言葉への想い
今回は小説じゃなくて、評論です。
長ったらしくてごめんなさい。
『やまとうたは、人のこころをたねとして、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり』
これは日本の歴史史上最高の教養人であった、紀貫之が古今和歌集によせて書き綴ったものである。
一般的に『古今和歌集 仮名序』といわれているこの文章であるが、この文のすばらしい点は言葉への美学がありのままに論じられている部分である。
古来より日本人は変りゆく風情を感じ、季節を『歌』と言う形で無駄なく簡潔に表現した。
そしてそれが世の貴族たちの一般教養ともなるわけだが、『歌』というものを美学として捉えるには少し時間がかかった。歌詠みはたかだか遊び程度―その時代の貴族たちの『歌』への関心はそのようなものであったからかもしれない。
だが、その時代きっての知識人は5・7・5・7・7の中に魅力を感じ、その言葉の中には人の美しさが宿っていると初めてこのような形で発表してみたのだ。
今ではこのようにして言葉の美しさを論ずることは普通になってきているが、どうであろうか。
現在日本の教育には『古文』という科目がある。古文では古語の意味・文法・活用のしかたなど昔の文献を読み進めることに苦労しないように指導されている。要するに昔からの教養が今にまで残されているということだ。
だが、『古文』という教科はマニュアルにそっているだけで、実際には昔から続いてきた言葉の美しさなど微塵も感じさせないものがある。
例えば、先ほどの仮名序を私的に訳すと、
『和歌は人の心を拠り所とし、幾万もの言葉から成り立っている。生きている間には人に出会い、事に苛まれ、業を背負っていくのだから、ふと思ったことを詠うことができるのだ。花に鳴く鴬、水に住む蛙の声を聞いてみれば、皆、詠わずにはいられないだろう。力なくとも天地を揺るがし、目には見えない存在であっても心が揺さぶられる。男と女を結びつけ、荒ぶる武人の心を宥めるのは言葉への想いが籠った歌の力なのだ』
といった具合になる。
これはかなり自分でも意訳してある。つまり、この1文に自分の思いを込めてみたのだ。
ただ、これでは点数は貰えないらしい。
過去にこんなことがあった。私が予備校に通っていて、そのときはちょうど古文の講義だった。
テキストの予習をしてきて、こんな感じに訳してみましたと言うと、
「うーん、そうですね・・・意訳はできる限りしないで欲しいですね」とバッサリ切られた。
たった少しの文でも、自分の感情を込めたものを否定されわけだ。
だが案の定これは受験とという意味では大変役に立った。
良薬口に苦しというが、自分にとってみれば劇薬だったと思う。
勉強がとてもつまらないものだと感じた瞬間であった。
自分の想いを込めてしまうと点数がもらえない。
そのようなことを前提にして考えたとき、私は正直足が竦む。
元来言葉にはさまざまなものが含まれている。
例えば『愛』という1文字。このたった小さな1文字でも、人によってさまざまな『愛』があるわけだ。
それを否定したら、一体どうなるだろう。
我々は辞書に書いてあるような意味でしか『愛』を伝えることができないのだ。
言葉とはすなわち心だと思う。
だが、近代を支えてきたのは紛れも無く数学的・理科的思考だろう。
私たち日本人は未来を切り開いていく中で、古来より持ち合わせてきた言葉の美学を忘れてしまったのかもしれない。
だとしたら、今まで習ってきたものは全てあまり意味が無いものになる。
『言葉の崩壊』などいう問題が叫ばれているが、そんなものは上辺だけの問題である。
真に怖いのは、私たち日本人が言葉への想いを表現できなくなったときではないだろうか。