**第8話 メイド様、名を捨てる (そして本当の役割が明かされる)**
境界の向こう側の空は、常に揺れていた。
雲のようで、雲ではない。
まるで“世界そのもの”が、呼吸しているかのように。
「……ここが、私の世界です」
エルシアは、そう言って振り返った。
「正確には――
“かつて、私が属していた世界”ですが」
「かつて?」
俺の問いに、彼女は少しだけ黙った。
そして――
胸元に手を当て、静かに言う。
「ここから先は……
“エルシア”としてでは、話せません」
次の瞬間。
銀髪が、風に溶けるように揺れた。
いや――違う。
ほどけている。
一本、また一本と、
銀色の髪が光の粒子となって宙に散っていく。
「……おい」
止めようと伸ばした手を、
彼女はそっと制した。
「大丈夫です。
これは……“名を返す”だけ」
足元に、巨大な魔法陣が浮かび上がる。
文字は読めない。
だが、意味だけは――なぜか、理解できた。
《記録解除》
《役割再定義》
「エルシア=フォン=リヴィア。
それは、この世界であなたに仕えるために与えられた“仮の名”」
光が、彼女を包む。
「私の本当の役割は――」
魔法陣が、完成した。
「――境界管理官」
空気が、凍る。
「世界と世界の“重なり”を監視し、
異物を回収し、
必要であれば――消去する存在です」
俺は、息を呑んだ。
「じゃあ……
俺の世界に来たのも……」
「本来は、事故でした」
彼女は、はっきりと言った。
「ですが……
あなたと関わったことで、
“観測不能な変数”が発生しました」
光が、収束する。
そこに立っていたのは――
確かに、彼女だった。
だがもう、
“メイド様”ではない。
装いは簡素。
瞳は、以前よりも深い碧。
そして――
背後に、影のような“翼”が揺れている。
「……それでも」
彼女は、俺を見る。
「私は、あなたを消しません」
「使命より、俺を選ぶってこと?」
「……いいえ」
一歩、近づいてきた。
「使命の中に、あなたを組み込みました」
「さらっと怖いこと言うな」
ほんの一瞬、
彼女の口元が、昔みたいに緩んだ。
「あなたはもう、“一般人”ではありません」
「予想はしてた」
「これから、
あなたは“境界事象”に巻き込まれ続けます」
「……だろうな」
「それでも――」
彼女は、静かに頭を下げた。
「そばにいてください」
それは、命令でも、契約でもない。
ただの――
願いだった。
「……分かったよ」
そう答えた瞬間。
遠くで、
空間が裂ける音がした。
『――管理官権限、異常検知』
『未登録観測者、干渉中』
彼女が、前に出る。
「来ました……
“私が管理するべき存在”が」
振り返らずに、言った。
「ですが……今は」
「うん」
「私は、あなたの“メイド様”です」
ツン、と顔をそむける。
懐かしい仕草だった。
「べ、別に……
戻りたいって言ったわけじゃありませんからね」
「はいはい」
だが、その背中は――
もう、守る者のものだった。




