表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編

雪の森の生命

作者: 青井渦巻

考えて書きました。

思い付きじゃありません。

 その家の屋根には、いつも雪が積もっている。

 あたりは木々に囲まれ、陽は遮られている。

 朝の空気は白く、夜になると、暖炉の明かりだけが窓を照らした。


 少女は家に住んでいた。

 退屈していた。

 いつも寒く、楽しみに飢え、景色は変わらない。

 母親の作るご飯は美味しかったが、彼女はそれで満足できない。


 親譲りの赤い髪を振り乱して、少女は木々の奥を目指す。

 それは小さな家出で、退屈からの脱出である。


 雪の森へ分け入ると、彼女は一匹のキツネを発見した。

 慌ててしゃがんだ少女は、草木の隙間から眼を出して、キツネの様子を窺ってみる。

 雪の絨毯の上を歩くキツネは、冷たい風に震えていた。


 その姿はみずほらしく、少女に不安を抱かせた。

 見ていられず、彼女は動こうとした。

 しかし、足を踏み出す前に思い直す――いきなり私が現れたら、怯えて逃げてしまうかも?


 心配を募らせつつも、冷静に踏みとどまる彼女。

 そうして、ただ見守ることに決めた。

 ほどなくして、キツネは木々の闇へ消えた。


 §


 翌日も少女は、雪の森へと分け入った。

 その翌日も同じことをした。

 その次も、その次も、小さな家出を繰り返した。

 キツネの様子を見に行くために。


 あのキツネとの邂逅以来、彼女には楽しみができた。

 その頼りない生命を見守ることに、ひとつの興味が生まれたのである。

 いつ行っても、震えるキツネは少女に気付かず、穴倉でうずくまっていた。


 せいぜい風を凌げるだけの拠点。

 そこにはただ、キツネだけが孤独に存在している。

 なにかしてあげたい、しかし手を出せば怯えられるだろう。

 見守るだけの少女には、為す術はない。

 それでも、キツネの生きていることに、無上の喜びを感じていた。


 可哀想なキツネにとっては、穴倉で震えることも、言うなれば平和なのかもしれない。

 多くは望めずとも、それは小さな安心の形だった。

 少しはマシになったキツネの境遇に、少女も安心を覚えていた。

 

 しかし、そんな平和は続かない。

 それはある日、キツネが食料を探して、穴倉を出ていた時のこと。


 少女は確かに目撃にした。

 キツネの穴倉の近くで、別の動物が歩き回るのを。


 灰色の毛並みに、琥珀色の眼をギラつかせ、低く唸る。

 飢えたオオカミだ。


 オオカミを見つけると同時、怯んだ少女は逃げ出した。

 自分が見つかってしまえば、襲われるかもしれない。

 そう思うと恐ろしくて、いきなり家に帰りたくなったのである。


 彼女は慌てて走りながらも、予期しない脅威について、少しだけ考えた。

 もしもキツネと狼が出会ったら、どうなるだろう?

 喰われるのはどちらか、考えるまでもない。

 白い息を吐きながら、少女は予感した。

 キツネのささやかな平和が崩れることを。


 §


 少女は足繁く、雪の森へと通った。

 母親からは「あまり遠くに行かないようにね」と、いつも警告を渡されているが、家を出た途端に捨てる。


 そんな賢い少女は、またキツネを見守る。

 この頃にはもう、もしオオカミに出会っても、自分は大丈夫だと考え直していた。

 出会った日に見つかっていないことと、未だにキツネに見つかっていないことから、草木の隙間が安全であることを理解したのだ。


 あの日以来、オオカミは現れていない。

 キツネの平和は脅かされることなく、まだ続いている。 

 その事実に、少女も一安心していた。


 もしかすると、本当にもう現れない可能性もある。

 心配を募らせる少女は、それを強く望んでいた。

 幼気なキツネを守るために、彼女は毎日、ギュッと手を握った。

 その固く瞑られた瞼の上を、赤い前髪が靡く。


 しかし、願いは届かない。


 ――彼女はある日、キツネの食事を見守っていると、獰猛な遠吠えを聞いた。

 脅威の接近を察知したキツネが、素早く穴倉の奥へ隠れる。

 同じように、少女も身を強張らせ、見つからないように息を殺す。


 じき、オオカミが姿を現した。

 その眼には、前回よりも強い空腹が宿っている。

 琥珀色の鋭い瞳が、ギョロギョロと辺りを見回す。


 平和の破壊者が去るようにと、固く手を握って願う少女。

 すると、今度は叶えられた。

 危険な足音は、ゆっくりと去っていく。


 少女がしばらく様子を窺っていると、穴倉からキツネが顔を出す。

 機敏に首を振って、臆病な確認を済ますと、キツネはまた身体を丸めた。

 その小さく弱弱しい身体は、不安だらけの少女の眼には、いつにも増して震えているようにも見えた。


 オオカミと出会った翌日、キツネは穴倉にうずくまっていた。

 穴倉の周りを見た少女は驚きを覚えた。

 雪に記録されている足跡が、ひとつもない。

 つまり、オオカミはここへ来ていないのだろう。

 それに加えて、どうやらキツネは留守番ばかりしているらしかった。


 少女はさらに不安を増して、また手を握る。

 小さく声に出しながら、純粋な熱心さとともに祈った。


「神様……あの可哀想なキツネさんを、どうか助けてあげて」


 純真無垢な少女の耳に、神の返事は届かない。

 或いは、垂れ下がった赤い髪が、その鼓膜を塞いでいたためだ。


 §


 来る日も、来る日も、キツネの無事を祈る。

 少女にできることは、それだけであった。

 満足には程遠い行為であったが、やらないよりマシだった。


 雪の森は格段に静けさを増し、木々の間には緊張が揺蕩っている。

 心細さを感じながらも、少女はまだキツネを見守りに行った。

 自身がオオカミに襲われる可能性は、もはや微塵も考えていなかった。


 いつものように、草木の隙間から眼を出して、穴倉の様子を見る。

 すると意外なことに、キツネは丸まっていない。

 周りの足跡を見るに、どうやらキツネは、久々に外出しているらしい。


 それを知った少女の心に、殴打の如き不安が去来した。

 確かに、足跡はオオカミの存在を告げてはいない。

 しかし、もしも外出中に出会っていれば、食べられる可能性は大いにある。

 無事に帰ってこれるとは限らないのだ。


 いくら心配を募らせても、キツネは帰ってこなかった。

 今日の食糧探しに手間取っているのだろうか?

 とにかく、長かった。

 それでも少女は待った。

 キツネの姿を確認するまで、家に帰ることなどできなかった。


 帰ってくるようにと、強く念じていると――ようやくキツネは戻ってきた。

 その口には、咥えられるだけの食糧が携帯されている。

 キツネは穴倉に入ると、安心したように口を開いて、持ってきたものを放り出すのだった。


 念願が叶えられたことに、少女は深く感謝した。

 危うく泣きそうにまでなったが、それは堪えた。

 今日、無事だったとはいえ、まだ安全と決まったわけではない。

 再び気を引き締めて、神への祈りを再開する彼女だった。


 それから毎日、少女は森へ足を運んだ。

 キツネは外出の頻度こそ減らしていたが、食糧調達は欠かさない。

 不在の穴倉を見ると、少女は小さく絶望する。

 そして、なんとか帰ってくる家主を見るたびに、ホッと胸を撫でおろした。


 たまにキツネは口元を切って、少し血を流していた。

 食料に混じって、先端の尖った木の枝を咥えていることもあった。

 不可解ではあったが、しかし少女は、無事に帰ってきたことだけを喜んだ。


 食料を溜めておいて、無くなったら探しに行く。

 キツネはおそらく、そういった計画的な行動をしているのだと、少女は確信していた。

 そこからキツネの怯えを読み取ることは容易だった。

 すべては捕食者から逃れるための、必然の行動なのだ。


 心細くなるばかりの少女は、足元を飛び回る蚊にさえ気付かずに、キツネを見守っていた。

 少女を隠している草木の隙間は、さながら神のノゾキアナだ。

 向こうの世界には絶対に気付かれず、少女はただ、ひとりで懊悩を繰り返している。

 が、そんなおかしさを自覚できるほど、冷静な彼女ではない。

 渋々、家に帰る道中になって、初めて蚊に刺された痒みに気付くのだ。

 彼女はどこまでも、キツネの安否を気にしていた。


 §


 そして、とうとう平和が脅かされた。


 少女が穴倉の様子を見に行くと、そこにはキツネがうずくまっている。

 安心したのも束の間、少女は重大な異変に気付いた。


 雪の上に、足跡ではない赤色が点々と落ちている。

 なにやらキツネの尻尾にも、赤いものが付着している。

 よく見ると、その胴体にまで同じ色が付いていた。

 視界不良な雪の中でさえ、眼を凝らさずとも分かるほど、それは黄色の毛並みに際立っていた。


 血。

 間違いなく、キツネは傷を負っている。

 外出した時に、おそらくオオカミに襲われたのだろう。

 キツネはかろうじて逃げ切って、今は恐怖で動けないのだ。


 少女はすぐに手を握った。

 眼を瞑って、現実から眼を背けるように、祈りに没頭した。

 どうかキツネのもとに、また平和が戻ってくるようにと……


 願いが聞き届けられる保証はない。

 結果を見るまでは、受け取られたかどうかさえ分からない。

 非常に頼りない拠り所でも、力を持たない少女は、頼らないではいられなかった。

 キツネの生命が途絶えるのだけは、なにがなんでも見たくなかったのである。


 少女はキツネの姿を望みながら、毎日森へ通った。

 しかし、あの衝撃的な光景以来、いつ覗いても穴倉は空のままだった。

 雪の上に血はないが、そんなことでは安心できない。

 ここからは見えないさらに森の奥で、オオカミに襲われた挙句、息絶えた可能性だってある。

 姿が見えるまでは、安心などできないのだ。


 もはや寒さに震えても、少女は家に帰らない。

 蚊に刺されていることも気にならなかった。

 しかし、その熱心さをあざ笑うかのように、穴倉は空のままだ。

 

 少女は自分で、いつまでも待っていられると思っていた。

 しかし、夜の雪は耐えがたい冷たさを以て、彼女を襲う。

 闇は母親の顔を想起させ、小さな彼女の心を締め付けた。

 どれほどキツネを想っても、彼女は家へ帰ることを余儀なくされるのだった。


 もはやキツネは死んでしまったのかもしれない。

 少女は泣きながら、何度となく通った雪の道を、震えながら帰って行った。


 §


 愛すべき生命を失った悲しみに、少女は耐えきれない。

 あくまでも希望を持つことでしか救われなかった。

 確かめるように、絶えず雪の森をくぐった。


 道中、少女の心中で、期待は淡くなった。

 ただの無駄足だと直感して、潔く引き返そうともした。

 しかし、疲れない両足に運ばれる彼女は、考えを纏めるより先に前進した。


 どんなに歩いても、そんな懊悩が何遍も繰り返される。

 心の苦しみは彼女を苛んだ。

 それでも、心の奥で救済を望む彼女は、踵を返すことなどできなかった。


 結局、草木の陰から、遠目の穴倉を覗く。

 その周りにオオカミはいない。

 が、キツネもいない。

 しばし待ったが、どちらも現れない。


 木々の静寂と雪の温度は、少女の希望を薄めていく。

 留まることは、苦しむことと同義であった。

 ただ足の動きに身を任せているのと、実らない期待をジッと耐え忍ぶのでは、雲泥の差がある。

 彼女の表情は、次第に雲っていった。


 切なく瞬きながら、小さな足音を待つ少女。

 祈ろうとしても、どんな言葉で祈ればいいか分からない。

 身動きを忘れ、森の奥の暗がりを、縋るように見つめる。

 その煩悶のすべては、虚しい徒労に費えていくだけ。

 さしたる考えもなく、襲い来る絶望からは眼を逸らし続けた。


 やがて、彼女は決めた。

 とうとう立ち上がって、恋しい穴倉へ背を向けた。

 闇に閉ざされた彼女の心中は、もはや声を持たなかった。

 だから、さめざめ泣いた。


 静寂に諦念を見出す。

 そんな彼女の耳を、草音がくすぐった。

 なにもかも吹き飛ばす勢いで、彼女は振り向いた。


 立ち上がって見る、途切れた草木の隙間。

 その限定された視界に、見慣れた黄色がチラつく。

 少女は涙目のまま、すぐに観察者に戻った。


 穴倉に近づく黄色は、まさしくキツネだった。

 その身体に木の葉をくっつけて、木の枝と食料を咥えて帰ってきたのだ。


 体験したことのない喜びが、少女の身体を突き抜ける。

 急な刺突、予期せぬ稲妻、込み上げるもの――とにかく、打ち震えた。

 その後で、ドンと心配に押された。

 一瞬前とは見違えるほど冷静になって、思慮を取り戻した少女は、なおもキツネを眺める。


 するとそこに、もう一匹の刺客が現れたではないか。

 僅かに血に塗れているが、その灰色の毛並みは、見紛うことなきオオカミの色だった。


 オオカミは木々の暗がりを出ると、瞬時に穴倉を見定める。

 そして、素早く走り出した。

 その姿を捉えて、少女は思わず眼を瞑った。

 もはや明らかなキツネの運命を、直視できなかったのだ。


 さっきまで降り続いていた雪が、にわかに止んだ。

 凄惨を表す音は、どこからも聞こえない。

 結末は眼を開けることでしか確認できないと、少女は悟る。

 おそるおそる、眼を開ける。


 すると、信じられない光景が彼女を迎えた。

 なんとキツネが立っていて、オオカミが倒れていたのである。

 血はオオカミが流していた。

 対して、キツネは木の枝を咥えて、誇らしげに立っていたのだ。


 少女は瞠目の中、勝利者であるキツネの口元へ注目した。

 咥えられた木の枝、その鋭い先端に血が付着している。

 オオカミが流したものだ。

 見ると、倒れ伏すオオカミの腹には、確かな刺突の跡が残っていた。


 雪は止み、視界は晴れ、少女は自然と笑顔になる。

 そんな彼女のことなど露知らず、キツネは穴倉へ戻っていく。

 その疲れ切った身体を丸めると、あっという間に眠ってしまった。


 少女はしばらく、愛おしさの余韻に浸った。

 動きもしないキツネを見つめて、ひたすら笑みを浮かべた。

 その胸の中には、不安や絶望など、影も形もない。

 勇ましきキツネの勝利によって、悲しみは丸ごと消え失せたのである。


 少女はいつまでも、キツネの安らかな眠りを見守った。

 喜びと興奮が冷めるまで、長い間そうした。

 現実の感覚を取り戻すまで、勇者から眼を離さなかった。


 そのうち、胸の熱さはゆっくりと薄らいでいく。

 現実に戻った少女が最初に気付いたのは、自分の足の痒みであった。

 喜びを奪う煩わしさに、彼女は眉を顰める。


 一匹の蚊が、その白い足に留まっていた。

 今まで帰路に襲ってきた痒みは、すべてこの虫が作り出したもの。

 因果関係を理解して、少女は些かの忌々しさを覚えた。

 こんなに血を吸われてはかなわない。


 煩わしくなって、平手を振り下ろす少女。

 それは矮小なる蚊の身体を捉えた。

 蚊の生死を確認するため、少女は自分の手のひらを見る。

 そこには捥げた蚊の足と、破裂した小さな血だまりがあった。


 不愉快だった。

 もう片方の手で、汚らしい残骸をピンと弾く。

 そして彼女は、また草木の隙間を覗いて、眠るキツネを見た。

 キツネの姿は、何度でも彼女を愛おしくさせた。


 もう夜が更ける頃だった。

 遅くなる前に帰らなければならない。

 しかし、キツネの姿が名残惜しい少女は、帰る前に一瞥する。

 それを最後にして、彼女は気分を良くすると、ようやく家に帰るのであった。


 少女が去った森に、雪がまた降り始める。

 はたかれた蚊は、白き土の中へと埋葬されていった。

 誰にも気にされないまま、その存在を永遠に忘れ去られて。

キツネがオオカミに勝てるワケあるか

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ