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追う星

作者: はじ



 漆黒の夜空に無数の穴。

 難解な出来事からの逃げ道のように路頭へと迷った僕らを照らす光。

 希望ではなく逃避である、星にはそんな魅力がある。そう、僕たちは語りあった。


「月がなんで空にあるか、知ってるか?」


 尖った耳をなでつけ、鼻をひくひくと鳴らしながら鳴瀬は言った。僕はその答えを知らなくて、膝の土を払いながら首を振り、銀色に煌めく鳴瀬の瞳を見返した。

 銀色の瞳。本当は鈍く締め付けるような鼠色だけど、鋭い眼差しのお陰で銀色に見える。鳴瀬はその銀色で夜空一面に輝く星を射抜く。


「そんなことも知らないのか」


 呆れているかな、鳴瀬は白い牙をのぞかせた。


「カミサマがこの世界を創ったとき、必要のないものを丸めて空に放り投げたんだよ。だから月はゴミ屑だ。あってもなくても関係ない、ただの屑だ」

「それなら他の星は? 金星とか火星とか、ベガとかアルタイルとか、デネブとかもそうなのかな?」

「そんなもんも全部、屑だ。あってもなくても関係ない、ただの星屑だ」


 折っていた四肢を伸ばして鳴瀬は立ち上がる。銀色の瞳で僕を刺し、真紅の舌をのぞかせる。


「そろそろ町に帰る時間だ」


 僕は頷いて、低く身を屈めた鳴瀬の背にまたがった。

 灰色の毛に顔を埋めて息を吸う。ほのかな土の匂いに混じった生き物の臭い。腕に伝わる生暖かい血のうねりと、それに乗じてやってくる焦り。

 夜空を振り仰いだ鳴瀬が大きく吠える。

 鳴瀬の遠吠えは冷たい夜気を揺らし、静かな木々を縫って夜空に駆け上がっていく。

 夜空へ打ち上げた咆哮を追うようにして、鳴瀬は小さく屈伸し、飛ぶ。

 体が軽くなる。耳もとで風が鳴る。

 背中に伸し掛かる圧力に抗うように、うずめた顔を上げる。


 ――金色の月。


 手が届きそうで、僕は手の平を掲げる。けれど手は届かなくて、空を切る。



 小さな天窓から零れてきた採光が瞼に落ちて、暗い夢の中から僕を呼び起こす。

 目を擦り上体を上げると、薄いタオルが僕の腹を撫でるようにして埃っぽい床に落ちた。それを拾い上げながら、今夜も鳴瀬に会えるのかなと、一匙の幸福を胸に立ち上がった。

 薄暗い室内に埃が舞い上がる。天窓から落ちる光で一瞬だけ埃が輝き、それを掴むように大きく伸びをして、太陽の光が枠取る戸口へと向かった。

『新しい一日の始まりは決まって幸福だ。けれど、それはいずれ来る不幸への序章に過ぎない』と鳴瀬は言っていた。僕にはそう思えなかった。

 朝明けの空は、その日がどのような運命的な日であったとしても、悲劇的な日であったとしても、決まって僕の胸を打つ。震える胸は高鳴って、今日という日には幸福しかないんじゃないかって、そんな気持ちにさせる。


 今、前に広がっている空も、僕の胸を鳴らして幸福を満たす。

 胸に満ちた幸福が零れてしまわないよう、僕はすぐ傍にある井戸に向かう。

 そして、この幸福が紛い物でないと証明するために、井戸の底から釣瓶を引いてその清冷な水で顔を洗う。

 顔に水が触れると、明澄な空に浮き上がっていたかのような心持ちは、たちまちどこかへ消えてしまって、僕は夢想から目を覚ます。


 頭がはっきりとし、僕は慌てる。

 腰に吊るしたぼろ布で濡れた顔を拭いて、母屋へと走った。

 裏口の鍵を開け、家主を起こしてしまはないように足音を殺して部屋の中へと入る。

 小ざっぱりとした部屋には、埃ひとつない。

 僕は、家主が起き掛けに飲む一杯の水を用意するために、水晶の杯を戸棚から取り出して、それを両手で包むようにして持ちながら慎重に井戸へと引き返す。

 杯をそっと井戸の縁に置き、僕は全身で釣瓶を引く。

 たっぷりと透明な水を満たした桶が井戸の底から上がってくる。杯の口を沈め、八分に満ちたところで杯を引き上げて再び母屋へ駆ける。

 決して杯を落とさないように裏口を丁寧に開き、室内にぽっつりと置いてある円卓の真ん中にその杯を乗せる。

 そこまでし終えて、僕はようやく一息つく。額の汗を拭い、そっと、音を立てないように、自分が存在していないかのように、母屋から抜ける。

 これが僕の仕事だ。

 顔も知らない誰かが朝に飲む水を汲むためだけに、僕は毎日息をしている。



 朝の仕事を終えてしまえば、残りの時間は自由に使える。宿主との契約はそういうことになっている。

 だからといって、何かやりたいことがあるということでもなく、僕はすることなしに物置に敷かれた御座の上に寝っころがっていた。


 天窓を隔てた空は今日も青い。

 朝は赤くて、昼は青くて、夕方はオレンジと紫で、夜は黒。

 一日に何回も姿を変えて、空って大変だなぁって思う。

 でもきっと、空自体はそんなこと当たり前だから、大変なんて思ってもいないんだろうなぁって、僕は考える。

『自分にとって当たり前なこと。でもそれが、他人にとっても当たり前だなんて思うなよ』

 それを鳴瀬は口を酸っぱくして、事あるごとに僕に言う。

 空にとって当たり前のことは僕にとって摩訶不思議なことで、僕にとって当然なことは空にとって意味不明なことなんだろう。


 空が色を変えるのは、世界が回るために必要なことだけど、僕が顔も知らない宿主に水を用意することは本当に必要なことなのかなって、僕は疑問に思う。

 空が真っ暗なままだったら困る人がたくさんいて、悲しむ人もいると思うけど、僕が水を準備しなくても涙を流してくれる人はいなくて、困るのは、起きたときに喉を潤す水がない宿主くらいだって思う。その宿主だって、起き抜けの水がなくても、別に困るようなことではないのかもしれない。

 だって、水がなかったら自分で汲みにいけばいいんだから。



 移ろいゆく空の色。

 僕はただただ夜を待つ。




 夜が来る。

 僕はそわそわしながら天窓越しに見える星たちを眺めていた。

 鳴瀬は、夜空に凛然と瞬く星たちのことを屑だと言っていたけれど、僕はどうしても疑問を抱いてしまう。


 ――どうして屑なのに、あの星たちは美しく輝いているのだろう?


 四角く切り取られた窓の先、砂金のように煌めく数多の星々は、鳴瀬が言うような屑にはとても見えなかった。


 ――あの綺麗な星たちが屑なら、僕は一体なんなのだろう?

 毎朝、知らない人に水を差しだす僕は、一体なんなのだろう?


 そんなことを考えていたとき、戸口から小石がぶつかるような小さな物音が聞こえて、僕は「鳴瀬が来た!」って内心で喜びを叫びながら戸口に駆け寄った。

 薄っぺらい戸を開けると、そこに鳴瀬がいて、口から白い牙をのぞかせて笑いかけた。


「準備はいいか?」


 僕はこくりと頭を下げて、飛びつくようにして鳴瀬の背中に乗っかった。鳴瀬は後ろをちらりと振り返り、思わずこぼしてしまったかのような僅かに耳に届くほどの笑い声を出した。

 そして、全身の毛を奮い立たせ、夜空に噛みつくように遠吠えをした。

 両手で鳴瀬の腕の付け根らへんをしっかりと握る。鳴瀬はそれを確かめたかのように鼻をひくりと鳴らして――



 飛んだ。



 冴えた月がすぐ目の前にあるんじゃないかって、勘違いしてしまうくらい僕は夜空に近付いた。

 鳴瀬は逆行する流れ星のようにぐんぐんと夜空の奥に突き進んで行く。

 毛羽立った鳴瀬の毛に月の光が落ちて、灰から銀へと塗り変える。その銀色の毛並みの間から僕は夜の町を見下ろした。

 ぽつりぽつりと灯る明かりは、夜空の星を投影したかのように綺麗な光を放っていた。


 ――鳴瀬は、この足元の星たちのことをなんて言うのかな?

 この町の光も、屑だと言って一蹴してしまうのかな?



 僕たちは夜空を越えて森へと降り立った。

 寝静まった木たちを起こさないように、そっと、忍び足で森の奥へと歩いていく。隣にいる鳴瀬は、何か嬉しいことでもあったのか森に降りたときから絶えず忍び笑いを続けていた。


「何か、あったの?」


 楽しいことを独り占めしている鳴瀬のことが少し気に食わなくて、僕はつっけんどんな口調で聞いた。


「ああ、面白いやつらに会った」


 それから先のことを鳴瀬は話してくれなかった。僕が口を尖らせて、「どんな人たち?」って聞いても、鳴瀬は白い牙の間から、くつくつ笑い声を零すだけで何にも教えてくれない。だから僕は不機嫌になった。鳴瀬が話しかけきても無視して歩いた。

 そんな僕を鳴瀬は笑っていた。僕はもっと不機嫌になって、どしどし地面を踏みしめて歩いた。


 辺りいっぱいを囲んでいた木々が消えて、ぱっと視界が開ける。

 切り開かれたその場所は、夜空を見上げるのにはぴったしの場所。

 いつもは鳴瀬のお腹を枕にして、きらきら光る星たちを見るんだけど、今の僕は鳴瀬のことが嫌いだから、鳴瀬と少し距離を置いたところに座って空を見上げた。


「怒ってるのか?」


 三日月のように体をしならせて座っている鳴瀬が言った。

 答えたくなかったけど、ちらりと僕を見た鳴瀬の瞳が少しだけ寂しそうだったから僕は答えた。


「もちろん、怒ってるよ」


 鳴瀬はまたくつくつと唸って笑った。


「怒ってばかりじゃ、掴めるものも掴めなくなるぞ」


 今度は返事をしなかった。

 鳴瀬はいつもこうだ。僕をからかって、子ども扱いして。僕が理解できないようなことばかり言う。それを僕がよく分からないって知っているのに。


「おい、何でそんなに怒ってるんだ?」


 見ていた夜空の端に鳴瀬の顔が現れた。僕はそっぽを向く。


「ったく、これだからガキは」


 鳴瀬はそう毒づいて、僕から身を離して空を仰いだ。


「お前の疑問に、ひとつだけ答えてやる。だから、機嫌をなおせ」


 僕はびっくりして鳴瀬を見た。こんなこと言った鳴瀬は初めてだった。

 目をぱちぱちとして驚いている僕を鳴瀬は笑った。


「どうした、早く言えよ」


 僕は必死になって頭の中から聞きたいこと探す。

 いっぱいあった。

 どうして空は色を変えるの?

 どうして月は金色なの?

 どうして僕は生きているの?

 いっぱいあったけど、僕はどうしても鳴瀬に聞きたいことが一つあった。


「どうして月は屑なの?」


 昨日の夜、鳴瀬が語っていたこと。

 カミサマがこの世界を創ったとき、必要のないものを丸めて空に放り投げた。それが月。だから月はゴミ屑。あってもなくても関係ない、ただの屑。


「月だけじゃないよ。この星たちも綺麗なのに、どうして屑なの?」


 鳴瀬の銀色の瞳が僕を射抜いた。思わず僕は声を上げる。

 だって鳴瀬の目は、初めて僕と会ったときと同じ、冷たい目だったから。


「答えてやるよ」


 僕の見間違いだったのかな。鳴瀬の瞳はいつもの銀色に戻っていた。でもそれは、寂しそうな銀色だった。


「綺麗なものほど汚いんだ。美しく見えるものほど価値がないんだ」


 鳴瀬は白い牙の間から吐き出し続ける。美しいものへの回答を。


「輝いているものほど醜いんだ。明るいものほど見づらいんだ。笑ってるやつほどどす黒いんだ。整っているものほど気味が悪いんだ。お前たちは――」


 見た目に騙されているだけなんだ。

 そう鳴瀬は結んで、星たちが瞬く夜空へ叫びを上げた。



「それでも僕の目に映る星たちは、美しいものにしか見ないよ」

 

 僕は目を伏せながらそう口にする。


「どんなに中身が汚れたものだとしても、僕の目には、とても綺麗なものにしか見えないよ、鳴瀬」


 どうしてかな、僕は鳴瀬にそう教えて上げなくちゃいけないような気がしたんだ。

 頭の先で、鳴瀬の息を飲む声が聞こえた。僕の物言いに鳴瀬は怒ってしまったのかな? 僕は恐る恐る顔を上げた。


「確かめに行くか」


 鳴瀬は銀色の瞳で月を見上げて、そう言った。


「え?」


 戸惑う僕を気にも止めない様子で、身を屈めて背に乗るように促す。


「ねぇ、鳴瀬。どこに行くの?」


 僕は灰色の背に跨って、聞く。

 鳴瀬は振り返らずに嬉しさを噛み殺したような声で答えた。


「星までだよ」


 鳴瀬が砂金の夜空へ飛んだ。



 満天の星が瞳に飛び込む。

 上を見ても下を見ても星しか見えない。

 流れ星がすぐ目の前をゆっくりと過ぎて行く。

 手を伸ばせばきっと、届いてしまう。



「ねぇ、鳴瀬」

「何だ?」


 僕たちは静止した星々の間を駆けていく。

 風はもう止んだ。

 僕たちと星々を遮るものは一切ない。


「ありがとう」


 僕の胸にあるものは、ちゃんと鳴瀬に伝わったかな?



 もともとは「捕る月、追う星」という一本の短編でした。完成段階で分割した方がいいよなー、と思い至り「捕る月」「追う星」の二つに分けることにしました。

 なので、もう一方の短編「捕る月」の方も読んでいただければ、この物語の違う一面も見えると思います。


 感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。

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― 新着の感想 ―
[一言] 両方読みました。 鳴瀬さんは吸血鬼っぽいなとか、こっちの僕があっちの死んだ小学生なのかなとか、対比して推測するのが面白かったです。 最後までわからなかったところや、若干比喩表現が回りくどい…
2011/09/04 18:22 退会済み
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