その4
あたりはすでに暗かった。
マークの眼前では、大きなたき火の炎が天を求めて手を伸ばすがごとく激しく踊っている。
たき火の周りに映し出された何匹もの奇怪な鬼たちは、顔の皺やコウモリのような黒光りした翼の筋張った陰影がはっきりと浮かび上がり、昼よりもさらに不気味さを増している。
時折、マークの方を向いてうううう、と牙をむくその姿はけだものそのもので、とても言葉の通じる相手とは思えない。
マークは数度、自分の目を瞑ったり、開いたりしてみたが、眼前の光景はこれが現実とばかりに全く変化しなかった。
彼は大きく溜息をつく。
その時突然、鬼たちが唸りながらマークへの道を開けるかのように後ずさった。
その道の向こうから、ひときわ大きな鬼が近づいてくる。
鬼の目は血走り、急峻に吊り上っていたが、他の鬼に比べていくらかの知性を感じた。
言葉が通じるかもしれない。
しかし、その鬼がいきなりマークの鼻先に付きつけた棍棒はとりわけ太く、そしてとげの付いたつる草が幾重にも巻かれており、マークは膨らんだ期待を一気にしぼませた。
「マーク・チートとは、お前か?」
その鬼は地獄の底から響くような低い声でマークを睨みつける。
いや、チートではないんですが……、とはとても言えない雰囲気である。
マークは慌てて首を縦に振った。
「お前には、オオカミ野にしろ、リザードマンとの対戦にしろ、なぜかインフィニティの加護がある。なぜだ」
返答を強要するかのように、鬼の手が、マークが噛まされているさるぐつわを引きちぎるようにしてはずした。
なぜだ、と言われても、計略がうまく行ってしまっているんだから仕方ない。
「わからな……」
最後まで言わせずに、鬼の棍棒がマークの頬を直撃した。
引きちぎられる顔の皮膚。
痛み感受性の設定が鈍いため、それほど痛くは無いが頬からぽたぽたと落ちる滴りは斜めに折りたたまれている足から覗いている白い靴下にはねて赤い染みを作った。
ど、どんな傷になっているのだろう。
マークは全身の震えが止まらない。
そんな彼を見下ろしながら、鬼は首の下に棍棒を差し入れられ彼の顔を自分の方に上げた。
「転覆者か、お前は」
信じてくれ、僕はそんな者ではない。
叫びたいのは山々だが、否定の言葉とともに暴行が加えられるのは目に見えていた。
なんとか、この手足を拘束している紐をほどけないか。
マークは木の幹の後ろに回された手を動かし、手首の縄の結び目をほどけないかどうか探るが指は空しく宙を探るのみだった。
見たくもない鬼の顔がマークの視界に広がる。
「答えろ、この世界の中枢に働きかける方法を」
「知らない……」
言葉を発するとともに、マークは目を瞑り顔をそむける。
案の定、今度は反対の方向からの棍棒の一撃がマークを見舞った。
血しぶきが飛び散る。
「吐け、知らないとは言わせないぞ」
さらに立て続けに衝撃がマークを襲う。
痛みは強くないが、一撃ごとにガンガンと頭が振られ、彼は朦朧とした意識の中で強い吐き気を感じていた。
なされるがままだったマークだが、心の奥底からふつふつと強い怒りが沸いてきた。
彼は現実世界でも、いつもやられっぱなしだった。
ガリ勉と揶揄されながら、その答案は皆との共有を強要される。
クラスの中ではなんとなくバカにされて爪はじき、時には軽度の暴力を受ける事すらあった。
腕力もなく気も強くない彼は、いつしか、何をされても逆らわず怒らずやり過ごすことを覚えていく。
やり過ごしてさえいれば、相手があきらめたり、勘助が助けに来てくれたり、なんとか時間が解決してくれた。
でも、今は違う。
このまま暴行を受け続けて入れば、間違いなく自分は冥界行きだ。
なにも足掻かないまま、チョッカーンとローエングリンという大切な仲間を残して離脱するわけにはいかない。
彼は何とかできないかとばかりあたりを見回した。
彼の眼前、2メートルばかりのところに大きなたき火がある。
あの火を消せれば、暗視ができる彼にはきっと有利になるだろう。
横に置いてある水桶を倒せれば、火が消えそうだ……。
彼は他に何かないか目を走らせる。
たき火の横に肉がこびりついた動物の物らしき大きな骨が地面に突き刺さっていた。
火で焼いた肉を切り分けた後と思われる斧がその横にこれ見よがしに放り出されている。
あの斧でこの縄を切れないか。
体をねじる、幹と体の間には若干の余裕があるが、後ろに回されている手が縛られているため幹から離れることができない。
どうにかしてこの幹から離れて自由にならなければ。
マークはぼんやりとした頭でさらに考える。
なんとか、なんとか、この幹から離れたい。
彼の頭の中に棍棒で殴りつけられている自らの姿が浮かび上がる。
その瞬間、彼の瞳が輝いた。
「どうだ、教える気になったか?」
マークは鬼の問いかけに自分ができる限りの憎々しい表情を作って叫ぶ。
「知ってても鬼ごときに教えるものかっ」
鬼が唸って大きく棍棒を振り上げたその時。
「バリアー」
マークは流通ポイント温存のためにわざと使わずに置いていたスキルを発動する。
彼は頭を下げできるだけ小さく細くバリアーを形成した。
ただしこのバリアーは連れ去られた時、難なくこの鬼に破られているものだ、暴行を防げたとしても一時の時間稼ぎに他ならない。
渾身のバリアーによって鬼の一撃は跳ね返された。
鬼は大きく雄たけびを上げると、マークの顔を張り飛ばすようにさらに早く棍棒を振る。
バリアーに薄くひびは入ったが、マークに危害を加えることはできない。
唸りは天に響くばかりに大きくなり、鬼の棍棒はバリアーとともにマークの頭を砕かんとばかり大きくより早くスイングされた。
「バリアー解除」
マークの叫びとともに、彼の体は前屈し頭が下げられる。
バリバリバリッ。
マークの頭の上を素通りして、棍棒は木をへし折った。
幹から離れて、木は葉と木片を散らしながら横に吹っ飛んでいく。
鬼は自分のスイングにバランスを崩し、体をつんのめらした。
マークはその隙に後ろ手に縛られたままの手を折られた幹から外し、縛られた足で必死にぴょんぴょん飛びながら斧に向かって倒れこむ。
身体で斧の柄を確保し、刃に縄を押し当てる。
手の縄がばらりと落ちた。
自由になった手で斧を掴み、足の縄を切る。
体勢を立て直し憤怒の形相でマークに向かって来た鬼は、彼を捕まえようと毛むくじゃらの長い手を伸ばした。
他の鬼も異変に気が付き彼らの周りに駆け出す。
「うああああああっ」
人生初と言えるほどの大声を出しながら、マークは斧を振り回した。
血だらけの顔が醸し出す迫力に、鬼達が一瞬後ずさる。
マークは水の入った桶に体当たりした。
水音とともにたき火は一気に消え、たき火が燃えていたあたりに消し炭のオレンジが点々と残るのみ。
鬼たちは、小柄な脱走者を探そうと闇の中できょろきょろと顔を動かした。
マークにはその姿がはっきりと見える。
彼は足音を立てないようにそっと森の方に歩みを進める。
しかし鬼たちは暫く静止していたかと思うと、迷うことも無く一直線に彼の後を追いかけて来た。
「あの曲がりくねった角はレーダーの役目も果たし……」
巻物の言葉が全速力で走るマークの頭に蘇えった。
鬼たちが大挙して彼の後を追ってくる。
マークの足はもつれ、徐々にスピードが低下してきた。
すでに体力の限界に来ている。
後ろから鬼たちの足音が近づき、そして頭上からばさばさという鬼の翼がはためく音がした。
追いつかれた、もう逃げられない。
マークは天を仰いだ。