第一章 1-1
第一章
1-1
貴族や成金商人のちょっとした屋敷に出入りして、終日庭木をいじって過ごせればそれで良い。
二十代の青年にしては年寄りじみた願望である。が、兵士として十五年以上を過ごしたオルソ・マイラーノにとって、草木を相手にする庭師という職業は、血生臭い殺し合いと対極に位置する、正に平和の象徴だった。
数年前から、そのような漠然とした思いはあった。漠然とした思いが強い願望となるまでにさほど年数も要せず、二十八歳になったある日、彼はそれを実行に移した。つまり、とある傭兵団の副長という立場を投げ打ち、貯め込んだ小金を懐に帰還した。
が、ことは思うように運ばないものである。オルソが十二歳まで育った孤児院は、どんな過程を経たものか趣味の悪いサロンに変貌を遂げていた。サロンにたむろする自称知識人たちも店の主人も、孤児院で暮らしていた子どもや院長の行方を知らなかった。
身寄りがなくなった。
オルソは就職難に陥った。
厳密に言えば、ありつく職に不自由はない。折りしも母国は三年前の戦で大勝した矢先である。若い国王は戦勝記念碑を含めた大宮園を造ると宣言し、諸国で引っ張りだこになっている天才造園家と建築家を招いた。無論、彼らの手足となって実際に働く者が必要である。国中から大工や植木職人が総動員された。
従って今はどこも人手が足りない。飛び入りでも働くことはできる。ただ、この国ではスクオーラという同業者による協同組合が幅を利かせている。しかるべき紹介状を持って行かない限り、独立も叶わず下働きのままで一生を終える可能性が高い。ほとんどの場合、仕事がなくなった途端にクビが飛ぶ。ちなみにオルソの「しかるべき紹介状」を得る場所とは、件の消滅した孤児院である。要は、身元保証人を付けろという訳だ。
七十や八十の老人になるまで生きているかどうかも怪しいものである。しかし、若い親方に扱き使われる老いた自分の姿は、一時は傭兵隊長の片腕として遊撃隊を率いていた身としては、やはり受け入れがたいものがあった。
幸いまだ懐には余裕がある。
オルソは特定の親方には弟子入りをせず、王室の求職窓口へ並んだ。とにかく人手が足りないので、腕に覚えのある職人や建築家から、石材を運ぶだけの単純労働者まで、窓口は今もってあらゆる労働者を募集している。
オルソはとりあえず草木の基本的な扱いだけでも身につけ、気長に待つつもりだった。宮苑を構成する記念碑と庭園造築は二年前から始まっているが、なにしろ大事業である。おそろしく大規模な人海戦術が用いられているとはいえ、完成までにまだあと一年はかかるらしい。
それまでに、苛酷な仕事に体力が尽きたり、嫌気が差すなどして脱落する新米の弟子が必ず出る。広大とはいえ同じ職場であれば、その手の情報は自然と聞こえてくるものだ。しばらく機会を窺がって、条件の良さそうな親方の元へ潜り込もうとオルソは考えた。養うべき者もいない。自分だけ食いつなげれば、しばらくはそれで構わない。
長い行列に並ぶ忍耐を経て、オルソは求職書を提出した。
窓口の役人が、あからさまに怪訝な顔をしてみせた。
外見から判断すれば、今日から働けと言われてもおかしくない。大抵の者より上背があり、着古した衣服の上からでもそれと分かるほど筋肉もついている。日焼けした肌も色あせた金髪も、連日を屋外で過ごし強い日差しに晒され続けた証である。
「これがまずいのか?」
オルソは額にうっすらと残る傷痕を指差して尋ねた。もはや誰も判別できないだろう。弾丸が掠めた跡である。
が、役人はオルソの質問を理解して、それでも首を振った。
「いや、兵隊だったのはちっとも構わないし、正規兵じゃなかったってのも、まあいいさ。都どころか外国からでも出稼ぎに来る連中だっているんだから。それに、その訛りでおまえさんがこの国だってことは分かる」
「じゃ、なんだ」
「余計な世話かもしれないが……」
難しげな顔のまま、役人は書類と目の前の青年を見比べた。
「傭兵は実入りが悪かったのか?」
「そこそこだな。だが、もう戦にはうんざりした」
ふむ、と役人は頷き考え込んだ。
「おい、愚図愚図してんじゃねぇぞ」
背後で文句が挙がった。オルソも歯切れの悪い対応にしびれを切らせかけていたので、つい強い口調になってしまった。
「一体、何がいけないんだ」
「いけないと言えばいけないが……」
相変わらず煮え切らない態度のまま、それでも役人は書類を作成し、オルソに手渡した。一点を指差し、
「今ならまだ間に合うかもしれん。すぐに持って行きたまえ。場所はここだ、分かるな」
知らない筈がない。思いがけない場所を指定され、オルソは驚いた。王宮正門前の詰め所である。彼らのような労働者は使用人専用の小さな門から出入りするものと相場が決まっている。時間にしてもそうだ。
「すぐに?」
「すぐにだ。走れ」
オルソは役所を飛び出した。
実はこの時点で、オルソも役人も重大な過ちを犯していた。
王が招いた造園家の名を、グラーブ・ヴァンブラという。名はともかく、ヴァンブラという姓は外国のものである。口調にもどことも言い切れぬほどの微妙な訛りが入っている。おそらく本人か親が、西方の海に浮かぶ島国の出身なのだろう。
どんな荒野も、猫の額しかない土地も、天才造園家と謳われるグラーブの手にかかればこの世の楽園に生まれ変わる。各国の王侯貴族や富豪が金を惜しまずこの男を招こうと躍起になっている。
帰国する前のオルソもその名だけは知っていた。故郷の宮苑造築に携わっているという話も耳にしていた。庭や植木などに無関心な傭兵集団へまでこの噂が届いた理由は他ならない。金持ち連中が申し出る莫大な金額のためである。
そのグラーブ・ヴァンブラの姿を最初に見た際、オルソは我が目を疑った。
年齢は三十八、オルソよりちょうど十歳上である。肉薄な相貌は青白く、後ろへ撫でつけられた短い髪は黒く、同じ色の瞳には全く光がなく、いくたりとも生気が感じられない。何百人もの職人を顎で扱き使う大事業を任された人物とは、とてもオルソには思えなかった。
中背の痩躯は、常に黒か、限りなく黒に近い暗い色の衣装をまとっている。右の袖が空虚に垂れ下がっているのは、事故により右肘から先を失ったためだという。その際に彼は右腕だけでなく、妻をも失った。
隻腕で、造園家グラーブは大抵の動作をやってのけた。左手でペンを持ち、肘までしかない右腕も使って図面を引き、剪定鋏を器用に扱い、馬にさえ介助なしでまたがった。
それでもふとした拍子に生じる日常の不都合を補うのは、グラーブの幼い娘である。
十歳のプルシナは、父とは似ても似つかぬ愛くるしい容姿の持ち主である。緩やかにうねる亜麻色の髪は一房だけリボンで束ねられ、小さな顔に、大きな碧の瞳と桜色の頬が映えている。
しかし、外見に相似のないこの二人にも、見紛うことなき親子の共通点が見受けられた。
表情がない。
にこりともしない、という程度ではない。泣きもしなければ怒りもしない。それどころか一言も発しない。喋れないのだ。
ぴくりとも動かず父の傍らに寄り添う姿は、その明るい瞳も実はただのガラス玉ではないかという錯覚を見る者に起こさせるほどである。
父は妻と共に腕を失ったが、娘は母と共に心と声を失ったのかもしれない。
オルソの意図通り、王宮の作業現場で他の労働者に混じり単純労働をするだけならば、名高い造園家親子の詳細をここまで知ることもなかっただろう。
彼は庭師になりたかったが、しかしグラーブ・ヴァンブラに憧れていた訳ではない。ただ単に、死体と血臭と恐怖と狂気に満ちた職場から遠ざかりたかっただけであって、冒頭で述べたように、そこらの庭でのんびりと木の枝を切り、幾ばくかの糧を得られればそれで良かったのである。
繰り返すが、オルソも役人も重大な過ちを犯していた。
いや、正確に述べれば、役人は職務をほんの僅かに怠り、ただし良心的に遂行しただけだった。
そこへさらに別の過ちが幾つか重なり、オルソはヴァンブラ家の内情を知るような立場へ赴く羽目になった。
つまりこうである。
最初の段階で、オルソは提出する書類を間違えた。よく確かめもせず、単純労働者向けでなく造園家グラーブ・ヴァンブラの弟子を公募する申込書へ記入してしてしまったのである。これが最初の過ちである。
実は、既に公募は締め切られていた。従って窓口の役人は無効の用紙を突き返した上でオルソの意向を確認し、正しい申込書を再提出させれば良かったのである。
が、生憎この役人は、おそろしく善良かつ気弱な人物だった。彼はこう考えた。
締め切った公募の用紙を片付けなかったのは役所の責任である。それを承知の上で申し込みに来たということは、この青年にどうしても遅れざるを得ない事情があったということだ。
そこへ、長蛇の列を作った気の荒い男たちから文句が飛んだ。目の前の大柄な青年も苛ついている。傭兵だっただけに、気性も荒いに違いない。怒らせたら面倒なことになるのは目に見えている。実のところオルソは見かけよりは冷静な性格の持ち主だが、初対面の役人にそれが分かる筈もない。
彼は書類を作成してオルソへ手渡した。
まあいい。駄目なら衛兵なり試験官が突き返すだろう。
かくして二番目の間違いが起きた。
王宮の衛兵を責めることはできない。
彼らは責務を忠実にこなしただけである。
青年が持ってきた書類に不備はない。
オルソは王宮の門を潜った。
試験官は激しい心的疲労に襲われていた。
彼はそれなりに地位の高い貴族であり、建築や芸術に対しても造詣が深い。そこを買われ、若い国王から建築家と造園家への行政面からの補佐を命じられていた。
今までに王宮の増改築、庭園の改修など幾度かの経験がある。外国から専門家を招くのも初めてではない。従って今回にしても懸念はしていなかった。
突如、グラーブ・ヴァンブラが弟子を取るなどと言い出すまでは。
一人の大柄な男が侍女に案内されて執務室へ現れた。どう見ても上流階級の者ではない。むろん下級役人でもなく、商人でも農民でもない。どこかまっとうでない、流れ者か傭兵といった雰囲気の男だった。見たところ、まだ青年と呼べる年代である。
「なんだね、君は」
「間違えて案内されたような気がするんだが」
男は戸惑いながらも書類を差し出した。それを見た試験官の疲れは倍増した。
「窓口は何をやっとるんだ」
思わず愚痴が漏れる。彼は事情を知らない男に説明した。
「グラーブ殿の弟子公募はもう締め切ったぞ。二次審査も終わった。今日が最終面接日だ。しかも最終組の」
「グラーブって、グラーブ・ヴァンブラか?」
「ここに書いてあるだろう」
試験官が指を突きつけた箇所を読むと、男は短く悪態をついた。そして、くるりと方向転換した。
「邪魔したな、帰る」
「待ちたまえ」
このとき何故自分が男を呼び止めたのか、試験官には分からなかった。後年、思い返しても謎である。投げやりになっていた感は否めない。頑固な造園家と建築家、そして負けん気の強い王との強烈な個性の調整に、彼はほとほと嫌気が差していた。
「間に合ったのも何かの縁かもしれん。グラーブ殿に話してこよう」
「俺は何も知らんぞ」
やけに堂々と男は宣言した。
「だからここで木の植え付けでも手伝いながら、ついでに仕事も覚えらえれるかもしれんと思って来ただけだ」
試験官は記載事項に目を通してから、再度眼前の男を見上げた。前職欄に、某傭兵団の副隊長とある。それなりに名の通った、比較的規律も良いと評判の団である。腕力だけで得られる立場でないことぐらいは、文官の彼にも判断できた。この国とて、つい三年前まで戦に明け暮れていたのだから。
「実は困り果てていてな」
試験官は本音を吐露した。この際、愚痴が言えれば相手は誰でも良かったのである。
「今までに何百人という職人がここへ来たが、グラーブ殿は誰をも弟子にしようとしない。今日で誰も雇わなかったらどうなるのか見当もつかん」
三年前、若い国王は戦に関して極めて優秀であることを証明した。が、それとは別に、気性の激しさもずっと以前から知られている。
「いっそのこと、明日お叱りをいただく前に地方の別荘に夜逃げしようかと思っているくらいだ」
「大袈裟だな。弟子が付かなかったってだけで終わりだろう」
気軽に言う男に向かって、試験官は重いため息をついた。
「分かっておらんな。国の内外に公示するのにどれだけ金と人員が費やされたと思う。しかも募集はレオーネ王の名において行われたのだぞ。これだけ手間をかけて誰も雇われないとなれば王室は笑いものになる」
「グラーブ・ヴァンブラが偏屈なだけで、王室が笑われることでもないだろうが」
「王はそう思し召しにならん。誇り高い、烈火のごとき気性の持ち主であらせられるからな」
「大体誰なんだ、王室で弟子の募集なんかしようって言い出したのは。別にお抱え庭師でもないんだろう、勝手に手前で雇わせればいい」
遠慮のかけらもないが、筋は通っている。
しばらく黙った後、試験官はひとこと答えた。
「レオーネ王だ」
憔悴した試験官を男は眺め、しみじみと言った。
「偉い連中は偉い連中で、苦労が絶えんな」
「とにかく、少し待て。面接を受けるのなら昼食ぐらいは出るぞ」
試験官は男を残して造園家の執務室へ向かった。
深緑色の長衣を重そうに引き摺り、貴族が部屋から消えた。
「全く、グラーブ殿は何を基準にして弟子を募集しているのやら……」
閉まる直前の扉の隙間から、貴族の独り言が聞こえた。貴族と言っても、夜な夜な舞踏会へ出て踊るだけが仕事でもないらしい。さすがに税金で暮らしているだけのことはあると、奇妙なところでオルソは感心した。
さほど経たないうちに「疲労の貴族」は戻った。
「会うそうだ」
「グラーブ・ヴァンブラが?」
「そうだ。一次二次審査といっても、今から審査員を呼び出していては間に合わん。他の三名と共に最終面接を受けてもらう」
滅茶苦茶である。
「心配するな。グラーブ殿は君の経歴を確認してから面接を承諾した。何も知らんで構わんからこの際、せいぜい庭師殿を困らせてやってくれ」
自棄で言っているとしか思えない。手のかかる造園家によほど苦労させられているのだろう。
オルソは他の三名と合流させられた。
年配の植木職人、中年の彫刻家、そして、オルソよりも若い哲学者。
この顔ぶれを見たオルソは、先ほどの貴族の気持ちを少し理解できた気がした。
庭を作るのになにゆえ哲学が必要なのか。
オルソたちは、少女を連れた隻腕の男に引き合わされた。言うまでもない、グラーブ・ヴァンブラと娘のプルシナである。
第一印象は、
「たった今冥府の底から這いあがってきたばかりの幽霊」
これに尽きた。
一行は造営中の主庭園を引き連れられた後、食事をとり、それからグラーブが以前手がけたという小庭園へ案内された。
その間に雑談交じりの質問が飛んだが、当然オルソは庭園に関してずぶの素人である。細かい質疑応答など右から左へ通過し、話の半分も理解できなかった。
飯は旨かったが肩が凝った、それからいかにも根の暗そうな天才造園家が左手だけで優雅にナイフとフォークを使いこなしていたことぐらいしか覚えていない。
それでもオルソにも問いは投げかけられた。何かしら適当に答えることはできたが、その度に他の三名が驚いた顔で彼を振り返っていたところからして、おそらくとんでもない見当違いな返答をしたのだろう。
が、意外にも先の貴族の希望に反して、オルソが何を言おうと、グラーブ・ヴァンブラは決して落胆も見せなければ気分を害した様子も見せなかった。もちろん、笑いも怒りも表わさなかった。
その態度は他の三名に対しても同様であり、最初から最後まで、陰鬱なこの造園家が一体誰をどう評価しているのか、四名の誰もが全く推し量ることができなかった。
相手が何を考えているのか分からないのでは、こちらも対処のしようがない。その場を支配している造園家に合わせて空気もどんどん重くなった。それにつれ、最初張り切っていた三名も悲惨な面持ちへと変化したが、オルソにしてみれば雇われる可能性など皆無なので、何がどうなろうと知ったことではない。
陰気な男から解放されたときには、日も暮れようとしていた。
自分には関係ないと思いながらも、王宮で造園家がまき散らしていた暗鬱の気に伝染したらしい。不条理に浮かない心情を振り払うべく、オルソは盛り場をふらついた。
酒と飯をほどほどに腹へ入れると、夕暮れ時の奇妙に沈んだ気持ちは跡形もなくどこかへ消え去った。
気分も良くなったところでさほど柄の悪くなさそうな娼館へ潜り込み、その日は終わった。
そして翌日、最後の、そして最大の間違いが起きた。
少なくともオルソはそう思った。
間違いではなかったのか、と彼は後に何度も尋ねた。
正解ではないかもしれないが間違いではない。とグラーブヴァンブラは答え続けた。
何十年を経た後も、オルソは幾度となく自問することになる。
「正解」は、自分だったのだろうか。
それとも、どこか他にあったのだろうか。