雪の森の生命
考えて書きました。
思い付きじゃありません。
その家の屋根には、いつも雪が積もっている。
あたりは木々に囲まれ、陽は遮られている。
朝の空気は白く、夜になると、暖炉の明かりだけが窓を照らした。
少女は家に住んでいた。
退屈していた。
いつも寒く、楽しみに飢え、景色は変わらない。
母親の作るご飯は美味しかったが、彼女はそれで満足できない。
親譲りの赤い髪を振り乱して、少女は木々の奥を目指す。
それは小さな家出で、退屈からの脱出である。
雪の森へ分け入ると、彼女は一匹のキツネを発見した。
慌ててしゃがんだ少女は、草木の隙間から眼を出して、キツネの様子を窺ってみる。
雪の絨毯の上を歩くキツネは、冷たい風に震えていた。
その姿はみずほらしく、少女に不安を抱かせた。
見ていられず、彼女は動こうとした。
しかし、足を踏み出す前に思い直す――いきなり私が現れたら、怯えて逃げてしまうかも?
心配を募らせつつも、冷静に踏みとどまる彼女。
そうして、ただ見守ることに決めた。
ほどなくして、キツネは木々の闇へ消えた。
§
翌日も少女は、雪の森へと分け入った。
その翌日も同じことをした。
その次も、その次も、小さな家出を繰り返した。
キツネの様子を見に行くために。
あのキツネとの邂逅以来、彼女には楽しみができた。
その頼りない生命を見守ることに、ひとつの興味が生まれたのである。
いつ行っても、震えるキツネは少女に気付かず、穴倉でうずくまっていた。
せいぜい風を凌げるだけの拠点。
そこにはただ、キツネだけが孤独に存在している。
なにかしてあげたい、しかし手を出せば怯えられるだろう。
見守るだけの少女には、為す術はない。
それでも、キツネの生きていることに、無上の喜びを感じていた。
可哀想なキツネにとっては、穴倉で震えることも、言うなれば平和なのかもしれない。
多くは望めずとも、それは小さな安心の形だった。
少しはマシになったキツネの境遇に、少女も安心を覚えていた。
しかし、そんな平和は続かない。
それはある日、キツネが食料を探して、穴倉を出ていた時のこと。
少女は確かに目撃にした。
キツネの穴倉の近くで、別の動物が歩き回るのを。
灰色の毛並みに、琥珀色の眼をギラつかせ、低く唸る。
飢えたオオカミだ。
オオカミを見つけると同時、怯んだ少女は逃げ出した。
自分が見つかってしまえば、襲われるかもしれない。
そう思うと恐ろしくて、いきなり家に帰りたくなったのである。
彼女は慌てて走りながらも、予期しない脅威について、少しだけ考えた。
もしもキツネと狼が出会ったら、どうなるだろう?
喰われるのはどちらか、考えるまでもない。
白い息を吐きながら、少女は予感した。
キツネのささやかな平和が崩れることを。
§
少女は足繁く、雪の森へと通った。
母親からは「あまり遠くに行かないようにね」と、いつも警告を渡されているが、家を出た途端に捨てる。
そんな賢い少女は、またキツネを見守る。
この頃にはもう、もしオオカミに出会っても、自分は大丈夫だと考え直していた。
出会った日に見つかっていないことと、未だにキツネに見つかっていないことから、草木の隙間が安全であることを理解したのだ。
あの日以来、オオカミは現れていない。
キツネの平和は脅かされることなく、まだ続いている。
その事実に、少女も一安心していた。
もしかすると、本当にもう現れない可能性もある。
心配を募らせる少女は、それを強く望んでいた。
幼気なキツネを守るために、彼女は毎日、ギュッと手を握った。
その固く瞑られた瞼の上を、赤い前髪が靡く。
しかし、願いは届かない。
――彼女はある日、キツネの食事を見守っていると、獰猛な遠吠えを聞いた。
脅威の接近を察知したキツネが、素早く穴倉の奥へ隠れる。
同じように、少女も身を強張らせ、見つからないように息を殺す。
じき、オオカミが姿を現した。
その眼には、前回よりも強い空腹が宿っている。
琥珀色の鋭い瞳が、ギョロギョロと辺りを見回す。
平和の破壊者が去るようにと、固く手を握って願う少女。
すると、今度は叶えられた。
危険な足音は、ゆっくりと去っていく。
少女がしばらく様子を窺っていると、穴倉からキツネが顔を出す。
機敏に首を振って、臆病な確認を済ますと、キツネはまた身体を丸めた。
その小さく弱弱しい身体は、不安だらけの少女の眼には、いつにも増して震えているようにも見えた。
オオカミと出会った翌日、キツネは穴倉にうずくまっていた。
穴倉の周りを見た少女は驚きを覚えた。
雪に記録されている足跡が、ひとつもない。
つまり、オオカミはここへ来ていないのだろう。
それに加えて、どうやらキツネは留守番ばかりしているらしかった。
少女はさらに不安を増して、また手を握る。
小さく声に出しながら、純粋な熱心さとともに祈った。
「神様……あの可哀想なキツネさんを、どうか助けてあげて」
純真無垢な少女の耳に、神の返事は届かない。
或いは、垂れ下がった赤い髪が、その鼓膜を塞いでいたためだ。
§
来る日も、来る日も、キツネの無事を祈る。
少女にできることは、それだけであった。
満足には程遠い行為であったが、やらないよりマシだった。
雪の森は格段に静けさを増し、木々の間には緊張が揺蕩っている。
心細さを感じながらも、少女はまだキツネを見守りに行った。
自身がオオカミに襲われる可能性は、もはや微塵も考えていなかった。
いつものように、草木の隙間から眼を出して、穴倉の様子を見る。
すると意外なことに、キツネは丸まっていない。
周りの足跡を見るに、どうやらキツネは、久々に外出しているらしい。
それを知った少女の心に、殴打の如き不安が去来した。
確かに、足跡はオオカミの存在を告げてはいない。
しかし、もしも外出中に出会っていれば、食べられる可能性は大いにある。
無事に帰ってこれるとは限らないのだ。
いくら心配を募らせても、キツネは帰ってこなかった。
今日の食糧探しに手間取っているのだろうか?
とにかく、長かった。
それでも少女は待った。
キツネの姿を確認するまで、家に帰ることなどできなかった。
帰ってくるようにと、強く念じていると――ようやくキツネは戻ってきた。
その口には、咥えられるだけの食糧が携帯されている。
キツネは穴倉に入ると、安心したように口を開いて、持ってきたものを放り出すのだった。
念願が叶えられたことに、少女は深く感謝した。
危うく泣きそうにまでなったが、それは堪えた。
今日、無事だったとはいえ、まだ安全と決まったわけではない。
再び気を引き締めて、神への祈りを再開する彼女だった。
それから毎日、少女は森へ足を運んだ。
キツネは外出の頻度こそ減らしていたが、食糧調達は欠かさない。
不在の穴倉を見ると、少女は小さく絶望する。
そして、なんとか帰ってくる家主を見るたびに、ホッと胸を撫でおろした。
たまにキツネは口元を切って、少し血を流していた。
食料に混じって、先端の尖った木の枝を咥えていることもあった。
不可解ではあったが、しかし少女は、無事に帰ってきたことだけを喜んだ。
食料を溜めておいて、無くなったら探しに行く。
キツネはおそらく、そういった計画的な行動をしているのだと、少女は確信していた。
そこからキツネの怯えを読み取ることは容易だった。
すべては捕食者から逃れるための、必然の行動なのだ。
心細くなるばかりの少女は、足元を飛び回る蚊にさえ気付かずに、キツネを見守っていた。
少女を隠している草木の隙間は、さながら神のノゾキアナだ。
向こうの世界には絶対に気付かれず、少女はただ、ひとりで懊悩を繰り返している。
が、そんなおかしさを自覚できるほど、冷静な彼女ではない。
渋々、家に帰る道中になって、初めて蚊に刺された痒みに気付くのだ。
彼女はどこまでも、キツネの安否を気にしていた。
§
そして、とうとう平和が脅かされた。
少女が穴倉の様子を見に行くと、そこにはキツネがうずくまっている。
安心したのも束の間、少女は重大な異変に気付いた。
雪の上に、足跡ではない赤色が点々と落ちている。
なにやらキツネの尻尾にも、赤いものが付着している。
よく見ると、その胴体にまで同じ色が付いていた。
視界不良な雪の中でさえ、眼を凝らさずとも分かるほど、それは黄色の毛並みに際立っていた。
血。
間違いなく、キツネは傷を負っている。
外出した時に、おそらくオオカミに襲われたのだろう。
キツネはかろうじて逃げ切って、今は恐怖で動けないのだ。
少女はすぐに手を握った。
眼を瞑って、現実から眼を背けるように、祈りに没頭した。
どうかキツネのもとに、また平和が戻ってくるようにと……
願いが聞き届けられる保証はない。
結果を見るまでは、受け取られたかどうかさえ分からない。
非常に頼りない拠り所でも、力を持たない少女は、頼らないではいられなかった。
キツネの生命が途絶えるのだけは、なにがなんでも見たくなかったのである。
少女はキツネの姿を望みながら、毎日森へ通った。
しかし、あの衝撃的な光景以来、いつ覗いても穴倉は空のままだった。
雪の上に血はないが、そんなことでは安心できない。
ここからは見えないさらに森の奥で、オオカミに襲われた挙句、息絶えた可能性だってある。
姿が見えるまでは、安心などできないのだ。
もはや寒さに震えても、少女は家に帰らない。
蚊に刺されていることも気にならなかった。
しかし、その熱心さをあざ笑うかのように、穴倉は空のままだ。
少女は自分で、いつまでも待っていられると思っていた。
しかし、夜の雪は耐えがたい冷たさを以て、彼女を襲う。
闇は母親の顔を想起させ、小さな彼女の心を締め付けた。
どれほどキツネを想っても、彼女は家へ帰ることを余儀なくされるのだった。
もはやキツネは死んでしまったのかもしれない。
少女は泣きながら、何度となく通った雪の道を、震えながら帰って行った。
§
愛すべき生命を失った悲しみに、少女は耐えきれない。
あくまでも希望を持つことでしか救われなかった。
確かめるように、絶えず雪の森をくぐった。
道中、少女の心中で、期待は淡くなった。
ただの無駄足だと直感して、潔く引き返そうともした。
しかし、疲れない両足に運ばれる彼女は、考えを纏めるより先に前進した。
どんなに歩いても、そんな懊悩が何遍も繰り返される。
心の苦しみは彼女を苛んだ。
それでも、心の奥で救済を望む彼女は、踵を返すことなどできなかった。
結局、草木の陰から、遠目の穴倉を覗く。
その周りにオオカミはいない。
が、キツネもいない。
しばし待ったが、どちらも現れない。
木々の静寂と雪の温度は、少女の希望を薄めていく。
留まることは、苦しむことと同義であった。
ただ足の動きに身を任せているのと、実らない期待をジッと耐え忍ぶのでは、雲泥の差がある。
彼女の表情は、次第に雲っていった。
切なく瞬きながら、小さな足音を待つ少女。
祈ろうとしても、どんな言葉で祈ればいいか分からない。
身動きを忘れ、森の奥の暗がりを、縋るように見つめる。
その煩悶のすべては、虚しい徒労に費えていくだけ。
さしたる考えもなく、襲い来る絶望からは眼を逸らし続けた。
やがて、彼女は決めた。
とうとう立ち上がって、恋しい穴倉へ背を向けた。
闇に閉ざされた彼女の心中は、もはや声を持たなかった。
だから、さめざめ泣いた。
静寂に諦念を見出す。
そんな彼女の耳を、草音がくすぐった。
なにもかも吹き飛ばす勢いで、彼女は振り向いた。
立ち上がって見る、途切れた草木の隙間。
その限定された視界に、見慣れた黄色がチラつく。
少女は涙目のまま、すぐに観察者に戻った。
穴倉に近づく黄色は、まさしくキツネだった。
その身体に木の葉をくっつけて、木の枝と食料を咥えて帰ってきたのだ。
体験したことのない喜びが、少女の身体を突き抜ける。
急な刺突、予期せぬ稲妻、込み上げるもの――とにかく、打ち震えた。
その後で、ドンと心配に押された。
一瞬前とは見違えるほど冷静になって、思慮を取り戻した少女は、なおもキツネを眺める。
するとそこに、もう一匹の刺客が現れたではないか。
僅かに血に塗れているが、その灰色の毛並みは、見紛うことなきオオカミの色だった。
オオカミは木々の暗がりを出ると、瞬時に穴倉を見定める。
そして、素早く走り出した。
その姿を捉えて、少女は思わず眼を瞑った。
もはや明らかなキツネの運命を、直視できなかったのだ。
さっきまで降り続いていた雪が、にわかに止んだ。
凄惨を表す音は、どこからも聞こえない。
結末は眼を開けることでしか確認できないと、少女は悟る。
おそるおそる、眼を開ける。
すると、信じられない光景が彼女を迎えた。
なんとキツネが立っていて、オオカミが倒れていたのである。
血はオオカミが流していた。
対して、キツネは木の枝を咥えて、誇らしげに立っていたのだ。
少女は瞠目の中、勝利者であるキツネの口元へ注目した。
咥えられた木の枝、その鋭い先端に血が付着している。
オオカミが流したものだ。
見ると、倒れ伏すオオカミの腹には、確かな刺突の跡が残っていた。
雪は止み、視界は晴れ、少女は自然と笑顔になる。
そんな彼女のことなど露知らず、キツネは穴倉へ戻っていく。
その疲れ切った身体を丸めると、あっという間に眠ってしまった。
少女はしばらく、愛おしさの余韻に浸った。
動きもしないキツネを見つめて、ひたすら笑みを浮かべた。
その胸の中には、不安や絶望など、影も形もない。
勇ましきキツネの勝利によって、悲しみは丸ごと消え失せたのである。
少女はいつまでも、キツネの安らかな眠りを見守った。
喜びと興奮が冷めるまで、長い間そうした。
現実の感覚を取り戻すまで、勇者から眼を離さなかった。
そのうち、胸の熱さはゆっくりと薄らいでいく。
現実に戻った少女が最初に気付いたのは、自分の足の痒みであった。
喜びを奪う煩わしさに、彼女は眉を顰める。
一匹の蚊が、その白い足に留まっていた。
今まで帰路に襲ってきた痒みは、すべてこの虫が作り出したもの。
因果関係を理解して、少女は些かの忌々しさを覚えた。
こんなに血を吸われてはかなわない。
煩わしくなって、平手を振り下ろす少女。
それは矮小なる蚊の身体を捉えた。
蚊の生死を確認するため、少女は自分の手のひらを見る。
そこには捥げた蚊の足と、破裂した小さな血だまりがあった。
不愉快だった。
もう片方の手で、汚らしい残骸をピンと弾く。
そして彼女は、また草木の隙間を覗いて、眠るキツネを見た。
キツネの姿は、何度でも彼女を愛おしくさせた。
もう夜が更ける頃だった。
遅くなる前に帰らなければならない。
しかし、キツネの姿が名残惜しい少女は、帰る前に一瞥する。
それを最後にして、彼女は気分を良くすると、ようやく家に帰るのであった。
少女が去った森に、雪がまた降り始める。
はたかれた蚊は、白き土の中へと埋葬されていった。
誰にも気にされないまま、その存在を永遠に忘れ去られて。
キツネがオオカミに勝てるワケあるか