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第1話 計算は、一秒で終わった

計算は、一秒で終わった。


 七歳の誕生日、王宮の廊下。第一王子と目が合った瞬間、頭の中で展開が走った。


 ヴァルト・アドラー殿下。金の髪と深緑の瞳。前世で何周もプレイした乙女ゲーム『空色の誓い』のメインヒーロー。このルートでは、悪役令嬢が彼の婚約者として登場し、ヒロインを虐め、最終的に処刑エンドを迎える。


 処刑エンドを迎えるのは、私だ。


 私が破滅すれば、ヒロインと殿下が結ばれる。台本通りの悪役を誰かが担わなければ、この物語の構造が崩れ、他の攻略キャラの幸福も保証されない。そして私は既に「悪役令嬢エヴァリン・クロード」として転生している。


 役割は、決まっている。


「エヴァリン嬢、ご機嫌よう」


 殿下が声をかけてきた。前世の記憶があれば、この笑顔が社交辞令だと分かる。まだ彼は私に何の感情も持っていない。これが最初の接触。好感度ゼロの初期状態だ。


 私は深く礼をした。


「ヴァルト殿下、お目にかかれて光栄にございます」


 丁寧に。感情を乗せず。これが最初の演技だった。


---


 七歳から十七歳まで、私は悪役を演じ続けた。


 方針は単純だ。この物語通りに動くこと。ヒロインが現れたとき、適切に意地悪をすること。断罪イベントで粛々と破滅を受け入れること。


 感情移入しなければ、役割を全うできる。


 十歳のとき、お茶会でヒロイン候補の令嬢に冷たくした。

 十二歳のとき、殿下の前でわざとプライドの高い振る舞いをした。

 十四歳のとき、使用人に高圧的な態度を取るシーンを演じた。


 全部、計算だ。本気の感情じゃない。台本には伏線と回収がある。悪役の振る舞いもその伏線のひとつで、後の断罪を成立させるために必要な布石だ。


 問題があるとすれば——それが思ったより、しんどかったことだ。


---


 十六歳の春、王立学院に入学した。


 これがゲームの本番だ。ヒロインとなる平民出身の奨学生が入学し、各攻略キャラと関係を深め、最終年に断罪が起きる。


 そして、ヒロインが現れた。


 レイア・ドーン。平民出身、奨学生、茶色い髪に大きな目。ゲームの設定通りだった。入学式で彼女が転んだとき、殿下が手を差し伸べた。ゲームの第一フラグ。


 私は廊下からそれを見ていた。


 物語が動き始めた。それだけを思った。感情は、なかった。


---


「エヴァリン様」


 入学から二週間後、廊下でレイア・ドーンが声をかけてきた。


 警戒した。この時期、ヒロインから直接接触されるはずではなかった。


「なんの用ですか」


 彼女はまっすぐに私を見ていた。怯えではなく、真剣な目だった。


「あなたは、私に意地悪をするつもりですか」


 直球だった。


 私は一拍だけ考えた。台本通りなら「はい」と答えるべきかもしれない。だが、あまりに正面からの問いに、思わず素の反応が出た。


「……何故そう思うのですか」


「先生方が、エヴァリン様が私を意地悪するかもしれないと言っていたので」


 思わず眉が動いた。先生が生徒にそんなことを言うのか。いや、それよりも——この子は意地悪をされると知っていて、私に直接確認しに来たのか。


 なんて、変な子だ。


「……今は、その予定はありません」


 口から出たのは、台本と関係のない言葉だった。


 レイア・ドーンは少しだけ笑った。それから「ありがとうございます」と言って、廊下を歩いていった。


 私はしばらく、その後ろ姿を見ていた。


---


 それから、彼女は時々私に声をかけてきた。


 台本の外のタイミングで。廊下で、食堂で。


 そして、図書館でのことだった。


 王立学院の図書館は、平民の奨学生には少々難解な書物が多い。礼法書、家系史、貴族の慣習録。レイア・ドーンが一冊の厚い礼法書の前で止まっているのを、私は本棚の陰から見かけた。


 彼女は索引を繰っていた。探しているものが見つからないのか、眉根を少し寄せている。


 通り過ぎようとした。


「……その項目なら、第三章の後半にあります」


 声が出ていた。


 レイア・ドーンが顔を上げた。驚いた顔で私を見た。


「え——」


「貴族の婚礼手続きなら第三章。相続順位の確認なら第五章の最初の節。どちらですか」


 彼女は少し間を置いて、「婚礼の、ほうです」と答えた。


「では、二百十七ページを開いてください。索引は古い版の番号なので、現在版とずれています」


 それだけ言って、私は本棚を回って別の方向へ歩いた。


 後ろから「ありがとうございます」という声が聞こえた。


 素直な声だった。お礼を言うことに、何の打算もない声だった。


 私は立ち止まらずに歩き続けた。胸の奥で何かが動いた気がしたが、気のせいだと判断した。


---


 他愛のない言葉が続いた。


「エヴァリン様は、この本を読みましたか」

「エヴァリン様は魔法の授業が得意なんですね」

「今日のお菓子、おいしかったですね」


 悪意も計算もない。ただ話しかけたいから話しかける、そういう種類の会話だった。


 私は毎回、短く答えた。できるだけ感情を乗せないように。これは展開の外だが、だからといって今意地悪をするタイミングでもない。そう判断して、淡々と返答を続けた。


 問題は、気がつけば彼女と話す時間を、それほど不快に思っていない自分がいたことだ。


 いや、正確に言えば——嫌いでは、なかった。


 彼女は面白かった。平民出身らしい素朴さで、貴族の常識に驚いたり、疑問を持ったり、素直に喜んだり。感情のまま動く人間だった。私が十年間封じてきたものを、彼女は当たり前に持っていた。


 そこが、邪魔だった。


---


 問題が起きたのは、入学から半年が経ったころだった。


 廊下で、レイア・ドーンが泣いていた。


 壁に背をもたせかけ、声を殺して。両手で口を覆い、肩が震えていた。


 私は通り過ぎようとした。展開と関係ない。関わる理由がない。


 足が、止まった。


「……何がありましたか」


 声が出ていた。


 彼女は顔を上げた。私を見て、驚いた顔をした。それから、また泣いた。今度は声を出して。


「家族が、病気で……でも、学費を……お金が……」


 言葉が途切れ途切れに出てきた。


 私は状況を把握した。奨学生が家族の病気と学費の板挟みになっている。ゲームには、こんな設定はなかった。


 関係ない。私には関係ない。


 そう思いながら、口が動いていた。


「クロード家の医師に、診させましょうか」


 彼女が顔を上げた。私も、自分の言葉に驚いていた。


「……よろしいのですか」


「無償ではありません。相応の対価を請求します」


 嘘だった。そんな対価を求めるつもりはなかった。


「……ありがとう、ございます」


 彼女がまた泣いた。今度は別の種類の泣き方だった。


 私は視線をそらした。胸の奥で、何かが動いていた。感情ではない。……たぶん。


---


 それから数ヶ月の間に、私はいくつかの台本外の行動をした。


 全部、理由をつけていた。


 クロード家の権益のため。情報収集のため。後の計画を円滑に進めるため。


 全部、嘘だった。


 本当のことを言えば——彼女が困っているところを見るのが、嫌だった。それだけだ。


 その感情がどこから来るのかは、考えないようにしていた。


---


 十七歳の秋。断罪イベントの一ヶ月前。


 私はすべての準備を整えていた。


 これまでの悪役らしい言動の記録。断罪の場で証拠として提示されれば、私は追放される。これが物語通りの結末だ。問題ない。そのはずだった。


 殿下が廊下で話しかけてきたとき、確信が少し揺れた。


「エヴァリン嬢」


 いつもと違う声色だった。社交辞令ではない。


「……あなたは、ドーン嬢の家族に医師を派遣しましたか」


 把握されていた。


 私は表情を動かさないようにした。


「クロード家の権益の観点から、適切な対応をしたまでです」


「嘘ですね」


 殿下は静かに言った。


「……根拠はありますか」


「あなたがクロード家の権益のためだけに動くなら、ドーン嬢の家族を助ける理由がない。彼女は平民の奨学生で、クロード家にとって何の利もない相手だ」


 私は答えなかった。


「それに——図書館の件も聞きました。あなたが彼女に礼法書の場所を教えたと」


「……それだけのことです」


「エヴァリン嬢。あなたは——」


 殿下が何かを言いかけた。声が、普段と違っていた。苛立ちでも、命令でもない。もっと別の、慎重に言葉を選んでいるような——


 その瞬間、私は話を切り上げた。


「失礼します、殿下。これ以上のお話は不要です」


 背を向けて歩いた。


 歩きながら、胸の奥で何かがきつく収縮した。


 これは痛みではない。ただの、計算の誤差だ。


---


 断罪イベントは、予定通り起きた。


 学院の大広間。生徒たちが居並ぶ中で、殿下が罪状を読み上げた。レイア・ドーンへの嫌がらせ、使用人への高圧的な態度、権力の乱用。証拠が示された。


 全部、私がやったことだ。目的があってやったことだ。反論しない。


「エヴァリン・クロード。あなたとの婚約を解消します」


 殿下の言葉が広間に響いた。


 私は深く礼をした。


「謹んでお受けします」


 声は揺れなかった。


 顔を上げたとき、殿下が私を見ていた。複雑な表情だった。怒りでも軽蔑でもない。もっと別の、説明のつかない顔だった。


 私はそこから視線をそらした。


 横に立っていたレイア・ドーンが、私を見ていた。


 泣いていた。


 それが、予想外だった。


 彼女がここで泣く理由が、この物語にはない。婚約解消で殿下との未来が開けたなら、喜ぶはずだ。なのに彼女は、両目から涙をこぼしながら、私を見ていた。


「……エヴァリン様」


 彼女が呼んだ。


 私は答えなかった。答えるべき言葉が、なかった。


---


 クロード邸への帰路、馬車の中で私は窓の外を見ていた。


 計算通りだ、と思った。物語通りだ。婚約は解消された。全員が幸せになる準備が整った。


 問題はない。


 問題はない、はずだった。


 視界が滲んだ。


 なぜだ、と思った。泣く理由がない。計画通りなのに。全部、最初から決めていたのに。


 でも——


 レイア・ドーンの顔が浮かんだ。半年間、他愛もない話をしていた彼女の声が。殿下の、説明のつかない表情が。図書館で彼女が「ありがとうございます」と言ったときの、素直な声が。


 私は手の甲で目を押さえた。


 ——なぜ、泣いているんだ。


 馬車の中で、私は一人そう思った。


 お前は悪役のはずだろう。計算は一秒で終わったはずだろう。全員が助かる選択をしたはずだろう。


 涙が、止まらなかった。


---


 追放地として指定されたのは、辺境の領地だった。


 王都から馬車で三日。森と畑が続く静かな土地。クロード家の別荘が一棟だけある、ひっそりとした場所。


 使用人は二人だけついてきた。あとは静寂だった。


 これでよかった、と思った。


 全員が助かる。ヒロインと殿下は結ばれる。他の攻略キャラも、それぞれのエンディングへ向かう。誰も傷つかない。私以外は。


 それでいい。


 そのつもりだった。


 一週間後、手紙が届いた。


 差出人の名前を見て、手が止まった。


 レイア・ドーン。


 開けるか、三秒だけ迷った。


 開けた。


 便箋一枚に、丁寧な文字で書いてあった。


「エヴァリン様。あなたが私に優しくしてくださったことを、私は知っています。本当のことも、全部は分かりません。でも、あなたが全部悪いとは思えない。元気でいてください。——レイア」


 私は手紙を、畳んだ。


 机の上に置いた。


 それから——


 また、泣いた。


 今度はもっと長く。止める方法を知らないまま。


---


 翌朝、鏡の前で自分の顔を見た。


 泣きすぎて目が腫れていた。悪役令嬢らしくない、情けない顔だった。


 でも、不思議と——胸の中がすこしだけ、軽かった。


 計算は一秒で終わったはずだった。私が破滅することで全員が助かると、理屈では今でも思っている。


 ただ、あの手紙が届いた今、一つだけ分からないことがある。


 全員というのは、本当に全員だったのか。


 私は辺境の窓から、雪のない空を見上げた。


 この先どうすべきかはまだ分からない。ただ、計算を信じて十年間捨ててきたものが、ここに来てようやく戻ってきた気がした。


 感情は、厄介だ。


 でも——まだ、終わっていないのかもしれない。

投稿日:2026年3月5日

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