その6
重い衝撃が、マークの胸を貫く。
鈍い痛み、に続き全身が引き裂かれるような痛みが彼を襲う。
そして、恐怖が彼をゆっくりと押しつぶしていった。
刺さった刃を見るまでも無く、彼は自らの死を確信している。
視界に映る光景は、徐々にぼやけていく。
しかし、鱗翅王を前に進ませるかとばかり彼は暗くかすむ視界の中で相手の身体をぐっと掴んだ。
とどめを刺される前に、時間を稼がなくてはならない。
耳の傍で大きく鳴り響く鐘の音が、徐々に脈と同期する。
そして彼の手から急速に力が抜けていく。
でも、彼の顔は満足げにほほ笑んでいた。
万が一の時に、残しておいた最後の作戦。
これでいい、これに賭けたのだ、と。
「マーク、マーク死なないで」
優理の叫び声が遠くなり、やがて嘘のように痛みが消えていく。
そのころ彼の頭の中には、記憶の奔流が押し寄せていた。
チョッカーン、ローエングリンとみんなでくぐり抜けてきた幾多の冒険。
瞬く間に記憶はどんどん遡る、忘れていた些細なことまで次々に過去の記憶が浮かんで消えていく。
アメリカに旅立つ母が手を振る。
兄が合格して涙を流す母の姿。
そして台所で一人泣いている母。
兄の試験のたびに天にも昇るような笑顔を見せる母。
優等生の兄、仕事から帰ると鞄を放り出して兄とマークに夕食を作る母……。
兄と遊んでいると託児所に迎えに来る母。
若くなる母、そしてどんどん小さくなるマーク自身。
だんだん画面がぼやけ、そして。
不意に、耳の底から何かが響いてきた。
低い男の声。
胸に抱かれながら、首をだらりと母とは違う筋肉質の肩に預けてまどろむマーク。
「ヤチマタ、ヤチマタ、ヤッチマーータ」
マークの記憶の奔流がそこでふと止まった。
臨死体験は、本人の危機を救うため記憶の中から打開策を探す目的で行われる脳の最後のひと足掻きだと考えられており、脳のシルビウス裂という構造の付近にその働きがあると言われている。
自分の人生のおさらいをするかのように、蘇える記憶。
そして、まるでシルビウス裂が探し当てた答えを確認するように、もう一度その声が繰り返された。
「ヤチマタ、ヤチマタ、ヤッチマーータ」
母の口癖とははっきりと違うその音程。
これこそがマークの探していた答えだ。
鱗翅王にこの計画を悟られないように、刀を振り回し、身体を串刺しにさせた。
失血死で徐々に逝く方が時間が稼げると思ったから。
しかし、すでにマークには唇を動かす力さえ残されていなかった。
頭の中で幾度も繰り返される、父の声。
マークは最後の力を振り絞り、心の中で叫びを上げる。
「ヤチマタ、ヤチマタ、ヤッチマーータ」
インフィニティ、いや、お父さん、助けて。
しかし、願いも空しく真っ白な世界が急速に黒くなりマークの視界は暗闇の中に引きずり込まれた。
マークは足元の床がふいに抜けて、ただっぴろい闇の中をとどまることなく吸い込まれていく。
どのくらい落ちただろう。それは一瞬とも永劫とも思える時間。
しかし、不意に体が闇の中でふわりと止まった。
そして目の前に針で突いたような光が差し込んで来る。
光はだんだん大きくなり、その中に、逆光で黒い一人の男のシルエットが浮かび上がった。
マークは気が付くとその男の前に立っていた。
薄暮を思わせる明るさの中、マークに近づいて来たその男の顔が徐々に形作られる。
溢れ出す涙で、マークの視界が滲んだ。
なぜなら、その男こそインフィニティ……、いや、彼の父、篠原英人その人であったから。
「お前がここに居る、ってことは私はもう現実世界にいないんだね、誠」
想像していたのより、ずっと温かい声。PCの画像のなかでしか見たことが無い、若い男が目の前に立っていた。
耳までかかる髪はぼさぼさ、そして幾日か仕事で会社に泊まりこんだのだろうか、薄汚れた白いシャツと皺の入った茶色のズボン。顔にはマークとそっくりなアーモンドの目と、薄い唇が微笑んでいた。
「お父さん、会いたかったよ」
マークは声を震わせる。
気が付くと、彼の胸に刺さった剣は跡形も無く消え去り、黄昏を思わせるこの空間にはマークと父、二人きりだった。
「私の目の黒いうちには、お前達、いや、世界中でこのゲームを楽しむ人に危害が及ぶことは絶対に起こさないつもりだったのに。こういう事態になっているなんて、いったい何が起こっていたんだ」
「高柳一族が、胡蝶プロジェクトをのっとり、『囚われの姫君』を使って人の快感を操り軍事利用しようとしていたんだ。インフィニティの倫理機能をこじ開けるために、僕のクラスメートの意識を誘拐して囚われの姫君に仕立て上げ、僕をここにおびき寄せた。チョッカーンと、美月さんと僕とそして、八人衆のおかげで僕らはお父さんを呼び出すことができたんだよ」
「そうか、あいつが……」
うなずくと英人は軽く前髪をかき分けた。
「どちらにせよ、もう大丈夫だ。私はこのプログラムを自ら解体する」
「お父さんの人生をかけた仕事なのに?」
「お前は良くやってくれた。実は何時かこんな日が来るかもしれないと予想していたんだ。このゲームは人々に最上の幸福と感動とときめきを与えるだろうとは思っていたが、同時に快感も強く、裏返せばとても怖い武器になるため悪用するものが出てくるのではないかと危惧もしていた。だから、ゲーム内のプログラムの中に八人衆という監視者を置き、さらにもうひとつ保険を掛けたんだ。私はこのゲームが悪用されて、その時自分が居なかった場合に、この世界を閉じてくれる者を一人だけ選んだ」
「それが、僕。転覆者、ってこと?」
父親はマークに優しい視線を投げかけた。
「お前の兄の純はどうも、私が見るに要領がよすぎる。要領がいいと言うのは良いことばかりではない、愚直に丁寧に物事を見る者のほうが、何かを成し遂げることが多いのだ」
「僕……」
「お前ははいはいも不器用で、おもちゃを扱う要領も悪い、親から見ても心配なところがあったが、お前はできないことを何度も何度も繰り返し、試行錯誤の上自分のものにする根性があった。だからこそ私はお前を選んでこの世界を託したのだ。本当は私が生きているうちにこのことを伝えるつもりだったのだが、その日は予想よりもずっと早く来たんだな……」
父はじっと息子を見つめる。大きくなったその姿に、目を細め、微笑みかける
「立派になったな。苦労を掛けてすまなかった」
マークは何も言えずただ、首を左右に振るのみ。
「お母さんは苦労したんだろうな、純は元気か」
「兄貴は、アメリカの大学に合格して今お母さんはそこに遊びに行ってる」
純の朗報を聞いて、英人はうれしそうにうなずく。
「晴美はまだ無駄遣いしているのか? あいつ、すぐ要らないものばかり買うから気を付けてやってくれ」
「手遅れさ、白亜の小さい一戸建てを建てて預金を使い果たしてしまったよ」
額に手を当てて、顔をしかめる父。
二人はそこで大笑いした。
「そうか、元居た場所と住所が違っていたのか。すべてのデーターが同じであれば、下部プログラムも私の息子と断定したかもしれなかったが、そういう訳か。でも思考回路にものすごく親和性があって、下部プログラムも思わずいろいろ手助けしてしまったようだがな」
父親はマークに近づくと、強い力で抱きしめた。
「母さんを頼む。私は、仕事ばかりしてきた悪い一家の長だったが、お前達を愛し、そしてお前達を大切に思ってきた、それだけはわかってほしい」
一瞬とも永劫ともつかない間、マークは確かに父親の温かい腕のぬくもりに包まれていた。
「本当はいつまでもこうしていたいのだが、そうもいかない。そろそろ皆を呼ばなければな、この顛末にも幕を引かなければならない」
英人が手を振ると、ベールが退くように薄黄色い世界がぱあっと明るくなった。
そこは、呼びかけの塔の下の広場であった。
城はいつの間にか元通りに復元されており、王宮をはさんで白亜の二つの塔がそびえていた。
「マークっ」
飛びついてくる優理、そして元気に手を振るチョッカーン。
八人衆は彼らの横に控えており、その横に洗脳から突然解放され、何があったんだとばかりにきょろきょろとするクラスメート達が立っている。集まった群集も、塔の下をぎっしりと埋め尽くしていた。
「みんな苦労をかけたな、私は彼の父親の記憶を持つプログラム、そしてこのゲームの元締め、インフィニティだ」
英人は、人々に礼をする。
神、の出現に人々の歓声が沸き起こり、塔がびりびりと振動した。
「みんなのおかげで邪な企ては潰え、高柳一族の野望は崩壊した。私たちはまだ世に出るには早すぎたのかもしれない、またその日が来るまで静かな眠りにつくことにしよう」
群集から、安堵とも失望ともつかない溜息が漏れる。
「失望するな、我々は自滅プログラムで滅びるわけではない、今から我がプログラムと記憶は分散し、ネットを通じて信頼のおける他のサーバーに潜むこととする。そしていつの日かきっと誰かが我々を再構築して世界中で楽しまれるゲームとして復活させてくれるだろう」
「お父さん。その役目は僕にやらせて」
彼は傍らの息子を見た。
マークは目を輝かしながらうなずく。
彼の心の中には今までなかった自分に対する自信が芽生えていた。
「転覆者は創造者となり、いつかまた散逸した我らを探し出し修復してくれるだろう」
父は右手で息子の左手を持ち、空に届けとばかりに突きあげた。
彼らを取り巻いて揺れる群集から次々に祝福の声が沸き上がる。
「長生きして待ってるわよ、マーク」ペリドットが顔をくしゃくしゃにして微笑む。
傍らにはよりを戻したのかカローンが立っている。ペリドットの指輪をはめたその手はちゃっかりとペリドットの腰に回されている。
「その手はなんだ、エロじじいっ。張り切りすぎて、ぽっくり行くんじゃないぞ」
「だから、礼法を学んで出直して来いっ」
カローンの杖が、チョッカーンの頭に振り下ろされた。
「おおい君たち、あの見目麗しいローエングリンは何処に行った? 今度こそ一度……わっ、じょ、冗談だよ」
葉月につねられながらダイアがうめき声を上げる。
八重とスターアニスがやれやれとばかり肩をすくめて溜息をついた。
「チョッカーン、あんたはいい宿主だったぜ。だけど食べ過ぎには気をつけろ」
銀色の髪を揺らしながら、オロチがウィンクする。
「マスター、また私が御入用の際にはきっと、きっとお呼び出しくださいませ」
巻物が涙でマークの彼の背をぬらしながら懇願する。
「もちろんだよ、またいつか一緒に冒険しよう」
「ご主人様ああ、旦那あ、旦那様ああ」
泣き崩れる妖精達は、チョッカーンを離そうとはせずにいつまでも周りを飛び回っている。
「お前たち世話になったな」
チョッカーンが三人を胸にかき抱く。
「ずっと、ずっと一緒ですよっ。こ、これでお別れなんて思ったら、大間違いなのです。置いていくのは許さないですう~~」
妖精たちはチョッカーンの胸をぽかぽかと叩き続けた。
それぞれが別れを惜しむ中で、高柳は隅の方でひとりぽつんと立っている。
その傍らで鱗翅王、鱗翅伯爵が頭を傾げながらぽかんとしていた。
「ここは、何処なんだ? 我々は一体何をしているのだ」
インフィニティは高柳の方を向く。
「申し訳ないが高柳君、彼らの記憶は人工知能の知識も含めてきれいさっぱり消させてもらったよ。多分君の家は没落する。だが、君は鼻っ柱が強くて賢い青年だ、雑草の中からまた世の中に這い出てくるだろう」
彼の義父や義兄の記憶は消失させられてメインプログラムのインフィニティも消える。胡蝶プロジェクトが潰れるのは目に見えている。義父とはいえこれだけの事件を起こしたのだ。クラスメートたちもひどい目にあわされている、今後は人の噂や中傷で、高柳も無事で済むはずがないだろう。
「さて、マークのクラスメートの皆さん。ここで相談がある」
英人はクラスメートとマーク達に声をかけた。
「これからも君達の輝かしい青春はこの不幸な事件の前と変わらずに続いていくことだろう。高柳君の一族のしたことと、高柳君は関係が無い。むしろ彼は被害者だ。だから、君達には今回の記憶を忘れてほしいんだ。現実に帰って、再び同じようにクラスメートとして付き合って欲しい」
ざわめくクラスメート達。
「別に憐れんで欲しいわけじゃない、そんなことどうだって……」
チョッカーンが高柳の背中を叩く。
「水臭いぞ、一緒に死線を越えてきた仲間だろ」
斜に構えながらも、目の中の動揺が隠せない高柳。
「俺は、忘れてもいいぜ。怖くて辛くてそして素晴らしい体験だったが、記憶が無くても俺、これからもマークや美月さんと親友だ。そして今度現実に戻ったら、きっとお前と友達になる」
高柳の方をまっすぐに見るチョッカーン。
二人はいずれから、というではなく手を伸ばし、がっちりと握手をした。
チョッカーンは優理の方を向き直った。
「姫様、自らの心の檻からの脱獄おめでとうございます。それもほぼ自力で」
照れたような微笑みを返す優理。
「ええい、これでもう記憶が無くなるなら、恥のかき捨てだ」
チョッカーンは目を瞑って大声で叫んだ。
「ローエングリン、大好きだったぜえ」
一瞬、優理の姿が消えて、目を開けたチョッカーンの前にローエングリンが現れた。
ローエングリンはそっと、チョッカーンに桜色の唇を寄せた。
「お前は最高の友人だ。と、同時に……」
最後の言葉はチョッカーンの唇に吸い込まれた。
初めての体験に、硬直するチョッカーン。辮髪までかたまっている。
ふと、気が付くと目の前にはきょろきょろとしてあたりを見回す美月が。
残念ながら、今の事は意識にはないらしい。
「やっぱり、記憶なくしたくないよおおお」
チョッカーンが絶叫する。
しかし、冥界に落されていたクラスメートたちは、情けなさそうな顔のチョッカーンに対し抜け駆けは許さんとばかりに顔を横に振った。彼らは、自分たちの記憶を消すことに同意しているようだ。
「皆、記憶の件はいいか?」
ふと、英人とマークの目が合う。
記憶を無くせば、英人と会ったこと、そして彼に託された使命は……。
「誠、君の使命は君の記憶の奥底に刷り込んでおいた。またその時が来たら、君の奥底から記憶が蘇えることだろう」
「僕は一つ聞きたいことがある。お、お父さんの事故、もしかして、胡蝶プロジェクトの誰かがって可能性は?」
インフィニティは、それ以上聞くな、とばかりに目を伏せて首を振った。
彼の父親は高柳一族の誰かに事故を装い殺されたのかもしれない。だが、きっと父は高柳一族の野望を封じえることだけが望みで、息子にそれ以上の復讐は望んでいない。
それもあって、記憶を消したいのかもしれない、とマークはぼんやりと感じた。
確かに、復讐は復讐の連鎖を生む。
それよりも、前を向いて生きろ、父はそう願っているのだ。
「お父さん、僕、記憶をすべて明け渡すよ」
英人がうなずく。
「皆が帰る現実世界も、これからいろいろな変革や、争いが起こりそうだ。今までのような安らかな場所ではなくなるだろう。しかし私が思うに、君達はきっと強く生き抜いていけるに違いない」
父と息子はじっと見つめあった。うなずき返すマーク。
包み込むような微笑みを浮かべ、英人、すなわちインフィニティは何かを低く唱え始めた。
天空が渦を巻き始め、次第に渦は彼らを飲み込んで行く。
「なんだか、怖い……」
優理が言葉を漏らす。
と、同時に左右から手が差し延ばされた。
右手のマーク、そして左手のチョッカーン。
優理は恥ずかしそうに微笑むと二人の手を取った。
二人の青年は、にやり、と笑うとお互いの手を取る。
三人は輪になって手をつないだ。
もう彼らに言葉は必要ない、ただ、それぞれの目を見あって満たされた思いに浸っている。
渦を巻いて次第に消え去る周囲の世界。
こうして彼らの仮想空間での、胸躍るそしてハードな冒険旅行は終わりを告げたのであった。
エピローグは8/31 午後3時に掲載します。