池袋 階段落ちで 異世界に
今日から始めます。よろしくお願いします。
全ての天才が才能を発揮出来るとは限らない。
もし、モーツァルトが音楽家の家ではなく兵士の家に生まれていたら、彼の音楽は世に出る事は無かった。
もし、宮本武蔵が明治時代に生まれていたら剣豪として名を馳せる事も無かった。
どんなに才能が有っても、発揮出来なければただの人。
これは、そのただの人が才能を発揮出来る世界に行く物語。
いつもの朝の満員電車、俺、長崎英二42歳は座って寝ていた。
池袋に勤務先があるこの埼玉県民にとってはこの通勤時間も大事な睡眠時間となる。昨晩も寝に帰っただけだ。
なんでも、埼玉県民は全国で最長の通勤時間であるのに対し、睡眠時間は最短らしい。
『今日もよく寝たなぁ』
俺は池袋駅に着く2分前に携帯電話のバイブレーションをセットして寝過ごさないようにしている。
悲しいかな、社畜生活も慣れたものである。
『はぁ、今日も仕事か』
行きたくはないが、憂鬱で仕方ない会社に今日も向かっている。電車が1番線ホームに到着し、ドアが開いた。
『会社に行かなくてもいい人生って送ってみたいな』
心底そう思いながら立ち上がり、ドアに向かっていたその時だった。
「痴漢!この人痴漢です!」
突然40歳くらいの気の強そうな女性がキンキンと金切り声を立てる。
この人と言われた男は、俺?
「おっ、俺?」
「貴方さっきから私のお尻を」
「今まで座ってました!触ってません!本当の痴漢はもう出て行ったんじゃないんですか?」
「座っていようが関係ないの!絶対に貴方は痴漢よ!」
無理が通れば道理が引っ込む。近くに居た、目が合ったとかの理由で犯人にされるタイプの人間なんだな、俺。
『不味いな。女が痴漢と言ったらほぼ100パーセント有罪になるぞ。やってないのに』
駅員に捕まり駅の事務室にでも行ったら最後、警察に引き渡される。
警察は基本的に平等性を保った捜査などしない。警察官が描いた筋書きに沿って捜査する。
痴漢行為の場合、1000000パーセント女性側の証言のみ信用する。それがどんなに無茶苦茶な理屈でもだ。
もちろん数多くの女性が痴漢行為に苦しんでいるので、警察としてはそうした側面が有るのかもしれない。
だが一方で冤罪に苦しむ男性も数多いのも事実である。
何かで見た痴漢冤罪の最良の選択は、逃げる事!
池袋駅1番線2番線ホームから脱兎の如く駆け出した。
「俺はやってない!」
集まって来た駅員にそう言い捨て、階段を駆け下りる。
この階段は上半分が17段、途中広くなって下半分が19段あるが、年齢のせいなのか下半分に差し掛かる所で他の客をかわそうとしてバランスを崩してしまった。
後はそのまま階段を転げ落ちるだけだった。
巻き添えになった人がいない事が不幸中身の幸いか。
ヤバイ、頭を打った。受け身なんて取れなかった。
何故か痛いという感覚は無かった。意外なまでに冷静でいられる。
「大丈夫ですか?」
ホームに上がろうとする女性が声を掛けても、声に出して返事が出来ない。
すぐ近くの立ちそば屋に並んでいた客も寄って来る。
「大丈夫ですか?」
「救急車!」
見ず知らずの人達が声を掛けてくれるが、それに何一つ応える事が出来ない。
『俺、死ぬのか?痴漢として』
もうろうとしながらも、そんな事を考えた。
『42歳の独身男、痴漢行為で逃げようとして階段から転落死』
なんて記事になるのかな…最悪だ。
意識が薄れていく中で最後に微かに聞こえた言葉
「この人、消えていってない?」
「私は話し合いに来たのです!その手を離して!」
「だから話し合おうぜ、身体で!」
薄暗い部屋の中で男女が口論している。正確には男が女の手を取り、今にも押し倒さん勢いだ。
「その手を離して!人を呼ぶわよ!」
「呼んでも誰も来ないし、来たとしても呼んでどうする?俺に勝てる奴なんかいる訳ないだろ!俺がその気になればこんなチンケな村、どうとでも出来るんだぞ!」
男は女に舐めまわす様に顔を近付け、女は顔を背ける。細やかな抵抗か。
「せいぜい楽しませてくれよ!」
男は息を荒くし、空いているもう片方の手で胸を鷲掴みにせんと伸ばす。女が拒むと、今にも女の華奢な身体を押し倒さんとしている。
「イヤ!誰か!誰か助けて………」
最後は声にならない。
女は何とか手を振り払い、狭い部屋の隅まで逃げるがその先に逃げ場所は無い。
「さあ、大人しくしたら優しくしてやる。呪われているお前を女にしてやるんだ。感謝しろ」
獲物を追い詰める様にジリジリッと迫る。
「うわっ!」
男は何かに躓く。薄暗い部屋だが、そこに人間が倒れていることは分かった。
「な、なんだお前!」
お前こそ何なんだ?と思いながらヨロヨロと起き上がろうとするが、男に蹴り上げられてしまう。
更に仰向けになった俺の首を両手で締め上げる。
「止めて!その人は関係ないわ!」
「うるせー!関係ない奴がこんな所に来るか!邪魔する奴は絞め殺す!」
状況は飲み込めないが、自分が絞められていることは理解出来た。
「やめ………」
首を絞められて声にならない。
俺は両手で自分の首を絞めている男の手を掴みながら、強く思った。
『やめろ!』
ボォウァン!
何かが破裂した様な音と共に首は解放された。男の腕はあらぬ方向に曲がってしまったのだ。
「グワァッ!お、お前、何をした!」
男は苦痛に悶えながら問いかける。その目は大きく見開き、血走っているが、聞かれても俺だって分からない!
ただ分かるのはコイツは危なそうだ。もう片方の腕も折った方がいいだろうと判断した。
思うが早いか、もう片方の腕に先程と同じように自分の両手を当てて念じた。
『折れろ!』
前にサッカーの試合をスタジアムで観戦した。たまたま目の前で起きた接触プレーで片方の選手が骨折してしまった。
バキッ、とかボキッではなく、何か破裂音の様な音がした事を覚えている。
あの時と、そして先程と同じ音と、耳障りな悲鳴がが再度狭い部屋で響くと、もう片方の腕も酷いことになっている。両腕はもう自分の意思では動かせないだろう。
「腕をへし折っただけだ。次は足か?首か?」
さも当然、と言った具合に平静を装ったものの、何が起きたか全く理解不能だ!
内心はかなり焦っている所の話じゃない!
壁際に追い詰められていた女が駆け寄る。
「ありがとうございます!」
栗色のサラサラのセミロングの髪に顔立ち、どう見ても外国人だが言葉は通じる。
どうなっているんだ??
でも、そんな事はどうでもいい!なんて美しいんだ!
「私はソフィ。村長の娘です。貴方は見ないお顔ですが、どうかお名前をお聞かせ下さい」
「長崎英二です」
このソフィと名乗った少女、映画のヒロイン役でもおかしくない様な整った小顔の美女。
さっきから心臓の鼓動がおかしい!
一目見たくだけでこの心臓を鷲掴みにされた様な感覚、これまでの人生で初めてだ。
「ごめんなさい、もう一度お願い出来ませんか?」
「ナガサキエイジです!エ、イ、ジ!」
外国の人っぽいから、馴染みの無い名前は覚えにくいかもしれない。俺は意識してはっきり分かるように発音した。
「まぁ、エイジ!ごめんなさい。貴方は恩人です!」
「当然の事をしたまでです。すみません、会社に行かないと」
ソフィの前から去る事はかなり心残りではあるが、社畜の性。俺は辺りを見回しながら落ち着かない。
一方のソフィは首を傾げて聞いてきた。
「カイシャ?」
「そう、残念ですが会社に行かないと。今何時だろ?」
腕時計を見る。7時2分、いつも池袋駅に着く時間だ。そして、駅の階段から転げ落ちたはずの時間。
俺は扉を開けて外に出る。すると外に広がる夜の闇が否が応でも目に入る。
頭の中がすっかり混乱して事態が飲み込めない俺に、ソフィが申し訳なさそうに聞いてきた。
「あのエイジ、カイシャって何ですか?」
その前に俺が知りたい。ここはどこ?
貴重なお時間を頂きましてありがとうございます。
感想とか頂ければ幸いです。
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