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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

どうやら愛されていたわけではなかったようです~なら自由になってもいいですか?~

作者: あさと


 メイベル家のイリアは生まれつき病弱で、部屋から出ることも、ベッドから降りることさえもままならない……らしい。


 さすがに過剰ではあるけれど、それはベッドからという点においてであり、イリアが与えられた部屋から外に出たことは事実としてなかった。

 いわく、からだの弱いイリアになにかあったら大変だ。外での刺激は害になるそうで。ものごころついたときからそう言われ続けていれば、それはもはや刷り込みのようにイリアの意識に染みつき、彼女はその状況になんの疑問を持つことさえなく生きてきた。


 両親はとてもやさしく、なにかにつけイリアを気にかけ、具合はどうだ、調子はどうだと尋ねてくれる。大丈夫だと返せばそれはよかったとほほえみかけ、食事の手配に気を回してくれたり、部屋に飾る花や、よい香りの香を贈ってくれたりもした。

 イリアの生活はこの部屋で完結できるよう、食事もトイレも風呂もすべてが隣接して備えられ、だからこそ外に出る必要がないとされていたのだけれど、それは他者との接触……家族とさえも触れあうことがままならないことも示している。侍女もつけてくれ、おいしい食事もとることができ、文句などつけようもない生活を送らせてもらっている認識はあった。そしてそれが、イリアのことを慮ってのものであることも理解している。


 だけれどやはり、さみしい。ぽつんとひとり、だれも訪れてくれることがなければ取り残されたようにすら思えてしまうこの部屋は、とてもさみしいものだ。

 だからイリアはときおり両親に頼む。一緒に食事ができないか、と。しかしそれは両親を困らせてしまうばかりで、そうした刺激さえもイリアの身を害すかもしれないからと心配されてしまえば、なにも言えなくなってしまう。

 そうしたとき、イリアは自身の腕に輝くブレスレットに縋るのだ。幼いころに両親より贈られた、魔よけの意味を持つというこのブレスレット。驚くことにイリアの成長とともにその大きさが変化する仕掛けが施されていたらしく、これはいついかなるときも身につけていられた。両親の愛が込められた、とても大事なブレスレットだ。


 イリアにはひとり、姉妹がいる。彼女が姉なのか妹なのかはわからない。お互いにものごころもついて、ある程度大きくなってから顔を合わせたのだが、そのときに彼女に言われたのだ。



「わたくし、あなたとはしまいよりも、おともだちのようにありたいの。だから、ねえ、おたがいになまえでよびあいましょう? それがいいわ」



 イリアとしては姉妹でよかったのだが、友人をつくる機会もないイリアには、友人がいいというのであればそれでもいいかとも思えた。なにより、両親がそれはいい考えだとあと押ししたこともあって、それじゃあ友人のように親しみあおうとなったのだ。

 そんな彼女の名は、ミミア。よくわからないが、メイベル家は由緒正しい家柄らしく、それに見合った淑女の交流として、友人同士でも様をつけて呼びあうのがふつうらしい。だからイリアは彼女のことをミミア様と呼んでいる。


 ミミアはイリアと違いとても健康で快活で朗らかな少女だ。彼女は外に出ることこそ許されてはいるものの、それでも両親に比べたら暇を持て余すことも多いらしく、よくイリアのもとへと訪れてはいろいろとおしゃべりをしていってくれる。

 刺激のすくない生活を余儀なくされているイリアにとって、ミミアのはなしは数すくない外の世界を知る手段であり、だからこそ彼女の来訪はとても楽しみにしていることだった。

 お互いに成長したいまでは、ミミアにはコンヤクシャができたらしい。最近ではもっぱらそのコンヤクシャのはなしでもちきりだった。

 外に触れる方法のないイリアにとって、ミミアの語ることばの多くは知らないものばかり。コンヤクシャもまた例にもれるものではなかったので、それがどういうものか聞いたこともある。



「ねえ、ミミア様。コンヤクシャってなあに?」


「まあ、あなた、そんなことも知らないのね。確かにあなたには必要のないものですものね。婚約者というのは、愛しあい、慈しみあうそれはもう素敵な存在のことですのよ」


「そうなの。……わたしには、必要ないの?」


「え、そうでしょう。だってあなたは……ああ、そうね。あなたは病弱だから。お相手のかたからなにかの病気でもいただいてしまったら、大変でしょう?」



 そうなのか。病弱だと、コンヤクシャもできないのか。

 愛しあえる存在、ということばに、わずかばかり躍らせた胸が急速にしぼんでいく。どうしたって、このからだは足を引っ張ってくれるらしい。そっと、ブレスレットに指を馳せる。

 そんなイリアを見ながら、ミミアのはなしは留まることはない。羨ましいな、と、ひっそり思うイリアの前で、ミミアは今日もまたコンヤクシャのはなしを続けるのだ。


 ミミアの語るコンヤクシャは、とても見目が美しいひとらしい。ミミアの隣に並ぶのだから当然だ、と彼女は言っているけれど、正直イリアにはひとの顔の造形の美醜などよくわからなかった。

 なにしろ対比できるだけの接触者などいないのだ。わかりようもない。

 とりあえずそのあたりはそう、と聞き流すに留めるが、ミミアは基本的にははなしたいようにはなすことで満足するらしく、イリアの返事はあまり求められていないようだ。それでも、すごいね、とか、いいな、とかくちにすると明らかにうれしそうにするので、折を見てはそういったことばを挟むようにしている。せっかくわざわざここを訪れてきてくれているのだ。楽しんでもらえるならそのほうがいい。



「それでね、今日はカールス様、このイヤリングをくださったのよ。ほら、大きな宝石がついているでしょう? 素敵よね」



 耳にかかる髪を上げ、耳もとを彩るイヤリングを自慢げに見せてくる。赤い宝石の輝くそれは豪華な印象を受けるが、イリアとしては重そうだし、耳が痛くないのかなという気持ちが勝ってしまう。もちろんそれをくちにはせずに、代わりに素敵だねと反芻しておいた。ふふん、と、ミミアの笑みが深まる。



「あ、ついでに花ももらったけど、あなたにあげるわ。せっかくだもの、この部屋に飾ってあげる」


「いいの?」


「ええ、それこそわたくしには必要ないもの」



 コンヤクシャがミミアにくれたという花は、概ねイリアがもらうことができていた。ミミアに似合うようにか、彼女の好みを考えてか、花の種類はいつだって華美なものでイリアにはあまり似合わないものに思えるが、花は花だ。どんな花でも、部屋の色彩を鮮やかにしてくれ、気持ちを明るくしてくれるからイリアにとってはとてもありがたいものだった。

 ミミアがもらったものなのに、という罪悪感もあるけれど、せっかくミミアがこうしてイリアを気にかけて気を遣ってくれるのだから、その厚意を無駄にもしたくなかった。


 ちなみにコンヤクシャからもらったというものは、ハンカチやお菓子、素朴な髪留めなども譲られることがある。相手には失礼だと思うけれど、それもまた部屋から出られないイリアのことを気にかけたミミアの厚意だと思うと、受け取らないということはできなかった。



「あ、大変。そろそろお父さまが帰ってこられるわ。それじゃあ、また来るわね」


「うん。またね、ミミア様」



 父が帰ってくるということは、しばらくしたら夕食の時間になるということだろう。ミミアが去ってひとりになった部屋の窓から外を見上げる。確かに太陽は沈みかけ、日も翳りだしていた。

 もうすこし暗くなったら、カーテンを閉めて灯りをともそう。煌々と照るほどの光量のない蝋燭の灯は、この部屋に与えられた唯一の灯りだ。部屋全体を照らすにはこころもとないが、ちいさな火が揺らめく様は見ていてなんだかこころが落ち着く。


 そんなことをぼんやりと考えていたときだった。


 こつん、と。ちいさな音が聞こえて、イリアは思いきり肩を跳ねさせる。侍女は確かについているとはいえ、基本的になにもなければこの部屋にはイリアひとりしかいることはない。ちいさな物音でさえ大きく聞こえて、思わず必要以上にびっくりしてしまったのだ。

 なんだろう、と、あたりを見渡す。まだうっすら暗くなりはじめたくらいで、部屋の中を見渡すにも問題はない。だけど見渡した部屋の中に異常はなく、イリアはちいさく首を傾げる。

 気のせいか、もしくは部屋の外の物音だったか。そう結論づけかけたところで、もう一度こつん、と音がする。その音の正体を、今度こそイリアは見つけることができた。


 小鳥だ。青いちいさな鳥が、窓の外から窓をつついている。


 意外な来訪者に目を見開きはしたけれど、イリアはすぐに窓辺に寄り、一度窓外を確認してからそっとすこしだけ窓を開けた。外の空気がからだを害するかもしれないと、窓を開けることさえも両親に禁じられているのだ。

 それでも一応、空けることはできるし、侍女が換気のために開けることはゆるされているらしい。ただイリア自身が開けたと知れたら、両親にとても怒られてしまうので、イリアが自ら窓を開けるようなことはしてこなかった。

 すこしだけ開いた窓の隙間を、小鳥はさっと縫うようにして室内へと飛び込む。驚きはしたけれど、イリアはすぐに窓を閉めた。



「どうしよう。入ってきちゃったけれど、早く外に出してあげないと……」



 部屋に小鳥がいると知れたら、イリア自身も怒られるだろう。けれどなにより、小鳥自身のことが心配だった。外に出して逃がしてあげなければ。

 天井付近を円を描いて飛ぶ小鳥を困ったように眺めていたイリアのもとへ、小鳥が緩やかに降りてくる。反射的に両手を出せば、小鳥はその上にすっぽりと落ち着いた。



「まあ、人懐こい小鳥なのね」



 青い鳥は、腹のあたりは白く、とても愛らしい姿をしている。ゆっくりと片手をずらして、空いた手の指先で頭をやさしく撫でれば、小鳥は逃げるでもなくむしろ目を閉じてすすんで頭を差し出してきた。



「ふふ、かわいい。どうしたの、迷子なの?」



 さすがにこたえが返ってくるとは思わなかったけれど、ついそう問いかけてしまう。イリアの望むままおとなしく撫でられている小鳥は、やはりなにを言うこともない。

 ちいさな来訪者の愛らしさに頬を緩めていたイリアは、けれど、すこししてはっと我に返り、ことばが通じるとは思っていなくとも小鳥に告げる。



「もう外が暗くなってしまう。かわいらしい来訪者さん、会えてうれしかったけれど、仲間のもとにお帰りなさい」



 言いながら窓辺に寄ると、それまでおとなしくしていた小鳥が一変、するりとイリアの手から飛び立ってしまう。あ、とちいさく声をあげるころには、小鳥の姿はカーテンレールの上に移動していた。さすがに、イリアの手は届かない。どうしようかと困っていると、ふいに部屋の扉がノックされた。

 びくっと肩を跳ねさせるイリアをよそに、返事を待たずに扉が開けられ、ひとりの侍女がトレイを手に入室してくる。



「お食事をお持ちしました」


「あ、え、と……」



 どうしよう。小鳥がいることがバレてしまったら。


 焦るあまり挙動不審になるイリアだが、そんなイリアの態度より、イリアのいる場所のほうが侍女の目にとまったらしい。



「まあ! 不必要に窓辺に近づいていけないと旦那様がたから言いつけられておりますでしょう! 早くそこからお離れください」


「あ、は、はい、ご、ごめんなさい」



 すこしばかり声を大に言われ、イリアの身が竦む。慌てて窓辺から離れれば、トレイをテーブルに置いた侍女が素早く窓辺に寄りカーテンを閉める。室内の暗さが増したため、侍女はそのまま蠟燭に火を灯した。

 そうしてイリアへと振り返ると、深々と一礼をする。



「……声を荒げてしまい、申しわけありませんでした。ですがすべては御身をお守りするためのこと。どうかご理解ください」


「……はい。わかっています。どうか気にしないでください」



 窓辺に近づかないよう言われているのは、窓を開ける開けないとは別に、なにかあったら危ないから。だれかに命を狙われるようなことにはならないだろうが、なにかの事故があっては遅いのだと言い含められている。ここは二階で、万が一にでも落ちるようなことがあっては、たとえ死なずとも怪我は免れないだろう。

 そう両親は案じているのだ。

 淡々とした侍女のことばにうなずけば、彼女はもう一度頭を下げてからすぐに退室する。注意を受けたことにはすこしばかり気分も落ち込んだが、それよりももっと大事なことに安堵した。



「……よかった。小鳥さん、見つからずに済んで」



 ほっと息を吐いてカーテンレールを見上げれば、小鳥はイリアの心配をよそにすいっと侍女の置いたトレイのあるテーブルの端に移動する。そのトレイには今日の夕食が乗せられていた。

 あたたかいスープとパン。肉とジュースと、果物までついている。量がすくなめなのは、イリア自身が食べきれないから。行動範囲が狭いのだ。動かない以上は熱量の消費もなく、そのぶんあまりおなかは減らない。



「小鳥さん、なにを食べるの? よかったら、一緒に食事をしてくれない?」



 返事がないとはわかっていながらも、つい問いかけてしまうのは、はじめてひとりではない食事ができるかもしれないという期待からだろうか。席についてすこしちぎったパンを小鳥に差し出せば、警戒することもなくそのパンを啄んでくれる。

 その姿の愛らしさに、思わず笑みがこぼれた。


 イリアはその日はじめて、ひとりぼっちではない夜を過ごすことができたのだった。






 青い小鳥がイリアの部屋を訪れて数日。隙をみては外に逃がそうとするのだけれど、どうにもこの小鳥に外に出る気はないらしい。何度目かで試みを諦めたイリアは、小鳥自身が外に出たい素振りを見せない限りはすきにさせておくことにした。


 小鳥がいる生活はイリアのこころにすこしずつ色づきも与えてくれている。


 ごはんは自分に出されたものから小鳥が啄むものを与え、ひとりでなにをすることもないときはただひたすらに小鳥を眺めたり、触れたり、声をかけたりして過ごす。夜は枕もとで勝手に羽を休めているのでそのまま一緒に眠り、潰さないようにだけ注意した。

 不思議なことに、小鳥の存在はこの部屋を訪れるだれにも気づかれていない。とても賢い小鳥なのだろう。きっと、だれかが来るとうまく隠れおおせているのだ。

 イリアにとってこの愛くるしい来訪者はかわいくてかわいくて仕方がなく、とても大事な存在になるまでそう時間は要さなかった。この子がいれば、この部屋にひとりぼっちだろうとさみしくはない。そう思えるくらいには、この小鳥がイリアの支えになっていた。


 けれど、そんな日々も長くは続かないらしい。


 小鳥がイリアのもとを訪れてどれくらい経っただろうか。ふいに、小鳥が窓のそばへとその身を寄せた。そうしてじっと、窓の外を見つめる。



「……どうしたの?」



 小鳥はまるでイリアのことばがわかるかのように、イリアがはなしかけるとじっとイリアを見つめてきていた。けれど、いまこのとき。小鳥の視線は窓外から外されることはなく、ただひたすらに外を見つめ続けている。


 ああ、そうか。この日がきてしまったのか。


 ぎゅっと、胸が締めつけられる感覚。幼いころにはすでに蓋をして、幾度も幾度も重ねて閉じ込め続けてきたさみしいという気持ち。それがいま、イリアの身を余すことなく苛んでいく。

 やっとできた、ひとりではないと思える相手。離したくなくて、離れたくなくて、知らないふりを、気づかないふりをしてしまいたかった。


 けれど。

 顧みる、自身の状況。

 仕方ないことだと、愛されているがゆえだと、そう諦めてきたこの現状。生きるために必要なことは与えられているけれど、この部屋の中でしか過ごすことのできない、自由の一切ない生活。自分は、愛されているから。大事にされているからと思えるから、耐えられているこの状況は、けれど本音を言ってしまえば……息苦しい。


 そんな生活を、この子にも強いるのか。


 そばにいてほしい。でも、自由を奪いたくない。

 そんな葛藤を繰り返し、やがて大きく深呼吸をしたイリアは、意を決して窓辺に近寄った。


 それが、この子のためならば。


 苦しい胸のうちを抑え込むのに必死で、あたりへの警戒は怠ってしまったけれど、たとえだれかに見られたとしても注意を受ければいいだろう。イリアは窓の鍵を外し、そっと窓を開けた。



「……ありがとう、小鳥さん。わたしに出会ってくれて。あなたがここにいてくれた間、とても……とても楽しかったわ」



 笑おうとして、でも、うまく口角が上がらなかった。ぽろりと零れてしまった涙は、一度溢れると止まってくれない。ぐしぐしと手でその涙を拭うイリアを、小鳥はじっと見上げる。けれどすぐに弾かれたように外へと顔を向けると、そのまま飛び立っていってしまった。

 あ、と、ちいさくイリアが声をあげる。



「……さようなら、って、言えなかった……」



 ぼんやりと、小鳥が飛び立っていった方向を見つめ、ちいさくつぶやいた。じくじくと痛む胸におされるようにとめどなく涙が溢れてきて、その場に座り込む。顔を覆い、嗚咽を耐えて泣くイリアは、窓の外でなにか声が聞こえてきていたことに気づかなかった。


 そうしてどれほど泣いたのか。部屋の扉の向こうからなにか声が近づいてきて、かと思ったら思いきり扉が開かれる。

 こんなに乱暴に扉が開かれたことはいままでになく、泣いていたイリアも驚いて反射的にそちらを向いた。



「あんた……っ! なんてことしてくれんの⁉」



 現れたのはミミア。彼女はいままで見たことがないほど顔を真っ赤にして、目を吊り上げて声を張る。

 感情的になりやすい彼女が声を荒げる姿を見ることなら、実はこれがはじめてでもない。ときどき、なぜかよくわからないことで怒鳴られることもあったのだ。そのときはよくわからないがゆえに、とりあえず適当に謝って流していた。そうすると、ミミアの機嫌も直るのだ。

 今回もまたその類だろうか。わからないが、いまくらいは放っておいてほしかった、と、いつもであればミミアの来訪をよろこぶイリアも、内心ですこし不満を抱く。

 けれど、ミミアの怒りはそれどころではないらしい。ずかずかと部屋の中に踏み入ると、大股にイリアへと近づき、床にうずくまったまま顔を上げるイリアの頬を、思いきりひっ叩いたのだ。



「ミミアお嬢様!」



 ぱん、と、乾いた大きな音が響き、衝撃にイリアはその場で倒れ込む。怒られたり注意をされたり怒鳴られたりすることくらいはあっても、暴力を振るわれたことはなかったイリアは、突然のことに驚いて混乱した。

 じんじんと熱を持って痛みを訴えてくる頬に手を添えたのは、無意識でのこと。茫然と顔を上げれば、怒り心頭といった様子で顔を歪めたミミアと視線が絡む。



「あんた、だれの許可を得て窓から顔出したりしたの⁉ カールス様に見られちゃったじゃない!」


「え……?」


「え、じゃないわよ⁉ バカにしてんの⁉ あんたのこと見たカールス様が、あんたのことしつこく訊いてくるし、その上美人だなんだなんてふざけたこと言い出して……! カールス様はわたくしの婚約者なのよ⁉ あんたなんてただの肥料なんだから、この部屋の中でおとなしくしてなさいよ!」


「……ひ、りょ……?」



 怒りのあまり、くちばやにまくし立ててくるミミアのことばは、正直叩かれた衝撃もあってあまり頭に入ってこない。けれど、ヒリョウと呼ばれたことには気がついた。

ヒリョウって、なんだろう。ミミアはいったいなにを言っているのだろう。

 理解ができなくてぼんやりしていると、そのまま床に押し倒され、馬乗りにされる。そこから降る、ミミアの拳。



「っざけんな! ふざけんなっ! ふざけんなっ! あんたなんかが美人ですって⁉ わたくしが、このわたくしが、あんな屈辱的な……! ゆるさないっ! 絶対ゆるさないっ!」


「い、いたいっ、いた、み、ミミア様……っ、おねが、やめて……!」



 なんとか手でガードしようとするも、ミミアは上から髪を引っ張ったり叩いたり殴ったりとすき放題に暴力をふるってくる。痛くて、怖くて、小鳥と別れたときとは違う涙を滲ませながら、イリアは必死にやめてと懇願した。けれどミミアは聞いていないのか、あえて無視をしているのか、ひたすらにゆるさないと怨嗟を吐きながら手を止めてはくれなかった。


 そうしているうちに、この騒ぎをだれかが伝えに行ったのだろう。両親が部屋に駆けこんできた。



「ミミア! これはいったいどういうことだ!」


「……お父さま」



 父の大きな声に、さすがのミミアの手が止まる。そのころにはイリアの顔も頭も腕もそこら中が痛くて、くちの中では血の味もしていた。

 よかった、助けがきた。ほっとするイリアの前で、ミミアは立ち上がって父へと駆け寄っていく。そうして彼の胸へ思いきり飛び込んだ。



「お父さま……! あいつが、あの女が、わたくしのカールス様を……!」


「ああ、はなしは聞いている。くそ、やさしくしてやっていれば、つけあがりやがって!」


「ええ、本当に。なんてかわいそうなミミア。やはりあんなあばずれに、こんな好待遇などしてやる必要などなかったのですよ」



 なにを、言っているのだろう。


 ミミアに泣きつかれた父も母も、憎々し気な視線をイリアへと向けてくる。急に殴られ、怪我を負った被害者はイリアのほうだというのに。

 彼らのことばが自分に向けられたものだとは、イリアにもわかった。けれど、なにかと理由をつけては知識が得られるものを遠ざけられてきたイリアには、理解できないことばもまた、多かったのだ。



「……お父さま……? お母、さま……?」


「汚らわしい。貴様なんぞに父と呼ばれる筋合いなどないわ」


「ええ、まったくだわ。飼殺すためにそういうことにしておいたけれど、ほんとうはずっと虫唾がはしっていたのよ」



 記憶にある父と母は、いつでもいつだってにこにことして、やさしくて、イリアのことをとても気遣ってくれて……。

 それなのに、いま目の前にいる彼らは、だれだ。蔑むように、憎らし気に、怒りを宿してイリアを睨む。肩越しにこちらを振り返るミミアも、ひどく歪んだ笑みを浮かべていた。


 彼らは……だれ。イリアの知る、やさしい父と母はどこにいったのだ。



「なん、で……」


「ふん、魔力が高いから、我が家を栄えさせる肥しとしてやっていたというのに。やはりあの忌々しい姉の子であるだけはあるな」


「本当。父親といい、母親といい、どこまでも邪魔しかしないのね。飼殺して長く絞り取ってやろうとしたのが、こんなかたちで仇になるなんて」



 姉の、子……。もしかして、自分は両親の本当のこどもでは、ない……?


 いろいろなことがありすぎて理解が追いつかなくて困惑するしかないイリアは、自分に関わることだというのに状況に置いていかれてしまっている。だからこそぼんやりとするしかなかった彼女のもとに、父だと思っていた男性が足音荒く歩み寄ってきた。



「もういい。こうなったからには貴様は地下に幽閉する。死にさえしなければ構わんさ。私のかわいい娘の婚約者に色目を使ったことを後悔しながら生きるんだな」



 そう言って、イリアを掴み上げようと手を伸ばしたその瞬間。




「オレのかわいいお姫さまに手を出すなキーック!」




 ばりん、と、それはもう大きな音を立ててガラスが割れる音が響き、かと思った刹那には、父親と思っていた男性がイリアの目の前できりもみしながらすっ飛んでいった。



「ご、が、ご……」


「ごめん、イリア。師匠のせいで助けにくるのが遅くなった」



 すっ飛んだまま床でもんどりうつ男性には目もくれず、男性を蹴り飛ばした犯人……青い髪をした青年が、イリアの前に膝をつく。そして彼は痛ましそうに顔を歪めてイリアを見つめると、その頭をやさしく撫でた。



「痛かったよな、怖かったよな。ごめん、そばにいなくて」



 やさしく、やさしく。労わるように声をかけてくれる青年が触れる部分から、じんわりとやさしい熱がイリアのからだを伝っていく。驚くことに、その熱が伝った部分から、どんどん痛みが引いていった。



「あな、た、は……?」


「オレは」


「き、貴様! なにものだ! この私にこんなことしてただで済むと思っているのか⁉」


「…………いま名乗ろうとしたのに」



 青年のことばを遮るかたちで咆哮する男性に、青年はがくりと肩を落として溜息を吐く。そして彼が肩越しに振り返ったときには……。


 男性は、その首もとを掴み上げられ宙に浮いていた。



「……ただで済まんのは、貴様らのほうだろう」



 イリアが父と思っていた男性を持ち上げているのは、ひとりの男性。父と思っていた男性はなかなかに肥えているのだが、それを苦にするふうもなく片手でやすやすと持ち上げる彼は、イリアたちには背を向けているため顔は見えない。

 けれどすぐそばにいた、母と思っていた女性は彼を見上げながら尻もちをついていた。



「あ、あなたは……ジーク……。ひっ」



 女性に呼ばれ、男性……ジークと呼ばれた彼は、視線だけ彼女へと向ける。そのあまりの冷たさと圧とに、女性は引きつった悲鳴を上げた。



「おーい、師匠、気持ちはわかるけど、そろそろオチるよ、そいつ」


「……ちっ」



 イリアのそばにいる青年が呼びかければ、あからさまに大きな舌打ちをひとつつき、ジークは吊り上げていた男性を放る。


 妻である、女性の上に。



「ぐぎゃ」


「お、お母さま! お父さま!」



 折り重なって崩れるふたりに、慌てた様子でミミアが駆け寄った。



「師匠、気持ちはわかるけど、イリアの前で女の子に暴力をふるっちゃマズいよ」


「…………」



 眼前のミミアに蹴りを入れようとしたのを察した青年に釘を刺され、ジークは頭を掻いてからイリアたちへと向き直り、こちらへと歩み寄ってきた。



「……大丈夫か?」



 黒い髪。紅い瞳。怜悧な印象さえ受けそうなそれは、けれど、イリアをまっすぐに見つめる様はどこまでも心配そうで、やわらかい。


 紅い、目。それは鏡で見るイリアのものと、おなじ色だった。


 そしてこの家では、イリア以外に持つものはいなかった色。


 思わず食い入るようにその瞳を見つめていたイリアは、どこか痛いところはと重ねて問われ、慌てて首を振る。



「怪我は治したよ」


「ガラスは」


「もちろん、イリアには結界を張って割ったに決まってるでしょ」


「あたりまえだ。あとさき考えずに物理で侵入ってアホか、おまえは」


「だってオレ、師匠みたいに転移できないし」



 とんとんと軽快に進んでいく会話を前に、イリアはただひたすら瞬くだけ。このふたりがだれかも、どういう関係かも、なぜイリアを知っているのかも、なにもかもわからない。


 けれど。けれど、なぜだろう。このふたり……特に黒髪の男性のほうには、ひどく懐かしくて、切なくて、ぎゅっと締めつけられるなにかに、胸を掻き立てられる。


 彼は、彼らは、いったい……。



「とりあえず、まずはここを出るか。落ち着いてはなしができる場所に行こう」


「今度はオレも転移で連れてってくれるんだよね?」


「…………まあ、仕方ない」


「ちょっと、間が長くね⁉」



 ふたりの間では結論が出たのだろう。再びジークの紅い双眸に見つめられ、彼はまっすぐにイリアに問う。



「イリア、おまえをここから連れ出す。……いいか?」


「いいかって師匠……」


「おまえは黙ってろ」



 見向きもせずに両断され、青年が不服そうに顔を顰める。イリアはそんな彼らを交互に見て、それから両親と思っていた男女と、ミミアに目を向けた。


 彼らが言っていたことは、多く理解できていない。でも、わかったこともある。


 彼らはイリアの本当の家族ではなく、むしろこころの中では蔑み、さらにはたぶん、利用していた。なにをどう利用していたかまではわからないが、そういうニュアンスのことばであることはなんとなくわかったのだ。

 だからこそ、イリアをここに繋ぎ止めていたのは……閉じ込めていたのは、愛情なんかではなかったと思い知った。


 愛されているから、大事に想われているから、それならここで、さみしくても息苦しくてもただ生きているだけでしかなくても、不自由でも生きてこられた。だけど、その前提が違ったなら。



 イリアには、もうここで生きていける自信など、どこにもなかった。




「……連れていってください」




 そこからどうなるかはわからない。だけどすくなくとも。


 たぶん、きっと、自由になれる。


 無知な自分が外で生きていけるかなんてわからない。でもここでただただ生きるだけでいるくらいなら、外で死ねたほうがまだマシだ。だれかにとっては贅沢に思えるかもしれないようなその選択は、けれどイリアにとって切実に大切なものだった。

 イリアのことばに、決断に、ジークの双眸がふっとやさしくやわらぐ。うれしそうに、安堵したようにほほえむ彼に、そっと頭を撫でられた。



「ああ、もちろんだ。……いままで、よくがんばったな」


「……っ!」



 そのぬくもりに、ことばに、やさしいまなざしに。イリアの瞳が滲む。思わず顔を覆って泣き出せば、すぐにぎゅっと抱きしめられた。


 あたたかい。あたたかくて、やさしい。


 ああ、ひとのぬくもりって、こんなにもうれしいものだったのか。



「あー、師匠、泣かせた」


「うっせ。置いてくぞ」


「あ、それなんだけど、やっぱちょっと置いてってくれていいよ。すぐ追いつくから」


「……おまえ……ズルいぞ」


「なに言ってんの。ちょっとの間だけどイリアとふたりきりになれる師匠だってオイシイでしょうに」


「………………」



 ふたりはなんの会話をしているのだろう。わからないけれど、いままでだってわからなかったのだから、まあいいか。

 それよりもいまは抱きしめてくれるこのぬくもりのほうがイリアにとっては大事で、無意識に縋るようにその腕をぎゅっと掴んでしまった。

 それに気づいてか、ジークの腕のちからがすこし強まる。



「ほどほどにしておけよ。生き地獄のほうも知るべきだ」


「はーい」


「あと、ついでにどこかで寄り道してこい」


「いやでーす」



 軽いノリの青年の返答に、ジークから舌打ちがもれる。その音を聞いた直後、イリアの姿はジークとともにこの部屋から消え去った。

 残るのは、青い髪の青年。そしてこの家の主一家と、彼らとともにここに居合わせた従者数名。青年がにっこりとくちもとに大きな笑みを刻んで彼らを見やれば、その悉くが血の気を失う。



「さあ、じゃあちょーっとだけ、因果応報ってことば、知ろうか?」



 ひとの顔の造形の美醜がわからないイリアは気づかなかったが、この青年、おそろしく整った顔立ちをしている。それはもう、ひとの域を超越しているかのように。


 ともかく、美人は凄んだら凄まじい。それをしっかり体感したこの邸のものたちは、彼のことばの意味をしっかりと味わうことになるのだった。






 気づいたときには、見知らぬ家の中にいた。イリアはそこでジークからホットミルクをもらい、落ち着くまでやさしく頭を撫でてもらってから、いろいろとはなしを聞くことになった。


 どうやらジークはイリアの実の父親らしい。イリアの実の母親はメイベル家の人間だったようで、あの偽物の父親の姉だったのだとか。とても気高く、優秀でやさしく、多く慕われていた母を、父が見初めたのは当然のことだったのだと恥ずかしげもなく告げられた。もっとも、そういった面での羞恥心もわからないイリアには、それだけ愛されていた母がちょっと羨ましいくらいにしか思わなかったのだけれど。

 とにかく、そんな母はイリアが生まれるとすぐに亡くなってしまったという。原因は詳しく教えてもらえなかった。ただ、ジークは自身のせいだと自分を責める。事情を知り得ないイリアにはなんと声をかけることもできずに、ただはなしを聞くことだけしかできなかった。

 ジークと母が結婚をする頃には、母はメイベル家から縁を切られていたらしい。そのへんの事情も詳しくはわからなかったけれど、どうやってか母が亡くなったことを知ったメイベル家の人間……あの偽物の父親と母親が、ジークを責めに現れたのだとか。



「……散々責められて、俺自身も俺のせいだと思っていたこともあって、イリアをあいつらが育てるということばに乗ってしまった。俺は子育てなんてしたことがなかったし、母親を奪った俺に育てられるより、あいつらに育てられたほうがおまえがしあわせになれると言われて、納得しちまったんだ」



 悔恨にまみれた吐露。そんなはなし、イリアは聞いたこともなかった。


 イリアはものごころついたときには偽物の両親を本物だと思っていたし、彼らだってそれを否定せずに、むしろそうであるかのように振舞っていたのだから。


 どうやらそのすべては、イリアの魔力に目をつけてのことだったらしい。


 ジークにはひと並外れた魔力と魔法の才があり、イリアにはそんなジーク譲りの高い魔力があるのだという。もっとも、イリア本人にその自覚はなく、だからこそ魔法なんて使えると思っていなかったし、使ったことだってない。

 それも当然だ。なぜならイリアの魔力は、そのほとんどを強制的に搾取され続けていたのだから。

 幼いころに、偽物の両親からもらった唯一のプレゼント。寝るときも、風呂に入るときだって肌身離さずつけるよう言われ、そうしてきたそれが、対象の魔力を吸い上げる魔道具だったなんて、イリアに気づけるはずもない。

 ジークの娘だからと目をつけられたイリアは、果たして彼らの狙いどおり膨大な魔力を有しており、それを利用したメイベル家は、高度な魔法使いとして大きな躍進を遂げたらしい。もともと男爵家だった家が、一躍伯爵家にまで上り詰めたのだから相当なのだが、そのへんの階級制度もイリアにはまったくわからない世界だった。


 ちなみに、件のブレスレットは早々にジークによって破壊されている。



「おまえのしあわせのためならって身を引いたが、それでもやっぱりつらくってさ。逃げるように隠遁生活をしちまってた。……ごめんな、イリア。俺がもっとしっかりしていれば、もっと早くにおまえを助けに行けたのに」



 そもそも、もっとしっかりしていれば、最初から彼らになどイリアを預けたりはしなかったのに。そう悔しそうに呻くジークに、イリアはふるふると首を振った。



「大丈夫だよ。わたし、きれいな服も着せてもらってたし、おいしいごはんも食べさせてもらえてた。ベッドだって、ふかふかだったから」



 つらい部分は隠して。確かに恵まれていた部分だけを挙げて、すこしでもジークの罪悪感を減らせればいいと思った。


 そのすべてが、イリアの魔力を衰えさせることなく生かし続けるためのものでしかなかったとしても。

 それでも、イリアは確かにいまも生きている。……正直、しあわせだったとはさすがに言えないけれど、恵まれていたという認識はしているし、それは確かに事実なのだから。


 イリアのことばに、なおもジークの顔が歪む。たぶん彼はイリアのことばの裏の意味にも、どうしてそう伝えてくれているのかも察しているだろうけれど、それはお互いに触れずにおく。暴く必要などない。お互いが、お互いを想っての言動なのだから。


 ジークは目を伏せちいさく息を吐き出してから続けた。



「気づいたのはあいつ……ロイドなんだ。いつの頃からかひとのことを師匠だなんだってちょこまかと纏わりついてきて。知らない間に勝手におまえのこと調べ上げてた」



 善意のつもりだったのか、それとも単に恩を売りたかったのか。そのあたり、ジークにもわからないらしい。どうあれ、その情報に助けられたことは事実。



「ロイドさんって、あの青い髪のひと?」


「そう。あいつ、俺の弟子だとか言ってるくせに、使える魔法がまるで違うんだよな。その中でも、あいつは変化の魔法を使うことができる」


「変化……?」


「青い鳥が行っただろう? アレ、あいつだ。先にきちんと状況を見てくるって言って飛び出していったんだよ」


「青い鳥……。あの小鳥さん?」



 ずいぶんと賢い鳥だと思っていたけれど、まさか中身が人間だったとは。驚きのあまりイリアは思わずこれでもかと目を見開いた。



「ああ。すぐに戻るっつったクセに、なかなか帰ってこねえから、いい加減状況を報告しろって合図送ったんだが、あいつ、戻ってくるタイミングが悪かったというか、警戒心が足りてなかったというか……」



 そこまで言ってジークが溜息を吐いたとほぼ同時、この家の扉が開かれ、話中の人物が姿を現す。



「ただいまー。って、あれ、まだはなし中? どこまではなしたの?」


「おまえの帰ってくるタイミングの悪さまでだ」


「うわ。それいまもなんていうタイミング……。いやでもそれについては謝りたかったし、ちょうどいいのか?」



 勝手知ったると堂々屋内に入ってきた青い髪の青年……ロイドは、現状の説明の進み具合を聞くなり、イリアのすぐそばまでいって片膝をつく。そうして目線を下げ、椅子に座るイリアをまっすぐに見つめた。



「ごめんね、イリア。たとえあのとき出て行くところを見られたとしても、イリアがひどい目に遭うことはないと思ってたんだ。……まさかあのクソ女の婚約者とかいう男がイリアの姿を見ていて、一目ぼれするなんて思いもしなくて……」


「……え? ひとめぼれ……?」



 それってなんだろう。首を傾げながら、それがなにかはわからないが、それがたぶん、ミミアの逆鱗に触れたのだろうと察した。あのとき彼女はコンヤクシャがどうのでと言いながら殴りかかってきていたはずだから。



「ああ? 確かにイリアはかわいい。とんでもなくかわいいが、なんだその浮気ヤローは。婚約者がいながらよその女に現を抜かしてんじゃねーよ」


「さんざんうじうじしてたクセに、ここぞとばかりに親バカっぷりを発揮する師匠も大概だと思うけど」


「……んだと?」


「いえなんでも」



 軽く突っ込んで凄まれたところで肩を竦めたロイドは、改めて真剣な表情でイリアを見つめる。



「イリアが痛い思いをしたのは、オレのせいだ。本当にごめん」


「……いえ、ロイドさんが悪いわけじゃないから」


「……あれ、オレのなまえ……」


「あ、えっと……お、とう、さん、から、聞いて……」



 いくら実の父親だと聞いたとはいえ、イリアからすればまだ出会ったばかりの人物を、そうそうすぐにそう呼んでいいのか躊躇いはあった。だけど、家族というものに羨望を抱くイリアには、ジークをそう呼びたいと思う気持ちもあり、ちょっとたどたどしくながらも呼んでみる。


 呼んでみてから大丈夫だろうかと不安になり、ちらりと横目でジークの様子を窺えば、彼はなぜかテーブルに突っ伏していた。



「え、あ、え」


「師匠はいいよ。アレ、悶えてるだけだから」


「もだ……?」


「気にしないで。それより、イリアのはなし。怪我こそ治したけど、からだの傷は治せても、こころの傷は治せないから……。ごめんね、イリア、本当に」



 真剣に、真摯に。まっすぐに謝罪をくちにしてくれるロイドの気遣いに、イリアはひたすら首を振る。だってあれは、ロイドが悪いわけじゃない。暴力をふるったのも、イリアを傷つけたのも、それはすべてミミアで、彼女自身の意思だった。

 あの件に関してだれが悪いかなんて議論をするならば、ミミア以外にはいないだろう。

 なにが彼女の逆鱗に触れてしまったのか正確に理解できたわけではないけれど、それでもまずはことばで伝えてくれてもよかったはずだ。……イリア自身に理解できる範囲は限られるだろうけれど、そもそもイリアが知識を得ることを封じたのは彼らなのだ。であるならば、イリアが多くを理解できないことを、彼らに責められる筋合などない。



「ロイドさんはなにも悪くない。それよりも、わたし、ロイドさんに救われたもの。あの小鳥さん、ロイドさんだったって聞いたから。わたし、ロイドさんがわたしの部屋に来てくれてから、とてもうれしかったよ。はじめて楽しいって思えたし、ひとりじゃないとも思えた。だから……ありがとう、ロイドさん」


「イリア……」



 こころからのお礼をにっこりと笑って告げる。それはあの日、青い小鳥に別れを告げようとしたあのときとは違い、確かにちゃんとこころから笑えていると思える笑顔だった。


 その笑顔を目に、くちもとを手で押さえたロイドはふいと視線を逸らす。



「ヤバイ。マジでかわいい……!」


「おいこら、俺のかわいい娘を邪な目で見るんじゃねえ」


「長年ヘタレてたクセにさっさと父親面するのどうかと思うんですけどー」


「ああ? 表出るか、てめえ」


「勝ったらイリアとお付き合いさせてくれるってなら、よろこんで」


「抜かせ。ぼろっぼろにしてやるよ」



 ふたりの会話は正直わからない。けれど漂う不穏な空気は感じとれたイリアは、不安げにふたりを交互に見やったあと、ひとまず手の届く位置にいるロイドの服の裾を引っ張った。



「あ、あの、ケンカはよくない、かと」


「…………」


「…………」


「イリアがそう言うなら」



 しばし無言のあと、揃ってそう言い、ひとまず矛を収めてくれたようだ。ほっと息を吐く。



「それで、だ、イリア。俺としては、これから親子として一緒に暮らしたいと思うんだが……」



 改めてはなしを戻して、すこし緊張した面持ちでジークが告げる。いまさらだとか、どのツラ下げて、とか言われたら、正論であるだけになにも言えない。でも泣ける、と、内心でかなりドキドキしながらくちにした提案は、けれどあっさり頷かれた。



「! く、暮らしたい! わたし、お父さんと一緒に暮らしたい!」


「そ、そうか! そう言ってくれるか!」



 これでいて、実は冷酷非道とまで言われた能面がデフォルトの男だったと言われて、だれがそのジークと同一視できるかと思われるほどに気の抜けた笑みを浮かべるジークに、ロイドはひそりと苦笑をもらす。


 娘のしあわせを願うあまり、妻の死を引き摺って身動きできずにいた彼が、ようやく進み出せたのだ。なんだかんだと師匠と慕う以上、ロイドだってうれしくないはずもない。



「よし、イリア。これからはお父さんにいっぱい甘えるんだぞ。欲しいものとかあればなんでも言え。できる限り叶えるからな」


「……欲しいもの……?」


「おう。おまえをひどい目に遭わせていたあいつらをぶっ飛ばしてほしいとかなら、いくらでもぶっ飛ばしてくるぞ」


「え。いや、それは別に……。わたしはこうして生きているし、お父さんにも会えたし、もう会うことがなければそれでいいかな」


「そうか……。おまえはやさしいな」



 やさしい、のだろうか。イリアとしてはもはや関わりたくないだけで、イリアの知らない場所でなら彼らがどうなろうとどうでもいいと思うだけなのだが。


 これもまた、イリア自身は知らないことだが、もともとイリアの魔力を利用してなり上がったメイベル家のものたちが、今後どうなっていくかなど想像に易い。自分たちが行ってきた偽証や欺瞞の代償を、自分たちで支払っていくことになるだけなのだから、まあ自業自得でしかないだろうが。


 ともあれ、あの家のことはもうイリアにはどうでもいい。欲しいものと言われて思い浮かんだのは家族という存在だが、それはもう叶えられてしまっている。いまのイリアには、父親と呼べる存在がいるのだ。これほどうれしいことはない。

 これ以上望むのは贅沢なのでは……と思ったイリアは、ジークの問いになにもないとこたえようとして……はたと、思い至った。



「あ、そうだ。あのね、お父さん、わたし、欲しいもの、あった」


「! なんだ! 言ってみてくれ!」


「うん。あのね、わたし、コンヤクシャが欲しい」


「………………は?」


「えーと、コンヤクシャ。お父さん、知ってる? コンヤクシャって、愛し、慈しみあうことができるんだって」



 ミミアが確かにそう言っていた。もっとも、それ以上の情報をイリアは持っていないのだが。


 そんなことなど露知らないジークは、やっと再会できた愛娘のくちから早々に飛び出してきた嫁行宣言に、思いきり固まる。これから親子としての時間を取り戻し、絆を深めていこうと希望を抱いた直後にこの仕打ちだ。泣けてくる。

 固まり続けるジークをよそに、イリアのことばに嬉々としたのはもちろんロイド。彼は待ってましたと言わんばかりに飛び跳ねん勢いで挙手をする。



「はーい! はいはーい! オレ! オレ立候補する!」


「てめえはダメだ、表に出ろ!」


「なんでさ⁉ オレほど適した相手こそいないだろ⁉」



 今度はイリアの制止も待たず、ジークは素早くロイドの襟ぐりを引っ張って表に出て行く。それがいまのはなしをうやむやにするための手段だったと知るのは、ジークとロイドだけ。

 ひとり残されたイリアは、追いかけていいものかどうか悩みながら、もう冷めてしまったホットミルクをとりあえず啜る。


 ともあれ、これからの未来は明るくなってくれそうだ。



 そう思うと、自然と笑顔がこぼれるのだった。






搾取したい相手を餓死なり自死なりの可能性があるほどに追い詰めたりはしないんじゃないかな……と思ったおはなし。

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