その1
2038年。
閉塞感に満ち溢れた社会に蔓延したのは、オンラインゲームへの逃避だった。
デフレの次に来たインフレの波で、1万円という金額が持つ価値はかなり下がったものの依然、趣味につぎ込む金額としては破格である。
しかし、ゲームセンターの前にはVRMMO(仮想現実空間での多数参加型ゲーム)を目当てに1万円札や、カードを握り締めて並ぶ人々の行列が絶えることがない。
そして一旦、仮想世界で現実と離れて成功と名声と興奮にあふれる世界を経験した者は、取り憑かれたようにまた金銭をなんとか都合して行列に並ぶのである。
動物実験で、電極で脳に快感を与えられたネズミが快感刺激を得るために、刺激スイッチをなんと1時間に7000回も打ち続けたという報告がある。
脳科学の粋を集めて発展したVRMMOは発売から5年で一世を風靡した。
しばらくしてまさにあのネズミと同じ反応をするユーザーが出始め、VRMMO依存はいまや社会問題化しているのだが、時すでに遅し。
潤沢な資金と支持を得て巨大化した仮想オンラインゲーム関連企業は政治経済を水面下でコントロールできるほど深く根を下ろし、また大衆も一旦手にした快感を手放すことを良しとせず、依存は個人の問題として棚上げされたまま仮想オンラインゲーム市場はいまだ膨張発展しつつある。
より強い刺激を持つゲームストーリーと、そしてその芸術的とさえいえる現実感。
新しく興行を打った『囚われの姫君』はその二つに加え、当代きっての演算能力を持つコンピューターによって制御される極めて自由度の高いゲーム設定が人気で、囚われの姫になりたい女性、そして救出に向かう男性たちが大いなる期待を胸に、ゲームができる幸せを噛みしめながら大挙してゲームセンターを目指した。
ただし、一人を除いて。
鳥の声がにぎやかだ。眼前の森の木に実がなっているところを見ると季節は秋だろう。
そよそよと清々しい風が吹き、冒険に旅立った二人の顔をなぶる。
彼らの立つ平原の向こうには小さな村があることが腕に装着されているマルコム(multifunction communicator)で示されており、まずは情報を得るためにそこに向かっている途中である。
カローンと別れて30分もたっただろうか、踝のあたりまでの草を踏みつけて歩きながら、チョッカーンは大きく背伸びをした。
「むっちゃ気持ちいいなあ。現実より、よっぽどナチュラリーだ」
ふと振り向いた彼は、とぼとぼと後ろをついてくるマーク・シートを振り返った。
黒縁メガネの奥の瞳がどんよりと濁っている。
「どうしたんだよ、お前最近勉強ばかりでこんなところに来たこと無いんじゃないか」
ポン、と肩を叩かれ、顔を上げた優等生は小刻みに震えていた。
「ど、どうしたよ、マジで」
思わず後ずさりするチョッカーン。
「もう、が、我慢できない。べ、勉強させてくれーっ」
叫びながら相棒にしがみつくマーク。
手がガクガクと震えている。
「お前、しょ、正気に戻れ」
「た、た、単語帳……単語帳をくれーっ」
震える手で、学生服のズボンをもどかしそうに探る黒眼鏡の青年。
幸いなことに彼の学生服の中にはいつもと同じ中身が再現されていた。
「abandon捨てる、見捨てる。absorb吸収する、衝撃などをやわらげる。consist はofをつけて~から成る……」
荒い息が徐々に落ち着き、平静に戻っていく。
「なんなんだ、お前。まさか、英単語を愛しているのか?」
目を丸くして尋ねるチョッカーン。
「僕、何かを勉強していないと落ち着かないんだ。何にもしないでぼおっとしていると、人に抜かされないか不安になったり、この間に人が勉強していたらどうしようって怖くなるんだ」
手に輪っかで止めた小さな英単語帳を握り締め小声で告白するマーク。
「美月さんが困っているなら、助けに行きたいと思う。だけど、こんなに時間が取られると思わなかったんだ。わ、わかってる、現実の時間はあまり過ぎてないのかもしれないけど、だけど、このぼーっと歩いている時間がとても苦痛なんだ」
彼は小さいころから苦労している母を見て、絶対に自分が母を喜ばせると心に誓っていた。
母は、子供たちが勉強でいい点を取ってくると相好を崩して喜んだ。もちろん、勉強を強要する母ではなく、むしろ弟である彼は兄に比べて勉強は放っておかれたに近いが、それだけに彼は母を振り向かせようと必死に努力した。
一点でも多く取ることが、そして成績の順位を一つでも上げることが、彼の母へのアピールだった。
頭のいい兄がさっくりとトップを取ってしまうおかげで、彼の努力は相応に報われたとは言い難いけど、それでも母は喜んでくれた。
彼は自らの根っこの部分で、勉強イコール母からの愛情を受け取る手段だと思い込んでしまったのだ。
「もう、帰りたい。家で勉強したい……」
1時間も経たないうちに弱音を吐くマーク・シート。
「お前なあ、ゲーセンの前で握手して約束したじゃないか、俺を独りにしないって」
怒気を含んだ声で、チョッカーンが言う。
その途端、ジェット噴射の様な音が聞こえた。
三角形につながった物体が戦闘機の様なスピードで突っ込んでくる。
「ご主人様、大変です~っ」
その三角形のような物体……付近の偵察に出ていたすちゃらか妖精三人組の塊、が息を切らして、二人の前に現れた。
「どうした?」
「出ました、モンスターですうう」
三人の妖精の叫びとともにいきなり、地面が揺れた。
どん、どん、どんっ。
一行は激しい揺れに思わずしりもちをつく。
いきなり、地響きが鎮まった。
と、一団に黒い影がかぶさる。
マークが見上げると、身長5メートルはあろうか、一つ角、一つ目の大きな鬼型モンスターが彼らを見下ろして口を開けていた。
開けた赤い口からぬらぬらと涎が垂れて、汚れた乱杭歯がむき出しになった。
妖精たちは一斉にしゃべりだす。
「偵察中に見つけたのですう」
「で、目が合っちゃってさあ」
「旦那様たちを守るために、小石を投げて攻撃したら、ついてきたんですう」
「ごめんなさいいいいっ」
手を合わして謝る三人。
「阿呆、雇い主のところに怪物を連れてくるバカがどこにいるっ」
憤怒の形相のチョッカーン。
「convince納得させる、reaction反応、solution解決……」
マークと言えば、取り乱してぶつぶつと英単語を読み上げ続ける始末。
「現実逃避するなっ、正気に戻れ、お願いだマークうううう」
さすがのチョッカーンも自分の得体のしれないスキルを使う自信も余裕も無く、半泣きでその場にへたり込む。
「最初からこんなラスボスみたいな凶悪なのが出てくるなんて、オンラインゲームの掟破りじゃないかっ」
「solution、solution、solution……」
わなわなと口を震わせながら鬼の方を見て、ひたすら英単語をつぶやくマーク。
恐ろしさのあまり、腰が抜けて動くことができない。
凍りつく彼と、鬼の目が合った。
ニタリ、としながら毛むくじゃらの手がマークに伸びる。
「solution……解決」
「何を解決したいのですか? マスター」
絶体絶命のマークの背中から、澄ました男の声がした。
が、その時にはすでに鬼の大きな掌がマークの目の前に迫っていたのである。
快感刺激に反応するラットのくだりは、河出書房新社「快感回路」ディヴィット・J・リンデン著を参考にしました。