⑥東京の川魚
今回は少し長くなりました。その代わり、ただ食べるだけではないお話です。
君はどんなモノを食した事があるか。
必要以上に身分不相応な山海の珍味を食したか。
或いはまだ見ぬ未経験の味に驚愕したか。
人はモノを食い生きる。
ただそれだけの為に生きて何時か死ぬ。
ただそれだけの為に食べるのだ。
しかし、人は飽きる生き物である。毎日同じじゃあ、つまらんぞ?
たまには好奇心の赴くままに、食してみようじゃないか。
それが自らの手で得たモノならば、一味違うかもしれないのだから。
稲村某はその昔、東京に居た。
「あら、都会育ちだったの?」と勘違いされぬよう断っておくが、23区ではない。東京都を魚に見立てるならば、大体腹のど真ん中。昭島市の生まれである。
知らぬ方に教えると、昭島市とは……
……済まない、本当に何もない所なのだ。まぁ、正月恒例の大学対抗箱根駅伝の予選が行われる国定昭和記念公園が右脇に在る、位しかググれる参考資料の無い場所だ。今は行われているかは知らないが、過去に市内を流れる多摩川の縁で、クジラの化石が見つかった事で始められた「昭島くじら祭り」とかいう行事が暫く有った事は覚えているが、それは全く関係無い。
さて、そんな湿気た場所で育った稲村某は、やがて昭島市から青梅市へと引っ越した。
東京都に詳しくない皆様が判るように説明すると、魚に例えた東京都(シーラカンスみたいに見えないか?)のエラの辺りである。そこが、青梅市だ。
そんな青梅市は東京の奥座敷、奥多摩の入り口として古くから栄えた街……だが、とにかく田舎である。なにせ都心を貫く中央線が延々と走り抜けていった先で、複線から単線に変わる場所が青梅市である。酔って乗り過ごした皆様が、終着駅の青梅で起こされて「……どこ、ここ……?」と途方に暮れる場所として有名だろう。ちなみにタクシー使って立川辺りまで戻ると六千円は掛かるから、素直に一泊した方が安いぞ?
と、東京各所をディスった所で、青梅市在住時代は何をしていたか、と問われれば、
……釣り、それも渓流釣りに凝っていたのである。
川の上流、それも山から湧き出した清水が集まるような清流には、ヤマメやイワナを代表に様々な渓魚が生息していて、それら野生種や放流されたニジマス等を狙う毛鉤釣りに明け暮れていたのだ。
仕事が休みの朝、まだ日が昇らぬ内に実家を出発し、大きなキャリアボックス(バイク便時代に貰ったFRP製の一点モノ)を積んだバイクで西に向かうと、青梅街道はやがて奥多摩へと差し掛かる。辺りの景色はヒノキ等の常緑樹ばかりになり、都会のイメージとは違う森林地帯の様相へと変わっていく。
暫く山道を走り続けて行くと、狭い脇道を経て目的の管理釣り場へと到着する。有料の釣り場だが、その分キチンと釣れる魚も確保されていて、半ばギャンブルじみた予測抜きで魚が拝める環境である。
「大人半日券、お願いします。」
管理釣り場の小さなログハウス風の受付で入漁券を購入し、逸る気持ちを抑えながら準備を調えて川へと向かう。
ウェーダー(腰までの丈の防水タイツ)に専用のフェルト底の靴を履き、毛鉤や糸を入れたカバンと釣竿、そして魚を入れる生かし魚籠を提げて管理棟の脇から入渓地点に辿り着き、煙草に火を点けながら静かに川面を眺める。
魚は勿論居るのだが、容易に近付ける場所は既に先行者が叩いて(釣り用語で釣りをした者が居る意味)いるに決まっている。その証拠に魚は過敏な反応を示し、人の姿を確認した瞬間、脱兎のごとく岩陰や流れの底へと逃げ込んでしまった。
……焦らない、焦らない。直ぐに毛鉤を投げても構わないが、今日はご覧のように先客が既に居て一番乗りでは無かった。ならば、先回りしてポイントを分け合う事にするか。
管理釣り場、と聞いて『川の縁に腰掛けて釣糸を垂らす』と思った方、それはフナやコイの居る釣り堀のイメージである。渓流の管理釣り場は広い所だと、仕切られた数キロにも及ぶ川の流域全てが魚釣り場になっていて、釣り人は互いに譲り合ったり先回りしながら釣りを楽しむ環境なのだ。
その日は車の客ばかりだったので、路上駐車が容易なバイクで動けばポイントは選べる筈である。ならば、迷惑にならない範囲で先回りするのが得策、と言う事でヘルメットを被り、ウェーダーのままバイクに跨がり走り出した。
トタタタッ、とオフロードバイクを走らせて山道を遡り、先客が停めた四輪駆動車を尻目に更に先へと向かい、車が停められないような狭さの路肩にバイクを寄せて停車し、少し歩いてガードレールの切れ目から急斜面を慎重に降りて、無人の川辺に到着する。
……さて、さて。川面を眺めてみれば、魚は居る。
偏向サングラス越しに見える水中には、大小の黒い魚体が俊敏な動きで泳ぎ回り、上流から流れてくる水棲昆虫や羽化したカゲロウ等を盛んに補食している様子が垣間見える。
一度深呼吸して気を落ち着かせ、毛鉤ケースから茶色い擬似針を取り出して、竿先に結んだリーダー(釣針に直結したハリスと竿先を結ぶ太い糸)を手繰りハリスを掴んで結び付け、毛鉤の周りに水面に浮くようフロータント(粉又はリキッド状の撥水剤)を塗り付けてから、狙い澄ましてやや上流に投げ込む。
すううぅ、とリーダーに伝達した遠心力がハリスを伸ばし、その先の毛鉤が水面手前で一度直上に舞い上がってから、静かに水面へと落下する。
毛鉤が着水し、ふわっ、と浮きながら魚が水中を漂うポイントへ、流れに乗り静かに移動していく。毛鉤に結んだ糸が水面に着かぬよう、竿先をやや吊り上げ毛鉤を送り込みながら、その瞬間を待つ。
……ぴぴびぴぴっ!!
頭の上を小鳥が鳴きながら飛び去り、その影に怯えた小魚が逃げ惑うが、大きな魚達は動じずに餌を漁っている。よし、よし。俺の気配は悟られていないようだ。そのまま、流されていく毛鉤を凝視する事、数瞬。
……ひ、ひりり。
音で現すならば、流れに乗って浮きながら移動する毛鉤はそんな動きをしながら流されていく。
まるで生きているカゲロウが末期の際に着水し、もがきながら再び空中へ戻ろうとするかのように、毛鉤が震えながらゆっくりと魚が待ち構えるポイントに流されていくと、
……ゆらり
小柄で稲妻のように俊敏な動きで餌を求めて動き回っていた魚達の真下から、太い木の棒じみた黒い魚体が浮き上がり、慌てて逃げ惑う小魚を蹴散らすように一番餌が流れてくる場所を陣取り、ゆっくりと尻尾を揺らしながら上流へと頭を向けて泳ぎ続ける。
やがて、毛鉤が奴の鼻先より僅か手前に到達すると、そいつは僅かの間だけ真っ直ぐ上流に向いて素知らぬ振りをしていたのだが、
……ぐるり、ばちゃん
黒い魚体が突如水面を割り、流されてきた毛鉤に食い付くや否や大人の掌並みの尻尾で水面を叩きながら反転し、用は済んだと言わんばかりの勢いでぐいぐいと水底目掛けて泳ぎ進む。
間髪入れず竿を持ち上げる。ズシン、と手元に確かな重量感が伝播し、相手が相当な大物と示唆しながらみりみりと竿を絞り込む。
……きりきり、りりり
時折、竿先を引き込みながら魚は抵抗し、その度に撚り合わせてあるナイロン糸が琴の如く鳴り、針元の糸を結んだ自分を信じつつ、バレるなバラすな、と念じながら格闘を続ける。
時に竿を緩めて糸を送り込み、時には力を振り絞って竿を引き上げて魚を動かし続け、とうとう頭を水面まで持ち上げさせられた。
……デカイな、こりゃあ!!
相手は軽く指先から肘まで届きそうなイワナ。濃い緑に独特の斑点を有する魚体を鈍く光らせて、ゆらゆらと身体を揺らしながら水面下に沈めたタモ網に近付くと、すぽりと中へ入ってくれた。
一気に緊張感が緩み、ははぁ……とため息を吐いた後、網の中で暴れるイワナの口から毛鉤をクランプ(手術用の鉗子)で外し、水気を拭ってから竿の手元に刺した。
一仕事終えた充実感から解き放たれて、煙草に火を点けて、一服。
もや、と煙が木々の梢に届いた時、活かし魚籠の中でイワナがばちゃり、と跳ねた。
さて、さて。
やがて半日券の持ち時間も終わりに近付き、魚を絞める頃合いになった。
受付脇に設置された流し台にやって来た稲村某は、愛用のスパイダルコ(アメリカのナイフメーカー)を取り出して、頭を柄で殴って気絶させると、尻穴からエラ元まで一気に切り裂き、内臓とエラを外す。そして背骨に沿って付いている血合を指で擦りながら水で流し、内臓は臓物缶に捨てて片付け完了。
釣り場から少し離れた川沿いにバイクを走らせて、人気の無い河原へ向かい、流木と落ち葉を集めて火を起こし、枝を削ってイワナに踊り串を打ってから塩を擦り込んで、囲炉裏代わりの岩に立て掛けて炙る。
やがてジリジリと脂が滲み出し、魚の身に脂が滴って黄金色の焼き具合に変えていく。そうして何度も返したり位置を変えたりしながら身にじっくり火を通して小一時間が経過した。
……出来上がった。早速、食してみようか。
黄金色の皮にかぶり付くと、かりりと小気味良い歯応えと共に皮は破れ、中に封じられていた脂と白い肉が躍り出る。
じわ、と滋味が顔を覗かせて、舌先から付け根まで纏うように野趣溢れる芳香が口一杯に広がっていく。
あふ、と熱さに耐えつつ噛み締め噛み締め、魚の旨味を堪能すれば、背中の身があっという間に無くなっていく。
逆さに刺して焼いたイワナである。頭もカラカラに成る程、火は十分に通っている。躊躇わず一気に頭へ噛み付くと、くしゃりと呆気なく歯で噛み砕けて芳ばしい事といったら……食えないのは目玉の芯だけである。口の中に残ったそれをプッと吐き出して、腹側の身へと食らい付く。
かしゅっ、と背骨を残して食い千切ると、あばら骨は何処にいったのか、と思う程の軽さで噛み砕け、腹鰭を吐き出してしまった後には背骨と尾鰭しか残らなかった。
炉に組んだ岩を解し、消し炭に沢の水を掛けて消火した後には、イワナの骨しか無い。それもやがて動物か昆虫が綺麗に平らげてしまうだろう。
川には暫く行っていない。しかし、山深い渓流には今でもきっと、様々な魚達が人間の営み等全く気にせず、太古の昔と変わらぬ姿で生き続けているだろう。
ヤマメの燻製や、ニジマスのソテー、そしてイワナの刺身とかも食ったな。ではまた次回もお楽しみに!