第2話 六通の手紙と、辺境の薔薇
辺境の朝は静かだ。
鳥の声と、風が窓を揺らす音。それだけが、朝を知らせてくれる。
王都にいた頃は、目覚めた瞬間から計算が始まっていた。今日の予定、誰と会い、何を演じ、どこで悪役らしく振る舞うか。頭の中が常に回り続けていた。
今は——何もない。
起きて、朝食を取り、庭に出て、本を読む。使用人のマーサが花を活け、もう一人のトマスが薪を割る。私はそれを眺めている。
穏やかだった。穏やかすぎて、落ち着かなかった。
庭の端にある薔薇は、前の領主が植えたものだとマーサが言った。手入れする者がいなくなって、枝が好き勝手に伸びていた。
ある朝、気がつくと私は剪定鋏を手にしていた。
枝を整え、枯れた蕾を落とし、支柱を立て直した。半日かけて、薔薇はようやく形になった。誰に見せるためでもない。ただ、伸び放題のものが目についただけだ。
マーサが「お嬢様にそんなご趣味が」と言った。趣味じゃない。計算が止まった頭に、何かを与えているだけだ。
---
レイア・ドーンからの手紙は、週に一通のペースで届いた。
二通目。「辺境は寒いですか。王都は暖かくなってきました」
三通目。「図書館で、エヴァリン様に教えていただいた本を読みました」
四通目。「殿下が、少し元気がないように見えます」
五通目。「また書きます。返事はいりません。でも、読んでくれていたら嬉しいです」
全部読んだ。全部、机の引き出しにしまった。
返事は書かなかった。
書けなかった、が正確だ。何を書けばいいのか分からなかった。「あなたに優しくしたのは計算ではなかった」と認めることは、十年間の設計を自分で壊すことと同じだった。
だから、読むだけにした。
---
追放から一ヶ月が経った。
六通目の手紙が届いた日の午後、馬車の音が聞こえた。
辺境に馬車が来ることは珍しい。マーサが窓から覗いて、顔色を変えた。
「——お嬢様。王家の紋章です」
私は本を閉じた。
心当たりは、ひとつしかなかった。
---
応接間に通したのは、ヴァルト・アドラー殿下だった。
護衛は外に待たせ、一人で入ってきた。金の髪に深緑の瞳。ゲームのヒーロー。私が十年間、婚約者を演じた相手。
「エヴァリン嬢」
「殿下。わざわざ辺境までお越しとは、お暇なのですね」
軽口が出た。自分でも意外だった。王都では絶対に言わなかった類の言葉だ。
殿下は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「こちらの方が、あなたらしい」
「……お褒めの言葉として受け取っておきます」
茶を出した。殿下は一口飲んで、すぐに本題に入った。
「ドーン嬢のことで、来ました」
手が、カップの上で止まった。
「……彼女が、どうかしましたか」
「学院で孤立しています」
---
殿下の話は、こうだった。
私が追放された後、学院の空気が変わった。
婚約解消の場で、レイア・ドーンが泣いたことは、多くの生徒が見ていた。あの涙の意味を、生徒たちは二つに解釈した。一つは同情。もう一つは——共犯。
エヴァリン・クロードと親しかった平民が、実は悪役の協力者だったのではないか。
根拠のない噂だ。だが、根拠のない噂ほど広がるのが、貴族社会だ。
「彼女は何も悪くありません」
「知っています」殿下は言った。「だが、噂を止められていない。私が庇えば、それは『殿下がドーン嬢を寵愛している』という別の噂になる。それは彼女の立場をさらに悪くする」
構造は分かった。
ゲームでは、私が追放された後、ヒロインと殿下は自然に結ばれるはずだった。だが現実は台本通りに進まない。私が退場したことで、物語の構造に歪みが生じている。
「殿下。それは私に何を求めているのですか」
「分かりません」
意外な答えだった。
「分からない?」
「あなたなら、何か方法を知っているかと思いました」
殿下は真っ直ぐに私を見た。あの日——断罪の場で見せた、説明のつかない表情と同じ目だった。
「……あなたは最初から、全部計算していた。ドーン嬢を助けたことも。自分が追放されることも。だが——計算の外側で、あなたは彼女を気にかけていた」
私は答えなかった。
殿下は窓の外を見た。庭の薔薇が、午後の光の中で揺れていた。
「断罪の日、あなたが礼をしたとき——私は、自分が間違ったことをしていると思いました」
「間違ってはいません。あれが正しい結末です」
「誰にとっての正しさですか」
私は言葉に詰まった。それは——ここ一ヶ月、私自身が考え続けていた問いだった。
「エヴァリン嬢。あなたは本当に、このまま辺境にいるつもりですか」
---
殿下が帰った後、私は机の前に座った。
引き出しを開けた。五通の手紙が、きれいに並んでいた。
六通目を、まだ開けていなかった。
開けた。
「エヴァリン様。最近、少し辛いことがありました。でも大丈夫です。エヴァリン様が教えてくださった礼法書のおかげで、正式な抗議の手続きが分かりました。自分でなんとかしてみます。——レイア」
手紙を持つ指に、力が入った。
自分でなんとかする、と彼女は書いている。平民の奨学生が、貴族の噂に一人で立ち向かおうとしている。私が教えた礼法書の知識だけで。
計算が回り始めた。
——違う。
計算じゃない。
感情だ。
胸の奥が締まる、この感覚。彼女が困っているのを知って、ここにいることが耐えられない、この感覚。
十年間、計算で蓋をしてきたものが、六通の手紙で壊れた。
---
翌朝、私はマーサに旅支度を命じた。
「お嬢様、どちらへ?」
「王都です」
「——追放の身で、王都に戻られるのですか」
「追放令は王家の管轄です。学院への立ち入りは禁止されていますが、王都への入城は制限されていません。条文は確認済みです」
マーサが目を丸くした。
「それは……いつ確認されたのですか」
「三週間前に」
追放されてすぐだ。自分でも笑えた。辺境で穏やかに暮らすつもりだったのに、追放令の抜け穴を初日から探していた。
計算の外で、私はずっと——戻る準備をしていた。
---
馬車に乗る前に、便箋を一枚取り出した。
初めて、返事を書いた。
「レイアへ。一人でなんとかしなくていい。——エヴァリン」
短すぎるかもしれない。でも、これが私に書ける精一杯だった。
便箋を封筒に入れて、トマスに託した。
「これを、王都のレイア・ドーン宛に」
「承知しました」
馬車が動き出した。辺境の景色が後ろに流れていく。
計算は一秒で終わったはずだった。十年間、全員が助かる選択をしてきたはずだった。
でも今、私が動く理由は計算じゃない。
あの子が、困っている。
それだけで十分だった。




