夢水
同じ夢
会社の後輩が、妙なことを言い出したのは、金曜の昼休みだった。
「最近、水飲むたびに……変な夢、見るんですよ」
からかうつもりで聞き返した。「どんな夢?」
彼は紙コップの水を見下ろして、ぽつりと呟いた。
「見たことのない海辺の町にいるんです。そこで、誰かに……“この水を捨ててはいけない”って言われるんです」
笑い話のつもりだった。でも、数日後、別の同僚がまったく同じ話をした。
「海の町で、誰かに言われる。“この水を捨ててはいけない”って。……変ですよね?」
私は笑えなくなった。
*
現象は社内にとどまらなかった。
SNSでは、「水を飲んだら同じ夢を見る」という投稿が連鎖的に増えていた。
共通する要素は以下のとおり:
夢の舞台は、見たことのない海辺の町。
知らない誰かに、“この水を捨ててはいけない”と囁かれる。
起きた後、口の中に水の味が残る。
夢の詳細はそれぞれ微妙に異なるが、町の描写には不思議な一致が多かった。
海の色が濁っている。風がほとんど吹かない。通りにいる人々の顔が、どれもぼやけている――。
「ウイルスか何かでは」と報道が出始めたのは、それからさらに数日後だった。
だが、感染経路も原因物質も一切特定されず、あくまで「集団心理的な錯覚」として扱われた。
だが私には、もう偶然とは思えなかった。
というのも――私も夢を見始めていたのだ。
*
最初のうちは、夢だと分かっていた。
ただ、その町は妙に懐かしかった。路地の角の自販機の配置、塩の匂い、家々の古びた木戸。
歩いていると、誰かが私の名前を呼ぶ。けれど声の主を見ようとすると、町全体がぐにゃりと歪む。
「水を捨てないでね」
女の声だった。年齢は分からない。ただ、どこか懐かしい声だった。
目を覚ますと、喉が渇いていた。水を飲むと、眠気がぶり返し、また同じ夢へと引き戻される。
そう、夢は“続く”のだ。
町の奥にある坂道を登った先に、小さな神社があること。
その裏手に、丸い古井戸があること。
井戸の水は、夢の中でも飲める――むしろ、夢の中のほうが鮮明に味を感じるのだ。
*
ある夜、夢の中で私は自分を見た。
神社の階段の下に立つ、もう一人の私。
水を手に持ち、井戸の前に立っている。
もう一人の私が、こちらに気づき、にやりと笑った。
「もうすぐ、交代だよ」
目を覚ました時、口の中に強烈な潮の味が残っていた。
いや、潮だけじゃない――生臭い、井戸水の味だった。
*
それから、急に夢の回数が減った。
不思議に思っていたが、ある日ふと気づいた。
私は、水を飲んでいなかった。
意識して避けていたのではない。なぜか、喉の渇きを感じなくなったのだ。
それどころか、夢の中で水を飲むたび、現実でも渇きが癒されているような感覚すらあった。
そして、ある晩――夢から帰って来られなくなった。
*
海辺の町の路地裏。
私はずっとそこにいる。
空は鉛色で、波の音が遠くに響いている。
もう何日も、夢から目覚めていない。もしくは、目覚めていないのは現実のほうかもしれない。
井戸のそばに立つと、向こうから人影が現れる。
最初は見知らぬ顔だったが、最近は知っている人が増えてきた。
後輩。
同僚。
上司。
みな、私に向かってこう言う。
「ようこそ。交代の時間だ」
*
現実の私は――おそらく今、どこかで“誰か”になって生きているのだろう。
夢を見ていない人間として。
交代した存在として。
水を飲んで、夢を見て、また交代が起きる。
私の中の“誰か”が、今もこの町に引き入れようとしている。
「この水を捨ててはいけない」
それは願いでも命令でもない。
ただの事実だ。
この水を飲んだ者は、いずれここへ来る。
夢の町へ。
あるいは、夢そのものになる。
最初にそれを“調査”しようとしたのは、夢の中で町の住人が話していた一言がきっかけだった。
「この町はね、上から流れてきたんだよ」
上? 海辺の町なのに、何かが“上”から流れてくる? 意味が分からなかった。
だが、夢の中で私は、町の外れにある石段を上る決意をした。
かつて神社があったとされる丘――夢の中で、どうしてもそこだけは誰も近づこうとしなかった場所。
石段を踏みしめるごとに、空気が冷えていく。
塩の匂いが消え、代わりに、濃密な湿り気と鉄のような匂いが鼻を刺す。
そして、その丘の頂に、私はそれを見つけた。
巨大な“門”だった。
鳥居のような形をしているが、材質は黒く濡れており、何かの骨のようにも見える。
門の向こうは深い闇。いや、水だ。真っ黒な、流動する水の膜が、ぬるりと門を塞いでいる。
私は知っていた。
この向こうが、「水の出処」だと。
*
夢の中で私は、門の前に立ち尽くした。
すると、またあの声がした。
「見たいの? 源を」
振り向くと、町の女がいた。
顔は判然としない。だが、彼女の体は半ば透明で、髪が水の中のようにゆらゆらと揺れていた。
「この町は、もともと水の中にあったのよ。記憶の、もっと深いところに」
「記憶?」
「人間が忘れたもの全部。夢にしちゃったもの。名前を与えなかった声。帰らなかった想い。それらが全部、流れ込んでる」
女は門に近づき、その水の膜に指を触れた。
波紋が広がると、私は――見てしまった。
“水”の向こうには、“夢そのものの海”が広がっていた。
人の形をした泡が無数に漂い、溶けては浮かび、名もなく崩れていく。
街の断片。家族の顔。放棄された記憶。積み残された想い。
すべてがそこに沈んで、かすかに揺れていた。
私は息を呑んだ。
「この町は、その夢の“流れ出し口”なの。漏れ出した水が、現実にしみ出すの。人の無意識とつながって」
「じゃあ……あの水……みんなが飲んでるのは……」
「うん。夢の漏れ水よ。
だから、捨ててはいけないの。
飲んだ者は、源へ帰るための通路になる。」
*
私は引き返そうとした。
だが、女が首を振った。
「もう、あなたも通路の一部。現実に戻っても、水はあなたを通じて出てくる。
あなたの周囲に、少しずつ、町が流れ込む。
最初は夢の中だけ。でも、いずれ、あなたの現実に海が滲む。」
*
目が覚めた。
部屋の床が濡れていた。
寝ている間に水をこぼした? 違う。水源などない。布団の縁がじっとり濡れている。
――私はもう、通路なのだ。
会社では、私と話した後輩が次々と「夢を見始めた」と話し出した。
電車の窓に、水滴が浮かぶようになった。
エレベーターの中で、わずかに潮の匂いがした。
*
そして今日。
私は、また夢の町にいる。
でも、様子が違う。
町に“新しい家”が増えているのだ。
どれも、見覚えのある現実の建物――コンビニ、マンション、交差点。
夢の町が、現実を侵食している。
いや、現実が夢に“吸い込まれて”いるのかもしれない。
女が再び現れ、こう言った。
「水は、戻ろうとしているだけよ。
“人の夢”だった世界に。
あなたたちが捨てたものを、取り戻そうとしてるの」
私は問うた。
「戻れないのか? この現実に」
女は笑った。
それはやさしい笑みだったが、どこかで“あきらめ”のようなものが混じっていた。
「戻るも何も、最初からあなたは、向こうの人だったかもしれないのに」
*
今、私は一口の水を口に含む。
冷たい。甘い。
そして、夢の味がする。
世界がにじんでいく。
扉が開く。
私は流れに身を任せる。
そう、あの“門”の先に。
水は、どこから来たのか?
それは、人が“流した”夢の行き着く先――