その6
「くそう、鐘楼のある塔はあそこなのに。天空に道があれば……」
夕日を背に黒く浮かび上がる鐘楼を見ながらローエングリンがつぶやく。
その瞬間、はたと顔を上げるチョッカーン。
「そうだ。道が無けりゃ、作ればいいんだ。俺様に任せとけっ」
夕焼けに頬を赤く染め、チョッカーンがにやりと笑った。皆、怪訝そうに彼を見る。
「何のために、他のスキルに浮気をせずにせっせとこのスキルに能力ポイントを注ぎ込んできたと思ってるんだ。俺はこの底知れない可能性を持つスキルで空間を自在に操りたかったんだよ」
つぶやき終わると彼はしゃもじを振り上げた。
「キャプスレートっ」
屋上を包むように透明な円筒形の閉鎖空間ができる。その円柱はくにゃりと屈曲しながらどんどん下方に伸び始めた。
「目標、鐘楼!」
円柱は空中で螺旋を描きながら鐘楼に向かう。
そして二つの塔の頂上をつなぐように、鐘楼のある塔の頂上をもすっぽりと包んだ。
「遊園地気分で、空中トンネルだ。みんな行くぞ、滑れっ」
チョッカーンの声とともに、遅れを取るなとばかりにクラスメート達が皆が次々に円柱に飛び込む。
「進化してるなあ、俺っ。ヒャッハー」
辮髪が空を切り、まるで曲がりくねった滑り台のようになった空間を真っ先に滑り下りるチョッカーン。彼は自分のスピードを見ながら透明な円柱の傾斜を微妙にコントロールをしているらしい。
「最初は自殺スキルって言われてたのに……。いつの間にかこんなに使いこなしているなんて。きっと僕らの知らない間にいろいろ試していたんだ。あいつすごい奴だよ」
マークの言葉に傍らに立つ優理は大きくうなずいた。チョッカーンは現実ではほとんど接点の無いクラスメートだったが、こんなに勇敢で行動的な人間だったなんて。今までの彼らの戦いを知っている優理は今更ながら感嘆のため息をついた。
「男の子って、いいな。格好良くて……」
優理は羨望のまなざしでチョッカーンを見つめた。
「お前達何してるんだ、さあ、行こう優理」
差し出されたローエングリンの手を振り払い、姫は透明な空間に飛び込んだ。
鱗翅王の兵達が屋上に上がってきた瞬間。その円柱の一端が閉じ、兵の侵入を防いだ。そして、全員が鐘楼の頂上に降り立つと円柱は消え去った。
いきなり空中から現れた彼らに鐘楼の兵はひとたまりも無く、鐘楼は彼らに完全に制圧された。
物心ついたときにはすでに家の奥には小さな仏壇があった。遺影の中には幼い男の子が笑っている。凛とした茶色の目をした巻き毛の可愛らしい子。
朝に夕にお勤めを欠かさない母と父。いくら帰りが遅くなっても父は仏壇の前で経を唱えてから床についていた。
「晶くんには、お父さんの後をついで野球選手になってほしいって言ってたのにねえ」
あれは何回忌のことだったろう、お参りに来た叔母さんが漏らした一言。
「それにしても、こればかりは不可抗力だから仕方ないけど。でも、残念だったわね、せっかく男の子だと思ってまさとしって名前まで用意してたのに。性別診断も間違うことがあるんだね。あんなに次も男の子だって喜んでいたのに」
「ええ、産んでから数日は彼、男の子じゃないってがっくりと口を閉ざしてて、私も落ち込んでたんだけど、今では本当に溺愛しすぎで逆に困っているのよ」
笑いさざめく二人。しかし、ドアの外で、偶然にも自分の話を聞いてしまった年端もいかない少女は固まっていた。「男の子だと思って喜んでいたのに……」女の子であることに何の感情も抱いていなかった彼女に、その一言はいきなり地面に亀裂が入って吸い込まれるような衝撃であった。
女の子ではいけなかった? みんなは私が男の子であることを望んでいた? 私は望まれていなかった?
その頃からだった、優理の中に一人の少年が現れたのは。
バカ、そんなに女っぽくなよなよしてお父さんが喜ぶか?
めぞめそするな、しゃきっとしろ。男ならこんな時に友達を守って戦うぞ。
女の子である優理をさげすみ、常に居丈高な物言いをするその少年は優理と同じくらいの年で、遺影で見た男の子と同じ顔立ちをしていた。彼は常にカッコよく、公正でそして男っぽくふるまうことを優理に強要した。随分傲慢であったが、優理は決して彼に逆らって女の子のようにふるまおうとはしなかった。なぜなら、女の子の優理は、誰からも望まれていなかったことを知ってしまったから。
美形で男前の優理。
その偶像は、家族が自分の性別に関係なく愛してくれていることに気付いた時にはすでにがっちりと形成されており、自分の手でイメージを突き崩せないところにまで来ていた。
いいじゃないか、私の言うとおりにすればいいのさ。
優理と一緒に成長してきたその青年は、着る物から食べるもの、話し方からちょっとした仕草まで当たり前のように指図する。
確かに彼の言うとおり行動すれば、称賛され、憧れを持たれる。
だけど、本当の自分との乖離を彼女は強く感じていた。
しかし、今更こんな女々しい自分を前面に出したら皆幻滅してしまうのではないだろうか、という不安が彼女を渋々ながら青年の言葉に従わせていた。
そんな葛藤が最高潮に達したころに出てきたのがVRMMOだった。ゲームの世界ではどんなキャラクターにもなれる。優理はいつもいろいろなアバターを選んだ。しかし選ぶ性別はすべて青年の指図する男のキャラクター。金髪碧眼の王子、目の鋭い黒髪の道士、茶色の髪の青年……。男の身体を手にした優理の心の中の青年は、ゲームの最中は優理を完全に抑え込み、我が物顔にふるまった。そして元来の優れた運動神経と判断力、青年の公正で勇気ある行動が功を奏してゲーム世界でめきめきと頭角を現しついに希少なゴールドパスを手にするまでになっていた。
だけど、その頃彼女の中では反乱が起こり始めていた。
なぜ、ここでも女の子じゃいけないの? どうして可愛い子ぶってはだめ? だってゲームの世界だよ。私が私と認識されない世界なら、何をしてもいいでしょ。
日ごとに大きくなる自我の声。
「欲しい身体を持てない私に自由にさせてくれよ」
「あなたは私でしょう、私に従ったらどうなの?」
意を決した美月優理は、初めて文句を言う青年を押さえつけて「女の子」でゲームの世界に入る。青年の力で取ったゴールドパスIDは使用せずに。
凄腕ゲーマーで、甘えんぼキャラ。彼女は今までになく歓迎され、いくつかのパーティを渡り歩いた。そしてある日、誘われたサロンで、複数の男性からちやほやされていた時にそれは起こった。
出されたカクテルを飲んだとたん、急激なめまいと吐き気。真っ暗になった視界の中で手と足を掴まれてどこかに連れて行かれる感覚が彼女を襲う。もがいて抵抗しようとしても、体の力が入らない。まるで脳から何かがもぎ取られるように、急激な頭痛がして優理は泣き叫んだ。
「助けて、誰か助けて……」
「……けにいく、待ってろ」遠くでかすかな叫び声。
やがて、美月は現実そのままの姿で高柳とともに『囚われの姫君』に参加している自分を見つけた。
そして、優理の脳内にとり残された青年はカローンの公募を見つける。自我が分かれて脆弱になっていた彼女の心は、強引な拉致の衝撃で二つに裂けたのであった。
彼はカーロンの導きのままに優理を助けるためにこのゲームに参加する。
彼に洗脳が効かなかった理由。それは、美月がすでに誘導されていたこのゲームへの回線をそのままローエングリンも使っていたからであった。回線の管理は通常インフィニティが行っているが、鱗翅伯爵もその回路をこっそり利用する術を不完全ながらも編み出していた。だが、高柳が洗脳を目的にローエングリンの回線を探したときに、彼の回線は美月用と認識されていたため、彼はローエングリンの回路を通して洗脳プログラムを起動することができなかったのである。
「ううん、根深い……」
美月とローエングリンから話を聞いたチョッカーンが捻る。
「ごめんなさい。私、高柳君の居るところに行きたい。でも、彼は急に居なくなってしまって、私どうしたらいいのかわからないの」
優理は力なく首を振る。分裂してから、彼女は女の子らしいたおやかさを得た代わりに、今まで持っていた力強い判断力を失っていた。
「誰かコイツの洗脳を解いてくれよ」
ローエングリンが頭を抱える。
「それは、君の仕事だよ」
マークはローエングリンをまっすぐに見つめた。
「君は独立した人格になっているけど、美月さんの一部なんだ。彼女を救うためには君が頑張らなきゃ」
初めてマークに意見されたローエングリンは二の句を継げない。
「お前、なんだか一段とたくましくなったな」
チョッカーンがうれしそうに友人の背中をたたいた。
鐘楼で初めて一息ついた彼らは、追い払った警備兵から奪った兵糧でカラカラの喉と、鳴るのも忘れた腹を満たし、来たるべき戦いに備えていた。
今は鐘楼への通路にバリケードを築いているが、兵が鱗翅王に事態を告げて大挙してやってくるのは時間の問題だ。
「それにしても、姫様気の毒すぎる。ローエングリン、お前消えろ」
「なんだとっ。それが苦楽を共にした戦友に向かっていう言葉か」
チョッカーンと、ローエングリンが睨みあう。
「ほんとにもう帰ってこなくていいから」
ローエングリンにアカンベーをする優理。
ここに来る前には、美月さんのそんな奔放な姿見たことも無かった。いつも隙を見せずに凛としている彼女しか知らなかった。マークは感慨深げに彼女を見つめる。
その視線に気が付いたのか、ちょっと頬を赤らめて優理が顔をふん、と横に向けた。
マークも慌てて視線をずらす。
ふと見ると、いつも強気なローエングリンが、鐘楼の階段に腰を掛けて浮かない顔をして膝を抱えている。
美月からの拒絶がショックなようだ。
どさり、とその横にチョッカーンが腰を下ろした。
「さっきは消えろなんて言って悪かったな、ゴールドパスの無敵の騎士さんよ。女ってもんは、こちらが尽していると思っても、それをかえって疎ましく思う事があるんだよ。お前は傲慢だが、悪い奴じゃない、時間がきっと解決してくれるさ」
「うるさい、お前に私の気持ちがわかってたまるか」
チョッカーンが横を見ると、肩が小刻みに震え、切れ長の緑の瞳が潤んでいる。つっけんどんな物言いとは逆に、その瞳は無垢な少年のように深い憂いを帯びていた。
いつも隙を見せないクールなローエングリンの、妙に弱々しい姿にチョッカーンは肩を叩こうとした手を止める。
そう言えば俺、ローエングリンと取っ組み合いしてたよな。そのまま寝たこともあったし……あれが、一部とは言え美月さんだったなんて。
彼は溜息をつく。そういえば仮死状態から生還した時「王子様のキスでお目覚めがよかったか?」なんてことも言ってた……。
おでこをくっつけて自分を睨みつけるローエングリンのいたずらっぽい目が浮かび、チョッカーンは思わず顔を赤らめる。
「お、俺、男部分とは言え美月さんとキスできたかもしれなかったんだ……」
そのことに気が付いて、後悔の念に苛まれるチョッカーン。
ふと、彼は傍らのローエングリンの目にキラリと光るものが溢れているのに気が付いた。美しい桜色の下唇が噛みしめられて白くなっている。うろたえた彼は思わず邪念でくすんでいる自らの心を恥じた。
「な、泣くなよ……、おい」
こちらの方には向かず、しかし、かすかに顔がうなずいたように見えた。
チョッカーンはそれ以上何も言えず、黙って、横に並んで座っていた。