その2
「それにしても、あっついなあ」
汗を拭きながら降り注ぐ蝉の声のシャワーを浴びて、後藤勘助がつぶやく。
「仕方ないさ、夏だし」
不毛な会話をぼそぼそとしながら、誠と勘助は照り返しの強い道を歩いていた。
夏休みに入って、すでに10日が過ぎている。
二人とも学習塾の夏期集中講座に出席した帰り道であった。
「今日、塾で美月さん見かけなかったなあ」
オンラインで講義を受けることもできるが、一種の社交場として塾に足を運ぶ生徒も多い。美月もその一人だった。
美月が塾の教室に入ってくるだけで、雰囲気がぱあっ、と華やかになるから不思議だ。
誠は講義の後に出席者のみが許される個別質問タイムを目当てに塾に通っている。
でも、なんだか気が付けばいつも彼女の姿を探しているのであった。
まるで……。
僕が塾に来ているのは断じて、彼女に会いにではない。ああ、そんな不純な動機ではない断じて。
彼はふと聞かれてもいない疑問を頭に思い浮かべ、全力で否定した。
誠にとって勉学は何者にも冒涜されてはならない神聖なものだ。女性が気になって注意散漫になるなどという事態は彼にとってあってはならない現象であった。
「誠が女の話をするのは珍しいな、ひょっとして……」
勘助がにたりと笑って、誠の腕を肘で小突く。
「ば、バカなこと言うなよ。そんなこと言うお前こそ」
「おっ、ムキになって。さては図星……」
探るような目つきで誠を見る勘助。
勘助も優理にご執心のようだ。
しかし、細身で影が薄く、見れば見るほど男としての魅力に欠ける誠にライバル意識を燃やすのもばかばかしいと感じたのか、がはは、とばかり笑うと彼は親友の肩をぽん、と叩いた。
「大丈夫、案じることは無い。たぶん、彼女にとって俺もお前も、どの男も眼中にない。彼女は今オンラインゲームにハマっているらしい。噂ではかなりの凄腕プレイヤーらしいから、オンラインの世界でも美形の騎士様とか筋肉もりもりの勇者様を侍らして逆ハーレム状態で無双してるに違いない」
彼女が凄腕プレイヤー、そんな話初めて聞いた。アンテナの低い誠は、目を丸くする。
男前な彼女の事、オンラインの世界でも魑魅魍魎をなぎ倒して、周囲の憧れと尊敬を勝ち取っていることだろう。
誠は颯爽と活躍する彼女を想像して、憧れるような、でもますます遠くの存在になってしまうような、形容しがたい寂しさを味わっていた。
「んじゃ、また明日」
勘助が手を挙げて、角を曲がった自分のアパートに向かって去って行った。
ぼんやりと、手を振りかえす誠。
今日は午前のみの授業で午後からの予定は特にない。
しかし、誠にとって余暇=勉強であるから、学習塾での授業があろうがなかろうがあまり大差がなかった。
もちろん帰ってから何か胃の中に放り込んですぐ今日の復習をするつもりである。
閑静な住宅街の小さな庭がある瀟洒な一軒家。それが誠の家である。
母の夢だったという飾り窓のある白い壁の家。
カギをまわし、おしゃれな植物の彫刻が入った茶色のドアを開けると誠は小さく呟いた。
「ただいま」
予想していた通り、シーンと静まった家の中からは物音ひとつ聞こえない。
彼の母は兄の留学先に昨日から一週間の予定で出かけている。
彼女は父亡き後、女手一つで小さいながらも会社を経営し兄と誠を育て上げた。
兄は昨年、海外の有名な大学の経済学部に通り、母の後継ぎとしての一歩を踏み出している。
兄の合格が知らされた時、母は父の遺影を抱き、もうこれ以上望むことは無いと涙を流して喜んだ。
母さんの笑顔を見たくて頑張ったんだ、と、むせび泣く兄。
抱き合って盛り上がる2人を呆然と見つめながら、誠は心の内で呟いた。
あの、僕も居るんですけど……。
僕は……?
残念ながら、母の苦労は兄の段階ですでに報われてしまったらしかった。
冷麦をかっ込むと、誠は二階の自分の部屋に上がった。
整然と整理されたごみひとつない部屋。
本棚にはぎっしりと学習参考書と学習用DVD、学習資料のファイルが並んでいる。
「さあて、勉強、勉強」
昨年の兄の合格から、なんだか追ってきた目標がいきなり消えたような気がしないでもないが、誠の勉学への熱意は消えない。
それは癖の様なものだ。
まるで、泳ぎを止めたらマグロが死ぬかのように。
誠は勉強を止めたら、自分の存在がなくなるように思っている。
すなわち、勉強=自分の存在意義。
ただ、彼の兄のように、勉強がなんでも得意という訳ではない。
誠は自分がトップを取れない訳を良くわかっている。
それは、応用力がないのだ。
暗記はできる。何が何でも、覚えなければならないものは気合で覚えるので暗記問題はパーフェクトだ。
しかし、応用問題は、どうにも手が出ない。
数学などは、参考書という参考書、手当たり次第問題を解き、そのパターンを覚える。ほとんどはそれでこなせるのだが、テストでいつも1~2問出る独創的な問題の壁を突破することができないのだ。
「あの、高柳を抜かせたらなあ」
ふと、口から洩れる願望。しいて言えば、これが今の誠の勉強の目標だろうか。
机に付くと、暗記用の書きなぐりノートを開く。
化学式、年号、数式、文法に英単語、などなど。
暗記モノはこのノートに念仏のように呟きながら書いて書いて書いて、覚えるのだ。
いくらアプリが発達しても、暗記にはこれが一番である。
「あ、その前に……」
誠は、本格的に勉強を始める前にPCを開いて先にメールのチェックをすることにした。
いったん始めると深く集中するので、終わるのはいつになるかわからない。
母からなにか急ぎのメールが来ていないか、チェックをしておかなければ。
しかし、誠の思考回路をめちゃくちゃにする劇的なメールが着いていることなどその時の彼は予想だにしなかった。
検閲ソフトの網の目をかいくぐった数個のジャンクメールの後で、スクロールしていた誠の手が止まった。
「こ、これ……」
ごしごしと目をこする。
深呼吸する。
助けを求めるかのように周囲を見回す。
そして、もう一度メールを見る。
TO 篠原 誠さん
救出をお願いします。仮想空間でオンラインゲームをしていたら、いつの間にか拘束されて、牢獄に繋がれてしまったの。明石先生が言っていた『囚われの姫君』だと思うけど、なんでこういうことになってしまったのかよくわからない。どこかで混線したのかも。ここからどうしても脱出できない。急いで助けに来て!
『囚われの姫君』ゲームナンバーA99―42251
FROM 美月優理
「これ、っていわゆる『釣り』っていうやつか?」
でも、なんで自分のメルアドを知っているんだ?
連絡網に記載されているメルアドを利用したクラスメートの誰かのいたずらか?
頭の中で、疑惑と、そして意に反して甘い妄想がぐるぐると渦巻く。
「いや、もし、本当だったら……。そういえば明石先生、現実の世界で付き合うことも、とか言ってたっけ」
堅物のガリ勉、で有名な誠だが、所詮一皮むけば普通の男子。やはり美月優理の魅力には抗しがたい。
でも、彼女は高嶺の花、まるで重力レンズ効果で見ている遠くの銀河のごとく。
近くに美しい映像は見えるのに、実はずっとずっと遠くの存在。
誠の頭の中に、牢に入れられて不安げな美月が浮かび上がる。
想像の中の姫君は気丈にぐっと赤い唇をかみしめて、だけどちょっと顔は青ざめている。
牢の格子を握る手も震えてたりするかもしれない。虚勢を張っているけど、本当は絶対心細いに決まっている。
「優理、助けに来た」颯爽と現れる誠を見て茶色の目にあふれる涙。
妄想の中、どさくさに紛れて誠は現実では呼んだことのない美月の名前を呼び捨てにしている。
「信じてたわ、篠原君」
牢の鍵を開けると、いきなり柔らかい体が誠の胸に飛び込んで……。
「ん、ふううううっ」
天井を向いて、小さな鼻の孔から勢いよく鼻息を吹き出す誠。
パタン。
次の瞬間、彼は開きかけていた暗記用ノートを閉じた。
本人以外の悪戯メールだと疑ってかかるのが当たり前の状況だが、女性への免疫がない誠の理性はすでに空の彼方に吹っ飛んでいた。
いや、異次元の彼方へ、と言った方がいいかもしれない。