**第9話 メイド様、戦う (そして“ご主人様”が選ばれる)**
境界が、悲鳴を上げていた。
空間の裂け目から滲み出すのは、
光でも闇でもない、“欠落”。
存在してはいけないもの。
世界の帳簿から、消され損ねた影。
『――管理官』
声がした。
複数。
方向を持たない、重なった声。
『規定外の観測者を連れている』
『処理を要求する』
エルシア――いや、
境界管理官は、一歩前に出た。
「拒否します」
静かな声だった。
だが、境界そのものが揺れた。
「彼は、私の管轄下にあります」
『権限外』
『観測者は、選定されていない』
次の瞬間。
裂け目から、
“それ”が現れた。
人の形に似ている。
だが、輪郭が定まらない。
影が遅れ、
存在が“ズレて”いる。
「……あれが?」
「ええ」
エルシアは、息を吸った。
「境界喰らい(ボーダー・イーター)。
世界の隙間に生まれ、
観測者を核に成長します」
「つまり――」
「あなたを、狙っています」
冗談みたいな状況だが、
“それ”は、確実にこちらを見ていた。
『観測者、確保』
空間が、歪む。
エルシアの背後に、
影の翼がはっきりと展開した。
「下がってください」
「嫌だ」
即答だった。
「一緒に来るって、決めただろ」
一瞬、彼女の動きが止まる。
「……本当に、厄介な人ですね」
それでも――
彼女は、わずかに微笑んだ。
「では……
守りながら戦います」
指先が、境界に触れる。
次の瞬間、
世界が“固定”された。
「――境界権限、限定解放」
空間に、光の線が走る。
それは、剣の形を成した。
銀色の刃。
だが、金属ではない。
“記録”そのものを切断する剣。
エルシアが、踏み込む。
速い。
音が追いつかない。
一閃。
境界喰らいの腕が、
存在ごと削れ落ちた。
『――損傷』
だが、再生する。
影が、俺に伸びる。
「っ!」
次の瞬間――
俺の胸が、熱を帯びた。
銀色の髪が、
ポケットの中で、強く光る。
『――反応確認』
頭に、別の声が響いた。
『観測者適性――基準値超過』
『代替案を提示』
『――選定を開始する』
「……何だ?」
エルシアが、はっと振り向く。
「まさか……!」
影が、俺を包もうとした瞬間。
――世界が、止まった。
時間が、
“俺を中心に”静止する。
『観測者』
声は、はっきりと単独だった。
『境界に干渉し、
なお存在を保持した個体』
『あなたを――
“定点観測者”として選定する』
「……何それ」
『境界を繋ぎ、
崩壊を防ぐ“錨”』
『管理官単独では不可能な役割』
エルシアが、俺を見る。
その表情は――
驚きと、安堵が混じっていた。
「……だから……
あなたの記憶は、消えなかった」
時間が、再び動き出す。
境界喰らいが、
悲鳴のようなノイズを発した。
エルシアが、最後の一撃を放つ。
「――記録断絶」
刃が、核を貫いた。
影が、霧のように崩れる。
静寂。
境界は、安定した。
俺は、膝をつく。
「……選ばれた、ってことか」
エルシアが、そっと手を差し伸べる。
「ええ」
そして、少しだけ――
昔の“メイド様”みたいに、言った。
「ですから、これからも」
「これからも?」
「ご主人様、です」
「……立場、逆転してない?」
「してませんっ!」
きっぱり。
だが、その声は、少し震えていた。
境界の中心に立つ存在。
それは――
俺だった。




