その5
それはまだ彼が小さい子供だったころの記憶。
緑に囲まれたテラスに、白を基調とした調度が並んでいる。
そして、そこにはまるで白い椅子の一部に同化するかのように一人の小柄な白衣の男が座っていた。
あ、来ている。
彼は木の陰から、その男に飛びつくために、一目散に走り出した。
その初老の男はときおりふらりと彼の住む園に訪れた。
たった一人でここで養育されている少年にとって、たまに来るその奇妙な来訪者が決まりきった日常をゆがませるのは、唯一と言っていい刺激的な時間だった。
園の周りにはいつも大きな兵士が警備をしており、勝手に外に出る自由はなかったが、園は広く邸宅は豪華で彼は不自由を感じたことは無い。しかし、生活は杓子定規に設定されており、女官や家庭教師は鱗翅王の善き部下になるための教育には熱心だったが、彼にそれ以外の情報や喜びを与えようとはしなかった。
その無味乾燥な生活に、唯一様々な刺激と喜びをもたらしてくれたのが彼である。それは、価値観を逆転させられるような外界の珍しい話だったり、色とりどりのお菓子であったり、子供が喜ぶおもちゃであったり、さまざまであったが園では与えられない楽しみを彼はいつも携えて訪れた。
その男の白と黒とが半々になったバサバサの髪、吊り上った灰色の眉毛とは対照的なやや垂れた切れ長の目がいかにも世の中を己が気の向くまま自由に渡っているといった余裕を感じさせた。しかし、その瞳が時折宙を浮き、何かを探すようにさまようことに繊細な彼は気が付いていた。
その日は砂糖がまぶされた果物ゼリーの粒が入った瓶を抱えて彼はやってきた。転がるように走りながら飛びつく彼を抱き上げて、その日も彼はスラリと高い鼻が彼の額につくくらい顔を近づけて尋ねた。
「元気だったかい? スターアニス」
「うん、カローン」
その男は、小さかった彼の相手をしながら言ったものだ。
「君の名はスターアニス。誰に何を言われようとこの名前だけは決して手放すんじゃないぞ」
正直、彼の周りの女官や家庭教師は彼の名前を別な呼び方で呼ぼうとしていたが、カローンが繰り返し言うものだからスターアニスは、頑として名前を変えられることを受け入れなかった。
カローンは鱗翅王の側近らしく、彼がすることに周りの物は手出しができない様子だった。しかし少年は明らかに周りが彼らの交流を疎ましく思っているのを感じていた。実際、時々言い合いの一歩手前のような会話を彼は盗み聞いた。
「あの子は、機械のように鱗翅王の手足となって働くよう育てろと命じられています。カローン様のようにむやみやたらと外の情報を伝え、情緒を刺激するような接触は迷惑なのです」
「あの子にも心がある。そのうち心に吹き荒れる嵐の前に、彼には得なくてはいけないものがある。それは、人への信頼と愛着だ」
「それは戦士には必要ないものでしょう」
「バカな。この世界を揺さぶる未曾有の事件が起こった時に他者に対する愛も無い冷たい人物にこの世を左右する仕事を任せられるわけがない」
思春期に入る前の言い争いを最後にカローンは出入りさし止めになったようだった。
クールな少年に育っていた彼は、それほど彼に会いたいとも思わなくなっていたが、その頃から無性に何かが恋しい自分に気が付いていた。
自分は、親を持たない天涯孤独の身であったはずだった。
鱗翅王に拾われ、その手足となるべく育てられた。
自分に愛すべき親などいない、はずだった。だが……。
スターアニスは、心の中に吹き荒れる嵐に翻弄されていた。自分の出自など考えてはならない、この命は王に捧げられるためにある、とばかり教えられ、自分でもそう信じてきた。
まさか、敵と教えられてきた反逆者の子供であるなんて。
しかし、自分と同じあの紫の瞳と赤みがかった金髪。
包み込むような優しいまろやかな声。
そしてあの甘い香り。
彼の奥深くに仕舞い込まれた記憶がそれが真実だと細波のように、彼を揺さぶる。
だが、何よりも彼を打ちのめしているのは、全身全霊で仕えてきた主にいとも簡単に裏切られ、こうして、柱に縛り付けられているという事実であった。
柱の周りには先ほどまで部下であった兵達が、彼に向けて無表情に槍を突き出している。
「いよいよ、マーク達がここに来る。お前には最後の働きをしてもらおう」
鱗翅王がその暗い淵を思わせる目を細めた。
スターアニスの口には自殺を防ぐためにさるぐつわが噛まされている。
――あなたのために尽くしてきたのに。なぜ、私を……。
スターアニスの悲痛な問いかけは、くぐもった音になって消えていく。
なんとか自由になる方法を探ろうと後ろ手に縛られた手を動かすも、がっちりとした金属の手錠が手にくい込むのみ。スターアニスの悪あがきに気が付いたのか、鱗翅王はにやりと笑うと彼の方に向き直った。
「聞きたいか、己の真実を」
スターアニスの紫がかった青い瞳がまっすぐに鱗翅王を睨みつける。
「ふん、今まで働いてくれた餞だ、話してやろう」
黒いマントを右肩にはね上げて、鱗翅王は彼に背を向けた。
「ここは現実ではない。外界の人間が作りだしたゲームの世界なのだ。お前達八人衆は、篠原英人と彼が構築した人工知能インフィニティが作り上げたゲームを守護する特別なキャラクターだった。特殊能力を持ち、自分で判断し自分でこのゲーム世界が悪用されないために状況を変えていくことのできる優秀なキャラクター達」
――ゲーム世界、篠原英人、インフィニティ、キャラクター……?
初めて聞く言葉の羅列に少年の瞳が大きく見開かれる。
鱗翅王の瞳は貫くように虚空を凝視していた。
「私は、羨ましくてならなかったよ。共同開発者でありながら、どんどん高みに飛翔する篠原がね。彼が死んでインフィニティの開発も完成寸前で中断したかに見えたが、私は彼の研究資料をすべて自分の物にして、分析をはじめた。彼の世界の素晴らしさを一番理解しているのは私だった。いや、彼以上にかもしれない。このシステムを使えば、世界を洗脳することさえ夢ではないと解っていたからな。だが、この世界の倫理観念は強固で主以外の何人たりとも干渉を受け入れなかった。執念の賜物か、我が息子は長じて天才プログラマーとなり驚くべきことに十数年ぶりにこの世界に風穴をあけ、独自設定やキャラクターの植え付けを可能としたのだ。だが、この世界を意のままに動かそうとすると英人の作ったキャラクター達に邪魔をされて、彼らに打ち勝つことができなかった」
脳内に流れ込んでくる信じがたい情報に、スターアニスは呆然としている。
「インフィニティを守るキャラクター『八人衆』の内、まだ幼児のものがいるという報告を受けて、私は考えた。誘拐して洗脳し我々の意のままに操り、その時が来れば人質として使えば良いとな。そこで一番狡猾な赤猫に指令を出してお前を誘拐した」
自分の保護者、そして主と思っていた人間から告げられる衝撃的な事実。
――主に仕えることが使命だと思っていた。それでは一体、私の存在意義はなんだったのだ。
スターアニスの心に絶望が渦巻く。
彼は、もうどうにでもしてくれと言う風にがっくりと頭を垂れた。
息を止めれば死ねるのだろうか……。
「自暴自棄になるのはまだ早いぜ、坊や」
剣の放つ閃光とともに、部屋に飛び込んできた金髪の騎士が叫ぶ。
「あの節は世話になったな。借りは倍にして返してやるから、それまでは死ぬな」
――黄色い声の変態野郎だ!
柱に括りつけられている、こんな惨めな姿をよりにもよってアイツの前に晒すなんて。スターアニスの顔が屈辱に紅潮する。
続いて、転覆者一味が謁見室になだれ込んできた。
高まる緊張感に、兵士達の槍が小刻みに揺れる。
「ようこそ、我が王宮へ」
余裕綽々といった表情で、鱗翅王はマーク達一行を出迎えた。