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キャットフードと小鳥さん

作者: 滝田TE


 今年もこの季節がやってきた。


 肌を焦がす陽射し。

 陽炎ゆらめくアスファルトの道路。

 大音量で耳を叩く蝉の鳴き声。

 見上げれば目が痛くなりそうな青空に大きな入道雲。

 公園には残り少ない夏休みを名残惜しそうに遊ぶ小学生。


 そんな子供たちを横目に、僕はあの店に向かう。

 家からは少し離れた、商店街の端っこにある一軒のペットショップ。

 品揃えで言えば、通い慣れたホームセンターのほうが多い。家からも近いし。

 だけど、僕が求める物はそこにしかないのだから仕方ない。


 あいつが好きだったキャットフード。

 大手メーカー製でもなく、値段もいたって普通。

 でもあいつは、一缶で僕の昼食代を軽く上回る値段のフードよりもそれを好んだ。

 おかしなやつだった。

 過去形でしか言えなくなったのは、寂しいけれど。


 あいつが逝ってしまってから、もう五年が経つ。

 それから毎年、この時季に僕はあいつの好きだったキャットフードを買いに、あのペットショップへ足を運んでいる。

 未練かと言われれば、僕は違うと答えるだろう。

 そりゃあ今でもあいつを思い出すと、鼻の奥が少しだけツンとすることがたまにあるけれど。

 これは僕の中で、年中行事の一つとなっただけのことだ。

 あいつのお気に入りだった場所、同じくお気に入りだった餌皿にフードを山盛りにして置く。

 その光景を眺めながら、僕はビールを飲む。

 年に一度、決まった日にやる行事。

 誰にだって、そんな自分だけの決め事くらいあるだろう。

 そんなことを考えながら歩いていると、何時の間にかペットショップの前まで来ていた。




 店にかかったちょっと色褪せた看板には、『ペットショップ小岩井』の文字。

 通りに面した大きなガラス窓には、『新商品入荷!』やら『ドッグフードセール中!』といった手書きのPOP。

 他のペットショップがどうなのかは良く知らないが、この店は店頭にペットのディスプレイをしていない。

 もちろん、ペットを売らないというわけではなく、店内に入れば二匹の犬が一応商品としてうろついている。

 でも、その二匹もとうに成犬になっていて、ほとんど店の飼い犬状態だったりするので、売る気があるのか疑わしいところだ。


 小さなドアベルを鳴らして、店内に入る。


「あら。今年も来たんだね」


 二匹の犬の鳴き声と共に、彼女が僕を出迎えてくれた。


「ちわっす」


 去年と変わらない挨拶を返す。


「いつものフード?」


「です」


 このやりとりも去年と変わらない。


「いいわね~。ここまで想ってもらえるなんて、マリアちゃん……だっけ? その子も喜んでると思うよ」


「まあ、恒例行事みたいなもんなんで」


 お愛想とばかりに尻尾を振りながら足元に寄ってきた犬の頭をなでて、僕は苦笑する。

 実際にそうなんだから、他に言いようがない。


「それでもさ。こういう商売やってると、そこまでペットのことを想ってくれる人を見ると嬉しくなっちゃうもんだよ」


 そう言って彼女――小岩井小鳥さん――が、にこりと笑う。

 いつ見ても、気持ちのいい笑顔だなと思う。


「はい。これ、いつものね」


 カウンターの奥に置いてあった缶詰を二つ、片手でひょいと摘み上げると、小鳥さんはそれをレジ横に置いた。

 これも毎年のことだ。


 でも、その後に小鳥さんが発した言葉は去年とは違った。


「あー、申し訳ないんだけどさ。そのフード、メーカーが製造中止を決めちゃったらしくてね。

 店の在庫も返品することになったんだよ。何とかこの二つだけは、確保できたんだけどさ」


「そうなんですか?」


「うん。何でも売れ行きがあまり良くなかったのと、原材料の高騰とかでね」


 まあ、テレビのCMで見かけるような物でもなかったしなあ。

 そのうえ、売れ行きが悪いとなればさっさと見切りをつけて別の商品に変えるのは、どこのメーカーでも同じだろう。


「仕方ないっすね」


 そう。仕方ないことだ。

 あいつがいなくなってから五年。いい区切りかも知れない。


「ごめんねー」


 財布から取り出した札を受け取りながら、何故か小鳥さんが謝ってくる。


「いえ、別に小鳥さんのせいってわけじゃないっすから」


 支払いを済ませて、缶詰の入ったビニール袋を受け取った僕は、店内を見回した。

 各種フードや、首輪、リード、鳥用のケージ等々……。色んな商品が並べられているけど、不思議と雑然とした印象は受けない。

 これでこの店に来ることもなくなるだろう。

 小鳥さんに会えなくなるのも、少しばかり残念だ。

 そんなことを考えていると、その小鳥さんが妙なことを言い出した。


「ね、徹くん。明後日、ヒマ?」






 なんで僕はここに居るんだろう。

 決まってる。僕が小鳥さんの誘いを受けたからだ。

 そんな自問自答を、さっきから何度も繰り返している。

 ぴかぴかに磨き上げられた板張りの床。

 中央に敷かれた青く巨大なストレッチマット。

 その上で、僕と小鳥さんは向かい合っていた。

 二人とも道着に着替えている。もっとも、僕のは借り物だ。


「じゃ、そろそろ始めようか」


 目の前の小鳥さんが、腰に巻いた黒い帯を締めなおして口を開いた。


「りょ、了解っす」


 対する僕の帯は白い。

 当然だ。空手なんて久しくやってないのだから。

 もっとも、学生時代でも僕の帯の色は茶どまりだった。

 あまり本気になってやっていなかったし、途中で親父が倒れて部活どころではなくなったってのもある。


「そーんな緊張しなくても大丈夫だよ~。寸止めなんだから。

 それに、ほら。一応、グローブは付けてるんだし」


 ひらひらと両手を突き出して、小鳥さんが笑う。

 その手には彼女の言うとおり、空手用のグローブがはめてある。当然、僕もはめている。

 それでも、突っ込まずにはいられない。


「一応ってなんですか! 一応って!」


「いやー、だってほら、組み手してると勢い余ってつい……ってのは良くあることじゃない?」


「そりゃまあ、分かりますけど……」


 道着を正した小鳥さんは、両足を揃えてトントンと軽くジャンプしながら既に準備万端といった様子だ。

 諦めて僕も道着を整え、彼女に相対する。


「礼!」


 小鳥さんの凛とした声が道場に響いた。


 なんで僕はここに居るんだろう。


 その声を聞きながら、僕は二日前の小鳥さんとの会話を思い出していた。






「ね、徹くん。明後日、ヒマ?」


 思いも寄らなかった小鳥さんの言葉に、僕は一瞬固まってしまう。

 今まで、そんなことを彼女から言われたことがなかったからだ。もちろん、こちらから言ったこともない。

 実を言うと、密かに格好いい女性だな、と憧れてはいた。

 けれど、店員と客という関係はこの先変わることはないだろうとも思っていた。


「へっ?」


 そのせいで、僕は間抜けな返事をしてしまう。


「いや~、明日からお盆じゃない? お店も休みだし、徹くんさえ良ければちょっと付き合ってもらえないかなぁって」


 盆休みと僕に何の関係があるのだろう?

 このペットショップは名前から分かるように、小鳥さんの実家でもある。

 お盆で店が休みということは、小鳥さんの仕事も休みということだ。

 まあ、僕が勤めている会社は今日から盆休みなんだけど。

 これって、デートのお誘いだったりするんだろうか?

 実際には、そんな都合の良い展開なんて有り得ないことくらい分かってる。

 それでも、ひょっとして……と期待してしまう僕を、誰が責められよう。

 僕だってまがりなりにも男だ。異性に対する興味だって人並みに持ち合わせているのだから。

 そんなとりとめのない考えが、頭の中をぐるぐると駆け巡る。


「聞いたところだと、徹くんって空手やってたんだって? それで興味わいちゃってさ」


 小鳥さんは妙に照れ臭そうに、続けて言った。


「はっ?」


 またも間抜けな声を出してしまう僕。

 ますますもって意味が分からない。

 確かに以前は空手をやっていたけど、もう随分と昔の話だ。


「あれ? 言ってなかったっけ? 私、大の格闘技好きなんだよ。そりゃあもう、動物と同じくらいに」


 そう言う小鳥さんは、輝くような笑顔を浮かべていた。






「はっ!」


 僕の回想を、気迫の篭められた右正拳突きが中断させる。


「おわっ……!」


 すんでのところでバックステップして、それをかわす。


「集中しないと怪我するよっ!」


 小鳥さんはこちらに向かって一歩踏み込んで、右足で正面蹴りを繰り出した。

 女性とは思えないほど、鋭い蹴りだった。

 まあ、黒帯なのだからそれくらい出来て当然と言えば当然だろう。


「くっ!」


 体勢が戻っていなかったが、それでも何とか体を半身にずらして、左腕全体で蹴りをいなす。

 寸止めだから出来たまでであって、フルコンタクトだったら、この蹴りで勝負がついていたかも知れない。

 苦し紛れに、踏ん張っていた左足を軸にして、僕は右横蹴りを放った。

 案の定、僕の蹴りはあっさりとかわされてしまう。

 それでも小鳥さんは楽しそうだ。


「やるじゃないの」


「こっちは必死っすよ」


 嘘じゃない。長年のブランクが祟り、僕のほうは半分以上本気モードだ。

 それで軽くあしらわれているのだから、勝負になろうはずもない。


「じゃあ、今度は徹くんから打ってきなよ」


 小鳥さんはそう言うと、少し距離を置いた。組み手を開始した時と同じ場所。

 仕切りなおしということなのだろう。

 リズミカルに小さく跳ねながら、彼女は僕が仕掛けてくるのを待ち構えている。

 茶帯が黒帯に勝つことなんて、四割あれば御の字なことは分かってる。

 だけど、これは実際の仕合いではない。言わば、練習のようなものだ。

 負けて元々のつもりで、僕は打って出ることにした。

 部活時代に良く使っていた、コンビネーションを試してみようか。


「分かりました」


 僕はそう言うと、右半身を僅かに引き、いわゆる左構えのポーズを取る。

 一つ深呼吸をして、腰をわずかに落とす。


「ふっ!」


 右足を大きく踏み込んで右中段突き。当然、これはガードされるかいなされるだろう。

 しかし、そこからすかさず左中段突きを繰り出すワン・ツー。

 そして、その勢いを活かした本命の右後ろ回し蹴り。

 今回は寸止めルールなので、上段は使えないため小鳥さんの右脇腹を狙う。

 オーソドックスなコンビネーションだが、後ろ回し蹴りは僕の得意な技だった。

 これで部活の先輩相手に、何本か取ったこともある。

 決まるかも知れない。

 そう思った次の瞬間、あろうことか僕の蹴りは小鳥さんに叩き落とされた。


「えっ……!?」


 油断が招いた一瞬。それで勝敗は決した。

 技を出した直後の、がら空きとなった僕の腹に、小鳥さんの横蹴りがヒットしたのだった……。






「いや~。ごめんごめん。止めるつもりだったんだけどさ、徹くんの蹴りが予想外に鋭かったんで、つい……」


 あれからストレッチマットの中央に戻り、二人して礼をした後、僕はマットにひっくり返った。

 手加減はしてくれていたんだろうけど、蹴られた箇所が鈍く痛む。

 働くようになってからは、日々の鍛錬どころかランニングすらやっていなかったからなあ。

 腹筋も衰えてるだろうし、息が上がるのも仕方ないか。

 小鳥さんはと言えば、組み手を始める前とほとんど変わっていない。

 せいぜいが風通しのあまり良くない道場で動き回ったせいで、額に汗が浮かんでいる程度だ。

 ちなみに、僕のほうは汗だくだったりする。


「お腹、痛む?」


 マットの上に寝転んだ僕を見下ろしながら、小鳥さんが尋ねてくる。


「ちょっとだけ。まあ、大したことないっすよ」


「寸止めのつもりが、結局はフルコンタクトと変わらなくなっちゃったからねー」


 そう言いながら、小鳥さんは道場の隅に置かれていたスポーツバッグへと歩いていった。




 なかなか戻らない呼吸で、僕が天井を見上げていると、不意に冷たい感触が額に感じられた。


「とりあえず、汗拭きなよ」


 顔を動かすと、視界の中で逆さになった小鳥さんが、タオルを僕の頭に向かって垂らしている。

 前もって準備していたのだろう。そのタオルは一度水に濡らした後、凍らせたものだった。

 僕も学生時代、夏場は良くやっていたからすぐに分かった。


「すんません」


 行儀が悪いかなと思いつつも、寝転んだ姿勢のままそれを受け取る。

 凍ったタオルは程よく融けていた。

 タオルを顔に押し付けると、これ以上ないくらいに気持ちがいい。

 洗剤の香りだろうか、タオルは何かの花の匂いがした。

 顔を拭いた後、僕は首筋や胸元を拭くために起き上がろうとする。さすがに寝たままでは拭き辛い。


「っつっ……!」


 足を振り上げた勢いで起きようとしたのだが、自分で思っていたよりも蹴りのダメージは残っていたようだ。

 再び襲ってきた鈍い痛みで中途半端に力が抜けてしまい、起き上がるのに失敗して、情けない格好で再びマットの上に仰向けになる僕。


「大したことあるんじゃない。大丈夫?」


 まるで母親が子供をたしなめるような口調で、小鳥さんが訊いてくる。


「あはは……。ここ最近、トレーニングとかしてなかったもんで……」


 格好悪いところを見せてしまったけど、既に遅い。

 僕は苦笑しながら、事実を言うしかなかった。


「しょうがないなー」


 僕の頭のそばに座った小鳥さんが、呆れたように言う。

 そして、その言葉の後、不意に僕の頭が持ち上げられる。


「えっ?」


 気付いたときには、僕の頭は小鳥さんに抱えられる格好になっていた。


「ほら、起きなよ」


 そう言いながら、小鳥さんは頭を持ち上げて僕の上半身を起してくれた。

 一瞬、膝枕でもしてくれるのかと思った自分が恥ずかしい。


「すんません……」


 都合のいい妄想をしてしまった自分に対する羞恥と、男のプライドが自然と声を小さくさせる。


「気にしない気にしない」


 しかし、小鳥さんはいつもと変わらない軽い口調で、マットの上に胡坐をかいて座るかたちになった僕の手から、タオルを奪い取った。

 疑問に思っていると、首筋に冷たいタオルが当てられる。


「ちょっ、ちょっと! いいっすよ! 自分でやりますから!」


「いいから。それと、動かない」


 慌てる僕の頭を左手でわし掴むようにして、小鳥さんは首筋、そして胸元へとタオルを当てて汗を拭いていく。

 僕の後ろから手を回す格好になるため、胸元を拭く際に、小鳥さんの豊かな膨らみが背中に当たる。

 これは、なんとも……。


「完全に、運動不足だねー」


 不埒な考えに浸っていると、小鳥さんが呆れ半分にそう言った。


「え?」


 背中の感触に集中しすぎていた僕は、思わず訊き返してしまう。


「運動不足だ、って言ったの」


「はぁ……」


 他人に体を拭かれるという、初めての経験に落ち着かない僕は、そんな曖昧な受け答えしかできなかった。

 その他人というのが、女性じゃなければもう少しまともな答えが返せたかも知れない。

 しかし、相手はよりにもよって小鳥さんなのだ。

 バツが悪いというか、照れ臭いというか、何とも言えない気分になる。

 背中に感じられる天然クッションも、それに拍車をかけている。


「働きながらじゃ、なかなか難しいかも知れないけどさ。体、鍛え直したほうがいいよ」


「そうっすね」


 換気のために開け放たれた道場の窓からは、蝉の鳴き声と、小さな子供のはしゃぐ声が聞こえてくる。

 恥ずかしさを少しでも紛らわせようと、僕はそれらの音に耳を傾けた。

 でも、あまり効果はないようだ。その証拠に、やけに顔が熱い。

 きっと今の僕の顔は、真っ赤になっているのだろう。


「はい、終わり。何なら背中も拭いてあげるけど?」


「あ、だ、大丈夫です!」


 慌てて僕は立ち上がる。

 恥ずかしさのおかげか、今度は脇腹の痛みも気にならなかった。






 汗を拭いて、着替えを済ませた僕たちは道場の前に立っていた。

 何でも午後からは、近所の小学生たちが剣道場として使うことになっているらしい。

 道場の持ち主と小鳥さんが知り合いということで、午前中だけ借してもらっていたようだ。


「今日は楽しかったよ。久々に本気の組み手ができたし」


 スポーツバッグを肩に担いだ小鳥さんが、すっきりとした顔で笑う。

 そんな姿を見上げながら、小鳥さんらしい笑顔だな、と思う。

 言い忘れていたが、小鳥さんの身長は178cmある。僕の身長は172cm。

 僕より6cmも背が高いのだ。

 体つきも格闘好きを自称するだけあって、鍛えているのだろう。

 スレンダーなモデルと言うより、身体を作り上げたアスリートといった感じだ。


「僕が相手で良かったんですか? 組み手もあっさり終わっちゃったし……」


「そんなことないよー。特に、あのコンビネーションは偶然読みが当たったから対処できたんだから」


 そう言って、小鳥さんは僕がやったように右からのワン・ツー、右後ろ回し蹴りを再現して見せる。

 ジーパンだから出来ることであって、スカートだったら見えていたかも知れない。

 何が、とは言わない。

 健全な男子としての考えを他所に、小鳥さんが続ける。


「大抵は左を牽制に使うからね。それに、本来は最後の蹴りって上段でしょ?」


「ええ、まあ」


「上段で来られたらガードするしかないし、そうしたら徹くん、中段横蹴り出すつもりだったんじゃない?」


 そこまで読まれてたのか。

 やっぱり小鳥さんには勝てそうもない。

 僕は直接口には出さず、苦笑で答えた。


「やっぱり。……ねぇ、徹くん。もし良ければ、これからも時々でいいから稽古に付き合ってくれない?」


「稽古……っすか?」


「そう。ウチの近所に空手やってる人ってほっとんど居ないのよねー。徹くんみたく本格的にやってた人は、ゼロよ? ゼ・ロ。

 それに、どうせなら、一人でするより二人でしたほうが楽しいし、張り合いもあるってものよ」


 小鳥さんは笑顔のまま誘ってくるが、その目は真剣だった。

 少し考えて、僕は返事をすることにした。


「いいっすよ。僕で良ければ」


「徹くんならそう言ってくれると思ってたよ! ありがとう!」


 笑顔を一層眩しいものにして、小鳥さんが僕の手を両手で包み込んでぶんぶんと上下に振る。

 僕より年上のはずなのに、こんな時だけ妙に子供っぽい。

 正直、空手の稽古に関してはどこまで相手できるか分からない。

 でもまあ、こんなに喜んでもらえるならそれだけでオツリが来ると言うものだ。


「じゃあ、付き合ってくれるお礼に、徹くんにプレゼント」


 僕の手を離すと、小鳥さんはバッグの中に入れていたパスケースを取り出した。

 なんだろう?

 どこかのジムの利用券か何かだろうか?


「私が個人的に飼ってる猫がね? 最近、子供産んだのよ」


 取り出された物は、四枚の写真だった。それぞれに子猫のアップが撮られている。

 白い子、黒い子、灰色の子、それともう一匹。


「ね、徹くん。もう一度、猫飼う気ない?」


 その写真に見入っている僕の耳に、小鳥さんの声が聞こえてくる。

 でも、僕は一枚の写真に釘付けになっていた。

 あいつに良く似た毛並みの、小さな子猫。


「どう? もし、キミがその気なら、商売抜きで相談にものるよ?」


「…………」


 その子猫の写真に見入っている僕に、小鳥さんがぽつりと呟いた。


「そうしたら、もっと頻繁に徹くんにも会えるしね」






 八月も、もう二週間もすれば終わる。

 あいつが僕の下を去ってから五年。

 あいつとの時間は、あれから止まってしまっている。

 でも、新たな時間が一人の女性と一匹の子猫によって始まろうとしているのかも知れない。

 そんなふうに感じる夏の一日だった。



 これは、某所にて開催されたお題を用いての短編創作に参加させていただいた作品に、少しだけ加筆及び修正を施したものです。

 お題としては「格闘技マニアなヒロインとのラブイチャトレーニングな夏のある日」を使わせていただきました。


 アドバイスしていただいた方に感謝。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とても綺麗な文章でびっくりしました。 上手っていうのはこういうのを言うんでしょうね。 [一言] 展開がやや地味なところとあまりラブイチャしてないところは人によって好みがわかれるところかもし…
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