その5
足はもつれ、息は上がり、そして敵の足音、羽音が間近に聞こえる。
ばさばさっ、黒い影が眼前に立ちはだかった。
棍棒が振り上げられる。
息を飲んだ、その時。
その黒い影は、ゆっくりと地面に倒れた。
神経の集まっているところにピンポイントで刺さったのであろう、鬼の首には細い短剣が突き立っていた。
と、同時に背後から鬼の悲鳴に似た唸り声が聞こえる。
振り向くマークが見たのは、尖った細い棒のようなものが顔面に突き立って蹲ってうめく鬼達だった。
「今のうちだよっ」
暗闇の中どこからか、しゃがれた声が聞こえる。
黒い、忍者のような服を纏った小柄で痩せた影がマークの眼前にすたり、と着地した。
黒い布で頭部全体が覆われているが、目から鼻の一部だけがそのまま露出されている。
その左目には斜めに長い刀傷が入り、右目は鷹のように鋭かった。
こ、この人は……。
「ワシは儲けさせてくれた客には不義理なことはしない、って言ったろう」
布に覆われた鼻をうごめかせながら、その老女はにやりと微笑んだ。
マークを救ったのは、誰あろう、なんとあの強欲な両替屋の婆であった。
むんず、とマークの細い手首をつかむと、その老婆はかかとが尻に付くくらいの勢いで足を曲げると、放たれた弓矢のごとく跳躍した。
眼下に小さくなる鬼達の姿。
月をバックに小柄なくノ一とマークが空中で一瞬停止し、放物線を描いて深い森の中に落下していった。
ズボボボボっ。
木の枝と絡まったつる草がクッションになり、マークはしりもちをつきながらもなんとか無事に着地した。
老婆は、まるで重力など関係ないかのようにペタリ、と草の茂る地面に降り立つ。
「大丈夫かい」
老婆がマークの手を引っ張って立たせた。
「あ、ありがとうございます。あなたはどうして僕を」
「老人に功徳を施すといいことがあると言っただろう」
くくっ、と笑いを漏らすと、さっと背を向けて森の奥へと歩みを進める老婆。
「それだけじゃない。あなたは僕らに関する何かもっと重要な事を知っているんでしょう、だから僕を……」
「しっ、坊や。あまり大きな声で話すと鬼達に聞こえちまうよ」
2人は無言で木々をかき分けて進む。
前を行く老婆は鋭利な短剣で音を立てずに、前を横切る植物を切り裂いて道を作る。
2時間も進んだだろうか、彼らは音を立てて流れ落ちる滝壺の横に出た。
老婆は暗闇の中、滝から跳ね上がってくる水でぬるぬると滑る岩の上を、まるで吸盤が付いているかのような安定した足取りで滝壺の裏にできた小さな洞穴に入っていく。
マークが暗視できていなければ今頃滝壺の中だろうが、彼も足元が見えるため、老婆の手にしがみつきながらなんとか後に続いた。
入り口は狭かったが、中は案外広い。
曲がりくねっているため暗視と遠見の力をもってしても一番奥はわからないがかなり長い洞窟のようだった。
「この大量に流れ落ちる水の帯が鬼の使うレーダーをかく乱してくれるだろう。洞窟の奥には沢山のコウモリも居る。彼らが一斉に飛び立てばチャフの代わりになるはずだ」
「chaff? もみ殻、干し草?」
単語のそのままの意味しか知らないマークが老婆に問い返す。
「坊や、チャフとは軍事用語でレーダー探知を妨害するために使用するものだよ。オーソドックスなものとしてはアルミ箔の小片だが、チャフを空中に大量散布することで、レーダーを乱反射させて目標を誤らせたり絞らせなかったりするのさ。鳥の大群がレーダーにうつりこみ飛行機と勘違いされたということもあるらしい」
そうっ、と老婆は洞窟の中に入っていく。
コウモリたちは飛び立とうとしない。
「修行中、ここを長いことねぐらにしていたこともあるからねえ。あんたもだいぶダメージを受けているから今夜はここでぐっすり休むといいよ」
老婆は腰のずだ袋から、何かの動物のフンなのだろうか固形の物を取り出すと火打石で火をつけた。
「おばあさんは、レーダーとか最先端の事を知ってるくせに使うものは原始的なんだね」
マークが不思議そうにつぶやく。
「あたしの名はペリドット、ばあさんなんて呼ばないでおくれ、老け込んじまうよ」
淡い光の中で老婆の目の周りの皺の陰影がくっきりと映し出された。
炎に映し出されて草色の瞳がキラリと光った。
「ここに葉月が居れば、あんたの傷なんて一瞬で治しちまうのにね」
ペリドットはそうつぶやきながら袋から低い円筒形の入れ物と薬包紙に包まれた何種類かの粉薬を取り出した。
懐から折りたたまれた油紙を出すと、円筒形の入れ物の蓋をとりべっとりと軟膏をその油紙に塗りつける。
そしてさらさらと緑と青の薬をその軟膏にふり、指で混ぜ始めた。
「こっちをおむき。奴ら全くひどいことをする、坊やのせっかくの可愛い顔が台無しだ」
老婆はそう言いながら彼の顔に混ぜ上げた軟膏を塗りつける。
皺だらけの指の当たった部分は、すう、と涼やかな風が通り過ぎたようでいつの間にか、ずくずくと脈を打つかのように続いていた痛みが消えている。
爽やかな香りが鼻腔から吸い込まれると、ぎりぎりまで張り詰めていたマークの心がふうっと緩んだ。
それとともに、自分の体が泥になったように重くなっているのを感じる。
瞼も例外ではなく、意思とは裏腹に水分を含んだ雪が屋根からずり落ちるように目を閉じようとしていた。
「お前さん、頑張ったね。あの鬼相手にあそこまでやるなんて上出来だよ。気分をほぐす薬も入れといたから今日はぐっすりと眠んな」
言葉とともに目の前の炎が消える。
心地よい暗闇が瞼から広がり、マークは時折コウモリの叫びを聞きながら夢の世界に引きずり込まれていった。
曲がりくねった洞窟の入り口から一条の柔らかい光が差し込んだ。
夢を見る余裕も無かったらしい、彼は昨夜闇に包まれた記憶のままで目が覚めた。
「お前さん、朝食が置いてあるよ。遠慮なくお食べ」
竹筒に水が満たされている。
竹の皮に乗せられた干した芋と、水でふやかした固い米の様なものと味噌、そして一山の木の実がマークの枕元に置いてあった。
「ペリドットさんは食べたの?」
「まどろっこしい、さんづけはお断りだよ。ペリドットとお呼び。あたしはこう見えても痩せの大食いでね。朝からそこいらを偵察がてら、湧き水を汲んで食べられる木の実を確保してきたよ」
その言葉は真実らしかった。老婆の傍らには、年齢と体型からは考えられないくらい大量の木の実の殻が山積みになっている。
「この、ご飯は?」
「知らないかい、それは干し飯といって焚いたお米を水で軽く洗ってカチカチに干したもんさ、本当は熱い湯で戻すといいんだがまあこういう状況で贅沢も言えない、朝から水でふやかしておいたんだよ」
マークはまず竹筒に入った湧き水をごくごくと飲む。
それは今まで飲んだことの無いような清涼感、後に何も残らない透き通った味。
冷たい水はひび割れた大地のようにひりひりと乾いた彼の喉を潤して、身体に目覚めの喝を入れていった。
干し飯は歯ごたえがあったが、昨日の昼以降は何も食べていなかったマークにとって噛めば噛むほど甘い味が口に広がって飲み込んだ後に胃の腑に染みていくように感じる。
塩分も消失していたのだろう、辛めの味噌がまた美味しい。
美味しすぎて、頬と顎の間がきゅうと締め付けられ、マークは顔を歪めた。
それにしても身体の軽さは昨日とは大違いだ。
睡眠と栄養が彼の衰弱によって失われた流通ポイントをある程度回復させたに違いない。
「マルコム、僕の流通ポイントは?」
おそるおそるマークがマルコムに尋ねる。
「能力ポイント、ゼロ。流通ポイントは、240」
たった240、これでは、簡単なバリアーを一回張っておしまいだ。
とても、戦闘なんかできるポイントじゃない。
早くあの2人と再会して美月さんのところに行かなければならないのに……。
期待しすぎていたマークはしょんぼりと肩を落とした。