうちに園亭キオスクや橋を造るのと同じ要領で、影に心と実体をかくあれと与えてしまったらしい。確かに彼について考えることも度々あったのでな」

「師匠を建築物扱いか?」

 呆れるオルソを無視してグラーブは続けた。

「私の望みが反映された存在ならば、彼が言ったことは、おそらく私が意識下で考えていることだろう」

 ロムブリコの説明よりは分かりやすいが、それでも現実にのみ即して生きるオルソにとって難解であることには変わりがない。

 なおも躊躇するオルソに、グラーブは漆黒の目を向けた。表情を露わにしない瞳は暗いだけで、決して険しくない。にも関わらず、その視線は日焼けした横顔に鋭く突き刺さった。

「オルソ」

 名を呼んだだけだった。しかしその静かな声には、抗いがたい響きがこめられていた。

「……空いた穴は、結局、抱えてくしかない」

 オルソは観念して口を割った。

「それを埋めることにばかり気を取られて、新しいものを得ようとしないあんたは愚かだと。『箱庭』で造る庭は、造る人間の心を表わすが、逆に、思うような庭を造れたからといって心も変えられるのか、とじいさんは言っていた」

 舌足らずな伝言だったかもしれない。が、グラーブは何も質問をしなかった。

 しばらく二人は無言で荷を解いた。長期間の仕事であればこの屋敷の召し使いに手伝ってもらうところだが、必要な物もさして多くない。

 荷解きが終わる頃になってグラーブはひとこと言った。

「分かった」

 陰気で沈着な表情が変わることはなかった。いつも通り二人が改修する庭の一部を計測し、地質の吟味を行うと日も暮れた。

 夕食の席で依頼主は天才庭師が本当に気が触れたのかという好奇心から、恐る恐るお定まりの言葉――娘さんはお気の毒でした――を口にし、グラーブもまた例によって、プルシナは眠っているだけだと繰り返して相手の期待に応えた。

 二人が滞在しているのはそこそこ大きな町である。お決まりの遊び場もあるが、グラーブの余命を聞かされて以来、オルソの夜遊びはぴたりと止んだ。グラーブに「たまには気晴らしをしてきたまえ」と言われる始末だったが、それに対してオルソは「あんたこそ何でもいいから遊んでこい」と返して、結局、師匠の傍から離れようとしなかった。

 どうにも放っておき辛かった。

 グラーブは常人では想像できない、凄まじい体験を経てきている。それでなお正気を保っているのだ、死線をいくつも潜り抜けてきたオルソより元来の精神力は強いに違いない。

 それでも現在となれば話は別である。確かに気晴らしは大切だが、余命半年を切った病人を置いて遊びに出かけるのは気が引ける。悪寒に襲われる以外の症状はないが、グラーブが不治の病持ちであることには変わりがない。

 打ち合わせをした庭の図面を広げて考え込む師匠を後目に、弟子は自分の寝台に潜り込んだ。いたって寝つきは良い。すぐに彼は健康的な寝息をたて始めた。

 目が覚めたときには、外はまだ暗かった。鎧戸の隙間から暁の光も差し込んでいない。

 いや。

 部屋自体が薄明るい。明かりが灯されたままである。

 隣の寝台は空だった。使用された形跡もない。またグラーブが階段下の世界へ降りて行ったのかと思い、オルソは身を起こした。

 図面を机の上に広げ、隻腕の男が考え込んでいた。オルソが眠る前と同じ姿勢である。

 さほど時間が経っていないのかと思ったものの、燭台に立てられている蝋燭の減り具合を見て、オルソは目を疑った。もう一刻もすれば夜明けである。グラーブは夜間ずっと、そのままの姿勢で凍りついていたようだった。

「グラーブ?」

 男は身じろぎどころか、白い横顔の眉ひとすじさえ動かさなかった。目は開いている。

「グラーブ」

 オルソは音量を上げた。それでも動かない。俄かに彼は不安を掻き立てられた。師匠が一旦深い思索に耽ると心ここにあらずといった感になることには慣れていたが、普段のそれとは明らかに違う。

 オルソはベッドを降り、身動きをしない男の肩に手を置き、軽く揺すった。

「グラーブ」

 再三呼ばれ、ようやくグラーブが反応を示した。おそろしく緩慢な動きで、彼は若い造園家を見上げた。暗鬱で平静な表情に変化はない。が、青白い貌はいつにも増して虚ろなものを浮かべていた。

 大丈夫か、などという無駄な問いをオルソは省いた。

「考え過ぎだ」

「何も考えてなどいない」

 声も虚無的な響きを帯びていた。

「思っていただけだ。潜在意識で無意味と知りながら、私はずっと無駄な作業を続けてきたのかと。しかし、他に何ができた? 残された時間は少ない。今さら何を始めろと?」

 オルソに答えられる問いではなかった。グラーブも口に出しているだけで、答えを求めている訳ではない。

 薄明るい部屋で、二人は互いを凝視し続けた。

 やがてオルソは目を閉じ、少し間を空けてから開いた。

 眼前にあるのは、やはり空虚で暗い白皙である。僅かな光も反射しない漆黒の瞳は、オルソを通り過ぎ何か異なるものを見つめている。いや、何も見ていないのかもしれない。

 若い庭師は、敬虔ともいえる静けさでもって青白い額にそっと唇で触れた。

 記憶に残っている凍えた手より、なお冷たい。

 オルソはすぐに離れた。相手の顔も見ずに、ずかずかと自分の寝台に戻って夏用の薄い毛布を引き上げる。横になりながら彼は荒々しく言った。

「考えるな。寝ろ。座ったままでもいい。とにかく少しでも寝ろ」

「オルソ」

「何だ」

「引きずり込まれるな」

 オルソは起き上がった。依然として椅子に座っているグラーブを改めて見る。師匠は普段通りの陰鬱なだけの面持ちに戻っていた。

「何に?」

 聞き返すが、答えはない。

 オルソは深くため息をついて枕に頭を埋めた。


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