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ライ麦の季節に君を捕まえられなかったということ

掲載日:2026/03/13

 今年も変わらず、ライ麦はよく実っていた。

 一面に広がる黄金色の穂が、初夏の風に吹かれてさざなみのように揺れている。

 あの頃と何も変わらない香りと景色だ。

 

 この季節になると、決まって思い出す。

 一人の女の子のことを。五歳の頃の記憶を。永遠に続くと思っていた頃を。

 

 変わったのは──俺たちだけだった。


 ◆


 五歳の頃の記憶だ。

 

 サラはいつも鬼だった。

 本人が望んでそうなっていたのか、それとも自然にそうなっていたのか、もう覚えていない。気づけば、鬼ごっこが始まるたびにサラは満面の笑みで真ん中に立っていた。

 両手を腰に当てて、エメラルドの瞳をきらりと光らせる。誰から追いかけようか品定めするような目で俺たちを見回していた。


「みーんな、あたしが捕まえちゃうから!」


 彼女の明るく弾んだ声が、駆け出す合図だった。


 遊び場はいつも、村外れのライ麦畑のあぜ道だった。収穫前の穂は迫るように伸びて、子供の背丈ではほとんど見通しがきかない。

 鬼ごっこのはずが、いつの間にかかくれんぼになっていた、なんてこともある。

 そんな迷路みたいな道を、俺たちは毎日飽きずに走り回った。


 サラは足が速かった。捕まえられたくなければ、本気で逃げなければならない。子供たちはみな、サラが鬼になると本気で走った。

 

 俺だけが、走らなかった。

 正確には──走るふりをしたのだ。あるときは、曲がり角で少し迷うふりをした。またあるときは、わざと転んでみせたりした。

 そうして──


「捕まえた!」


 と、息を切らしたサラが勝ち誇ったように言う。俺は「あちゃー」と素直に両手を上げた。悔しくはなかった。これっぽっちも。


「もう! 絶対に最後はジェクトだよね!」

 

 サラの亜麻色の髪が風になびく。ライ麦畑のように、夕日に透けて金色に光っていた。


 

 次の日も、そのまた次の日も。


「捕まえた」とサラが言った。

「捕まった」と俺が言った。


 捕まった、とは少し違ったかもしれない。嘘といえば、嘘になるのかもしれない。

 サラの笑顔が見たい──それだけのことだった。


 ◆


 十五歳になる頃には、鬼ごっこなんてしなくなっていた。

 けれど俺たちは相変わらず、付かず離れずのままの幼馴染だった。壊れた屋根の修繕を一緒に手伝ったり、図書館に行ったり、市の日には同じ歩幅で歩いたり、特に約束もないのに気づけば隣にいた。

 何かがあるわけじゃない、でも何もないわけでもない。そういう距離が二年ほど続く。

 一緒に過ごす時間は、昔とは違う楽しさがあった。大人になった証拠かもしれない。ただ一つ違わないのは──サラの笑顔が見たい、ということだった。


 騎士の話が来たのは、十七歳。秋の終わりだった。

 父に呼ばれて、短く告げられた。家の事情、国への義理、決して断れない話。それは遠い土地への配属か、あるいは戦への招集か。

 帰れるかどうかは、わからない。帰って来られることのほうが稀だから準備をしておけと、父は真顔でそう言った。


 村を発つ前日の夕方、サラに会った。会いに行ったわけではない。気づいたら俺はライ麦畑のあぜ道にいて、気づいたらそこにサラもいた。


「出発、明日だよね」

「ああ」


 沈黙が流れた。

 何も言えなかった。明日のことも、帰れないかもしれないことも、それこら──ずっと言えなかったことも。全部、喉の手前で止まった。


 サラが一歩、こちらに歩み寄る。伸ばされた手が俺の腕に触れた。


「ジェクト、捕まえた」


 小さな声。あの頃みたいな、勝ち誇った声じゃなかった。

 俺もあの頃みたいに、両手を上げなかった。


「……行ってくる」

 

 それだけしか言えなかった。サラも何も言わずにいた。

 手が、ゆっくり離れる。彼女の温もりは、あっという間に乾いた空気に紛れていった。


 ライ麦はとっくに刈り取られていて、畑だけが茫漠(ぼうばく)と広がっている。通り抜けた風が、夕陽に染まった彼女の亜麻色の髪をさらっていった。


 ◆


 王宮に配属されてから、二年の月日が経とうとしている。

 俺は、二十三歳になっていた。

 

 村を出てからすぐ、騎士見習いだった三年間は地方を転々として過ごしていた。腰を落ち着ける間もなく、次から次へと任地に赴く日々。目まぐるしいとはこのことだと実感した。

 

 その後、一年は戦場にいた。

 たくさんの人々が傷つき、命が奪われていった。火薬と、灰煙(はいえん)と、血と、脂の焼けた匂い。どれもが、今でも鼻腔にこびりついている気がしてならない。

 だが、俺はあの死線から帰ってこれた。

 

 見習い期間の勤勉な態度、戦場での立ち振る舞いが功を奏したおかげか、二十一歳のとき王宮へと配属される。

 後に、王宮騎士になれるのはほんの一握りだと耳にした。帰ってこれただけで十分だと思っていたのに、それ以上のものまで手に入れてしまった気分だった。


 王宮騎士に配属されてすぐ、一度だけ村に帰った。両親は涙ながらに帰還と王宮への配属を喜んでくれた。

 サラは、村中のどこを見渡してもいなかった。壊れかかった屋根も、図書館も、市が開かれる広場も──どこにも。

 ライ麦だけが、変わらず実っていた。


 ◆


 ちらちらと雪が舞っていた、ある日の昼過ぎ。

 いつものように王宮の回廊を歩いていたときだった。


 ふと、視界の端に一人の女性が映る。

 上質そうなロングコートと皮の手袋をした──亜麻色の髪の女性。

 思わず足を止める。

 人違いだと思った。こんな場所にいるはずがない。


 だが、振り返ったその顔を見た瞬間。胸の奥がぎゅっと掴まれたように痛んだ。


 エメラルドの瞳。

 六年の歳月を越えても、見間違えるはずがない。


「……サラ」


 考えるよりも先に、彼女の名前が口からこぼれた。

 呼ばれた彼女がこちらを見る。一瞬、驚いたように目を見開き──あの頃の面影を感じさせる笑みを浮かべた。


「ジェクト」


 たったそれだけのやり取り。けれど、それだけで空白だった六年分の時間が一気に押し寄せてくるようだった。


 中庭に続く回廊の突き当たりに並んでいるベンチに並んで腰掛ける。中庭には薄く雪が積もり始めていた。


「久しぶり、だな」

「本当だね。まさか王宮騎士だったなんて、すごいじゃん」

「まあ、運がよかったっていうか。サラも元気そうだね」

「うん。まあ楽しくやってるよ」


 他愛のない話をした。昔のこと、村のこと。けれど互いの近況だけは、俺もサラも踏み込まない話だけを選んでいた気がした。

 ふと、わずかな沈黙が落ちる。

 サラが指先で手袋の縁をいじりながら、ぽつりと呟いた。


「戦に行ったって、風の噂で聞いてたの……」

「……ああ。まあ、少しだけな」


 少しだけ答えに詰まる。それ以上、詳しく話すつもりはなかった。話したところで、楽しい話になるわけでもない。生きて帰ってきたことを美談にするつもりもない。

 サラは黙ったまま、しばらく俯いて──ふっと顔を上げた。

 

「生きてて、よかった……」


 エメラルド色の瞳に、雪が溶け込んだような雫が滲んでいた。サラはすぐに瞬きをして、俺に見せないようにそれを消した。


「……うん。ありがとう」


 俺は、薄く笑ってみせた。

 それしか言えなかったのが情けなかった。六年分の言葉があったはずなのに。どれもが喉の奥に詰まってしまったようだった。

 深く息を吐き出す。胸の奥に溜まったものを、無理やり押し流すみたいに。


「昔、よく鬼ごっこしてただろ。だから逃げ足だけは鍛えられたのかもな」


 俺が笑うと、サラも笑った。ちらちらと降っていた雪が、少し強くなった。


「でも、ジェクトはよく私に捕まってたよね」

「サラの足が速いから」


 サラがまた笑う。今度のは、少し違う笑い方だった。何かを確かめるような、静かな輝きを宿した瞳で俺を見つめた。


「……ジェクト、わざと捕まってたよね」


 心臓が一拍ほど止まった。

 

「え……」

「ジェクトが鬼のとき、私のことちゃんと捕まえてたでしょ。私のこと捕まえられるのに私に捕まるなんて、普通に考えたらおかしいでしょ」

「……ばれてたか」


 俺は照れ笑いを含んだ苦笑を落とした。

 否定しようとしたけれど、できなかった。否定したくなかった、というほうが正しいかもしれない。避けようのないエメラルド色の瞳が、まっすぐに俺を見ていたのだから。

 俺の答えに、サラはやさしく目を細めながら「あはは」と笑った。

 

「やっぱり。ジェクトの演技、すっごく下手だったよ。でもまあ、それも含めて楽しかったんだけどね」


 あの頃のような、無邪気な笑顔。六年も離れていたはずなのに──この瞬間だけは、同じ時間の中にいたような気がしてしまった。


「なあ。鬼ごっこ、してみないか。昔みたいに」


 気づいたら、俺はそう口を開いていた。しまった、馬鹿なことを言った、とすぐに我に返る。サラは少し目を丸くした後、ふっと顔を(ほころ)ばせた。

 その表情に胸が温かくなったのも束の間。彼女は何か言いかけた言葉を飲み込むように息を詰め、小さく首を振った。

 

「……私、もうジェクトを捕まえられないよ」

「やってみなきゃわからないかもしれないだろ」


 冗談めかして言うと、彼女は先ほどよりも大きく首を振る。そして、左手で自身の腹部をそっと撫でた。


「あ、ごめん、なんか懐かしくなっちゃって。……体調悪かった?」

「違う……、違うの……。私はもう、ジェクトを捕まえちゃいけないの」


 サラは俯いたまま、左手の手袋をゆっくりと外していく。細く白い彼女の薬指には──銀色に煌めく、彼女の指にぴたりと合う輪がはめられていた。

 そしてもう一度、その手をお腹に当てた。さっきより、少しだけ強く。


 全部、わかった。

 

 今度こそ本当に、何も言えなかった。息だけがもれる。白く、広く。

 粒子のようにあふれた想いは、あの頃の思い出と一緒に冬の回廊に溶けていった。


 どちらからともなく歩き出す。来た回廊を戻るように、二人で並んで歩いた。何かを話した気はするが、もう覚えていない。

 正門まで来ると、サラの夫らしき男が待っていた。サラに気づいて、手を上げる。彼女も小さく手を振り返した。

 去り際、サラが振り返った。


「……元気でね、ジェクト」

「サラも……。幸せに」


 サラは夫の隣に並んで雪の中へと消えていく。

 俺はしばらく、真っ白に染まる世界を見つめていた。


 この日以来、彼女と会うことはなかった。


 ◆


 今年も変わらず、ライ麦はよく実っていた。

 窓の外に広がる黄金色の穂が、初夏の風に吹かれてさざなみのように揺れている。

 もう何十年も見てきた景色だ。それでも毎年、この季節になると決まって同じことを思う。

 彼女の髪も、こんな色だった、と。


 夕日に透けると金色に光った。風に揺れると穂と同じように流れた。

 だからかもしれない。

 ライ麦が実るたびに、あの亜麻色を思い出す。エメラルド色の瞳を思い出す。冬の回廊に溶けていった白い息──捕まえてもらえなかった日のことを、思い出す。


 あの日、サラが何を守ろうとしていたのか今なら痛いほどわかる。

 わかった上で、早く本当のことを伝えていれば。騎士になんてならなければ。あの日、出会わなければ──と、考えてしまう。


「おじいちゃーん!」


 廊下から声がした。孫の声だ。パタパタと軽快な足音が近づいてくる。

 俺は窓から目を離して、笑顔で声のするほうへ向かった。


 ライ麦が揺れていた。

 風が通り過ぎていった。


 遠い日の、淡い夢のような話だ。


お読みいただきありがとうございました。

タイトルにピンときた方、たぶん同士です。

ブクマや評価が励みになりますのでよろしくお願いします(っ´∀`)╮ =͟͟͞͞ ★★★★★


また何かの作品でお会いできたら幸いです、ありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
一言伝えていれば違っていたかもしれないのに・・・ 切ない話ですね。
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