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第4話 パンの温度

 蝋燭の芯が弾けた。宿の部屋に、獣脂の焦げた匂いが広がる。


 夜の王都は静かではない。酔客の笑い声、どこかで犬が吠える音、遠くの鍛冶場が夜通し鉄を叩く振動。辺境の夜とは別の生き物だった。


 机の上に、名簿を広げていた。


 学院の在籍者名簿ではない。私が三年間、悪役を演じる過程で記録し続けた「誰が誰と繋がっているか」のメモだ。辺境に持ち出したわけではない——王都のクロード家別邸に、鍵付きの引き出しごと残してあった。


 今日の夕刻、別邸に寄って回収した。管理人のオスカルは私の顔を見て固まっていたが、別邸の鍵は今も私の名義だ。追放令は、所有権を剥奪しない。


 名簿の三枚目に、印をつけた。


 セリーヌ・ヘイワード。男爵家の三女。学院の図書委員。カミラ・トラントのグループとは距離を置いている。レイアへの噂が広がった初期に、食堂でレイアの隣に座っていた数少ない人間のひとりだ。


 彼女なら、噂の流れを時系列で証言できる可能性がある。


 もう一人。


 ダリウス・クレイン。伯爵家の次男。殿下の側近ではないが、学院の風紀記録を扱う立場にいる。風紀記録には、生徒間のトラブルが公式に残る。カミラが書記室に圧力をかけたなら、風紀記録にも不自然な空白があるはずだ。


 問題は、この二人が協力してくれるかどうかだ。


 追放された悪役令嬢が、夜に訪ねてきて「証人になってくれ」と言う。断る理由のほうが多い。


 蝋燭の灯りが揺れた。窓の隙間から夜風が入り込んで、名簿の端をめくった。


 


 翌朝、宿を出る前に身支度を整えた。


 鏡を見た。辺境にいた一ヶ月で、頬が少し痩せていた。だが目の下に隈はない。昨夜は三時間しか眠れなかったが、顔には出さない。それくらいの制御は、十年間の演技で身についている。


 外套を羽織り、宿の階段を降りた。朝の王都は湿っていた。石畳に夜露が残り、パン焼き窯の煙が低く這っている。


 最初に向かったのは、ヘイワード男爵邸だ。


 男爵家は学院の南門から三区画の場所にある。小さな邸宅だが、手入れの行き届いた庭があった。門番に名を告げると、しばらく待たされた。


 出てきたのはセリーヌ本人だった。


 朝食の途中だったらしい。口元にパンの欠片がついている。私を見て——一瞬、目を見開いた。それから、パンの欠片を慌てて拭った。


「クロード嬢……? どうして王都に」


「手短に済ませます。レイア・ドーンの件で、あなたに聞きたいことがあります」


 セリーヌの表情が変わった。警戒ではない。もっと複雑な、何かを量るような目をしている。


「……中へ、どうぞ」


 


 応接間の椅子は硬かった。茶も出なかった。歓迎されていないことは明らかだ。


「単刀直入に言います。レイア・ドーンに対する噂の発生源について、あなたが知っていることを証言してほしい」


「……それは、監査請求に関わる話ですか」


「はい」


 セリーヌが視線を落とした。テーブルの木目を指でなぞる。


「クロード嬢。あなたが追放された後、学院では——あなたの名前を口にすることすら危険になりました」


 指が止まった。


「カミラ・トラントは、クロード派の残党を炙り出すと公言しています。私があなたに協力すれば、次は私が標的になる」


「分かっています」


「分かっていて、頼みに来たのですか」


「はい」


 壁の時計が秒を刻む。その音だけが、しばらく部屋を埋めていた。


「——なぜ、あなたがそこまでするんですか」


 セリーヌが顔を上げた。


「あなたは追放された身です。レイア・ドーンを助ける義理はない。それに——失礼ですが、あなたは在学中、誰とも親しくしていなかった。冷たい方だと思っていました」


 言葉が胸に刺さったかどうか、確認する暇はなかった。


「ヘイワード嬢。あなたはレイアが孤立した食堂で、隣に座り続けていましたね」


「……それは」


「義理がなくても、隣に座る人間はいる。私はそういう人間に頼みに来ました」


 セリーヌが息を吸った。吐いた。もう一度吸った。


「……証言の範囲を、先に聞かせてください」


 交渉の余地がある。私は名簿から該当の頁を抜き、テーブルに置いた。


 


 ヘイワード邸を出たのは昼前だった。


 セリーヌは即答しなかった。だが、拒否もしなかった。「明日の朝までに返事をする」という言葉を残して、私を門まで送った。


 次はダリウス・クレインだが、彼は学院の中にいる。学院に立ち入れない私が直接会うのは難しい。


 足が止まった。


 路地の角に、レイアが立っていた。


 昨日と同じ場所。授業前の時間だ。制服姿で、手に紙の束を抱えていた。監査請求書の草案だろう。


「エヴァリン様」


「待っていたのですか」


「はい」


 当然のように言った。この子は昔からそうだ。会いたいから会いに来る。計算がない。


「草案を見せてください」


 レイアが差し出した紙束を受け取った。三枚。彼女なりに礼法書の書式に従って書いている。文面は丁寧だが、法的な要件が二箇所抜けていた。


「ここと、ここ。申告者の資格証明と、被害の具体的日時の列挙が必要です。日時は覚えていますか」


「……全部は」


「覚えている分だけでいい。五件以上あれば、組織的な行為として認定される基準を超えます」


 レイアが頷いた。それから、少し迷うように口を開いた。


「エヴァリン様。昨夜、眠れましたか」


 質問の意図が分からなかった。監査請求の話をしている最中に、なぜ睡眠の話になるのか。


「……三時間ほど」


 正直に答えてから、しまったと思った。答える必要のない質問だった。


「やっぱり」


 レイアが私の顔を覗き込んだ。近い。


「目の下、少しだけ色が違います」


 隈は出ていないと判断したはずだった。鏡で確認した。なのに、この子には見えている。


「……大したことではありません」


「大したことです」


 レイアの声に、力が入った。普段の柔らかい声と違う。


「エヴァリン様はいつも、自分のことを後回しにします。辺境にいたときも、きっとそうだったんだと思います」


 反論しようとした。口が開かなかった。


 代わりに、レイアが紙袋を差し出した。中身は——焼きたてのパンだった。まだ温かい。パン焼き窯の香りが指先に触れた。


「朝、買ってきました。エヴァリン様の分です」


 受け取った。


 手のひらに伝わる温度が、妙に重かった。


「……ありがとう」


 声が震えていないことを、確認した。


 


 レイアが学院に向かった後、私は宿に戻って草案の修正に取りかかった。


 法的要件を補い、証人欄にセリーヌの名前を仮で入れた。ダリウスの件は、別の手を考える必要がある。


 ペンを走らせながら、頭の片隅で別のことを考えていた。


 パンの温かさ。レイアの声の力。「自分のことを後回しにする」という指摘。


 違う、と思った。後回しにしているのではない。優先順位の問題だ。レイアの監査請求が通ることが最重要で、私の睡眠時間は変数に含まれない。


 そう結論を出したはずなのに、机の端に置いたパンに何度も目が行った。


 半分だけ、食べた。


 残りは——後で食べようと思った。理由は特にない。


 


 夕刻、宿の窓から通りを見下ろしていたとき、見覚えのある馬車が停まった。


 紋章はない。だが、馬具の装飾に侯爵家特有の銀細工が施されている。カミラ・トラント家の馬車だ。


 馬車から降りたのは従者だった。従者は通りを見回し、宿の看板を確認してから——手帳に何かを書き込んだ。


 私の所在を調べている。


 昨日のアリスとの接触が、カミラに報告されたのだろう。予想より早い。


 従者が去った後、私は窓から離れた。


 名簿を閉じ、別の場所に隠した。宿を変える必要があるかもしれない。


 だが——問題はそこではなかった。


 カミラが動いたということは、監査請求が彼女にとって脅威だということだ。脅威でなければ、追放された元令嬢の居場所など調べる理由がない。


 つまり、方向は正しい。


 ペンを取り、修正した草案の最終確認に入った。提出は明日。セリーヌの返事も明日。


 蝋燭が短くなっていた。芯を替えた。辺境の夜と同じ動作だ。だが今は、手を動かしている理由が違う。


 辺境では、時間を埋めるために芯を替えていた。


 今は、時間が足りないから替えている。


 窓の外で、王都の夜が深まっていく。どこかで鐘が鳴った。


 明日、すべてが動く。セリーヌの答え。監査請求の提出。そして——カミラ・トラントが、次にどう出るか。


 パンの残り半分に手を伸ばした。冷めていたが、小麦の甘さがまだ残っていた。


 ——計算では、こういう味に意味はない。


 でも覚えておこうと思った。誰かが朝一番に買ってきてくれたパンの味を。

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