その3
一方、こちらは火炎の中で立ちすくむマーク。
一つしかない居室の出口を火に閉ざされた彼は、慌てて窓際に向かう。
窓際から眼下を見下ろすも、火炎と煙に視界はほぼゼロに近い。
「マルコム、チョッカーンとローエングリンに連絡をとって」
叫ぶマーク。
しかし、マルコムが応答しない。
何故? マークはマルコムに何度も呼びかけ続ける。
その時、眼前の煙の中から急に黒い翼を持った男が現れた。
いや、男というよりもそれは牙をむいた耳まで裂けたの赤い口とライトのように輝く無機質な目を持つ、人型の異形の怪物であった。頭には一本の曲がった角が生えている。
ミイラに近いほど絞りきられた黒い身体を衣服で包んではいるが、その手足の爪は鋭く伸びて当たるものすべてを切り裂きそうに鈍く光っていた。
「う、うあああ」
声にならない声を上げてしりもちをつくマーク。
マークめがけてその怪物は近づいてくる。
「く、来るなっ」
彼は手当たり次第に物を投げつける。
宝石や、花瓶、水差し。
しかし、その怪物はひるむ様子も無く低く唸り声を上げて一歩一歩獲物を追い詰める。
「ば、バリアー」
マークは手をかざし、その怪物を遮る。
怪物はバリアーを切り裂かんとばかり、その鋭い爪を透明な壁に振りかざした。
「ま、巻物クン、あ、あれは?」
「これは、これは、まためずらしいものが……ううむ」
巻物は感嘆の唸りをあげる。
「落ち着かないで、早く弱点を教えてよ」
マークは半泣きで叫ぶ。
「これは上位プログラムの使い魔で俗に『一角鬼』と呼ばれているものです。黒い翼は高速の飛行を可能とし、バリアーの役目も果たします。あの曲がりくねった角はレーダーの役目も果たし、通信のかく乱をすることもできます。マルコムが通じなかったのは多分そのためでしょう。加えてあの角は相手の電気的な攻撃を吸収し自らのパワーに変えることもできる優れものです。しかしコイツは通常のゲーム進行では出てこないはずの稀な怪物ですが……ううむそれにしても面妖な、これは興味深い」
「だから、落ち着かないでよっ、早く弱点を」
バリアーに徐々にヒビが入る。
「アイツを倒すには、剣などで切り伏せるか、あの目を突くかです。ああ、その前にあの角をへし折っておいた方が良いでしょうな」
無理、自分には。
マークがその結論に達した時、バリアがめきめきと音を立てて砕け散った。
筋張った怪物の右手がマークの襟首を掴む。
牙を持った顔がマークに近づけられて、生臭い息が吹きかけられた。
襟首を掴まれたまま、持ち上げられたマークは手足をばたばたさせて空しい抵抗を続ける。
それが怪物の癇に障ったのか、左手が彼の頬を平手打ちした。
首が折れるかと思うくらいの衝撃に、一瞬意識を失うマーク。
床の方から何かが割れるような甲高い音がした。
怪物は抵抗を止めたマークを横抱きにすると、窓枠を蹴って黒い翼を広げると虚空に飛び立った。
なんだか温かい空気が頬に触れる。
それとともに、ずきずきする顔と首の痛みが急速に蘇えってきた。
なんだか、長い夢を見ていた気がする。
勘助と一緒に美月さんを助けにロールプレイングゲームの世界に飛び込んだ夢。
そこで、火にまかれ翼の生えた鬼に締め上げられて……。
マークはそおっと目を開く。
しかし、彼の視界はたき火らしいオレンジの光を映し出すのみで、ぼんやりとしたままである。
どうやらメガネを無くしたようだ。
声を上げようとして、マークは口に何か布が噛まされているのに気が付いた。
手足は何か細いひものようなもので拘束されている、背中にごつごつとした感触があって、手が柱の様なものの後ろに回されて動けないように留められている。
自分は座ったまま、木の幹に縛られているようだ、とマークは分析した。
これは夢ではない、マークは溜息をつく。
胡蝶の夢とはいかなかった、現実はまだゲーム世界の中で窮地に陥ったままである。
「もう、僕らをどうしたいんだ、このゲームは」
現実に帰る手段も無く、マークは心の中で誰に向けるともなく恨み節をうなる。
だが、現実を呪っても、文句を心の中で叫んでも、この状況は変わらない。
あの鬼は何処にいるのか、なんとか周りの情報を得ないと。
この視力のままではきわめて不利だ。
「カーロン」
彼は心の中でつぶやく。
頭の中に白髭の老人の姿が現れた。
実際に見ているものでなければ映像はクリアに見えるようだ。
彼は脳内でカーロンのリバースルームに佇んでいた。
「マークか、おっ、こりゃ大変そうだな」
現実のマークの状態が見えるのか、老人は額に皺を寄せると気の毒そうな視線を前に立つ彼に投げかけた。
「僕、頬を叩かれた時にメガネを無くしてしまったみたいなんだ。だから全然周りが見えなくて……。能力ポイントで視力を回復させることはできる?」
「ううん、これは珍しい希望だな。遠くを見たいとか、透視がしたいとかいう希望は多いが、普通の視力回復ねえ」
老人は首をひねる。
「希望が多い視力スキルは2000ポイントのパッケージプランになっていて、もちろん通常の視力の担保とともに、遠見と透視が抱合せてある。ただ、煙幕が張ってあるとか言う時はそれを突き抜けて遠見はできないし、透視は通常の視力が届く場所までで、透視防御がされていれば見ることはできない。お得だけど、まあイマイチってかんじだ」
「もっと能力ポイントが安い視力回復だけってのは無いの?」
マークは値段交渉に入る。
今までの彼であればそのまま鵜呑みにするとことであるが、この世界の世知辛さに鍛えられたようだ。
「僕、今から自分の身は自分で守らなければならなくなったんだ。運動神経が無いから武器で戦えないって言える状況じゃない。できれば、視力回復と武器を何か交換できればと思っていたんだけれど」
白髭の老人は首をひねる。
「いずれにせよ、たかだか2000ポイントで視力スキルと一緒にではろくな武器をゲットすることはできんなあ……変に抵抗するとお前などは一刀のもとに切り伏せられるだろう」
「そう……」
マークはがっくりと肩を落とす。
「儂はお前さんの置かれている状況を打破するような助太刀や助言をすることはできない。そんなことをすれば、よからぬ奴らに目をつけられてしまうからな。だが私信なら……」
老人は何かを思うように天に視線をさまよわせた。
「じゃあ、とりあえず能力ポイント2000で、視力スキルを買うよ」
「ようし、話は決まった」
カーロンがおもむろにうなずく。
「ところでじゃ、儂が見るにお前さんメガネを取るとなかなか可愛い顔をしておるの」
「はあ?」
自分の顔などあまりそういう視点で見たことが無いマークは口をぽかんと開ける。
黒眼鏡は小学校低学年のころから使っており、そういえば最近はメガネをはずしたあとの自分の顔など見たことが無かった。
「ほら、どうじゃ」
カーロンは何処から取り出したか、手鏡を彼に渡す。
茶色の瞳のアーモンド形の目はメガネを取ると、今までより大きくぱっちりとしている。メガネの後ろで目立たなかった睫毛も、その長さを誇示するように主張し始める。
細い眉毛、そして高くはない鼻、薄い唇も自己主張の強いメガネが外れたことで全体のバランスが取れて凛々しい顔つきとなっている。
「年上の女が好みそうな可愛い顔じゃの」
「いや、別に……」
手鏡を返しながら当惑したようにマークは口ごもる。
今の彼の心は美月さんに夢中である。
他の女性の方に関心は無いし、別段もてたくも無い。
そんな彼を面白そうに眺めながら、カーロンは右手を挙げた。
「それでは、グッドラック、絶滅危惧種君」
「ありがとう、カーロン」
目を開けたマークの眼前には、鋭い牙をむいた鬼の顔がはっきりと飛び込んできた。
手にはいばらの巻かれた棒を持っている。
視線を泳がすと、同じような怪物が他にも数匹たき火の周りをうろうろしていた。
ああ、こんな光景見たくなかった。
マークは視力回復を心底後悔していた。




