五話 『帰還の朝』
「師匠……? もしかして、人間のですか?」
「ああ」
そうとだけ言って、彼はさっさと食器を片づけ始めてしまった。イレーネもそれに続き、台所で並んで食器を洗う。
タオルで自分の手を拭くと、彼は階段を指差した。
「寝室へ案内する。ついてこい」
「は、はい!」
二階に上がると、簡素だが手入れの行き届いたベッドが一つだけぽつんと存在していた。
「あの……」
「明日はお前を町まで案内する。寝坊されても迷惑だ、早く寝ろ」
「あ……はい」
突き放した言い方で彼が言い、イレーネはそれきり何も言えなくなってしまった。
彼がイレーネとできるだけ関わろうとしていないのは、一目瞭然だった。
それはきっと彼が、人間にとってゴブリンがどのような存在か知っているから。
必要以上に脅えさせないように冷たく振る舞っているのだ、そう考えるとイレーネの瞳には彼の後ろ姿がとても優しげに思えてしまった。
もちろん、こんなことは本人には言えない。
「俺は一階で寝る。これは部屋の鍵だ」
安心させるように、彼はイレーネにこの部屋の鍵を渡してさっさと一階に戻って行ってしまった。
イレーネは、鍵をかけることなくその部屋の扉を閉めた。
暗い部屋で一人、イレーネはベッドにもぐりこんだ。
布団からは太陽の匂いがして、安心する。
「……」
今日一日の出来事が、走馬灯のように駆け巡る。
ゴブリンの群れに追いかけられたこと。
彼に助けられたこと。
彼に、優しくしてもらったこと。
イレーネは、胸が何かで一杯になるのを感じていた。
「お礼を、しないと……」
関わろうとしない彼に、自分ができることは少ないだろう。
この家を見るに、日常生活においても彼は一人で完結している。
助けられた恩どころか、優しくしてもらった恩も返せていない。
与えられてばかりの自分に、何ができる。
「……」
疲れ切った体に、ベッドの温かみは猛毒だった。
考えて、最後まで考えながら――彼女はゆっくりと眠りについた。
* * *
イレーネが起きて階下に降りると、彼はもう朝食の準備を始めていた。朝から外套をかぶったままの彼は、いまだ素顔すら見せてくれそうにもない。
「あ、手伝います」
「必要ない」
「……」
勇気を出した好意を、彼はいともたやすく断ち切ってしまった。
だが、その宣言通り彼は慣れた手さばきでどんどんと料理を作っていく。完成された無駄のない動きに、介入の余地はなかった。
「な、何かやることありますか? お世話になりっぱなしというのも、申し訳ないですし」
「……そうだな」
縋るような声音に、彼は少し考え込む素振りを見せた。無論、その間にも料理を作る手は止まっていない。
「近くの小川がある。顔を洗うついでに水を汲んできてくれるか。桶は玄関脇にある」
「わ、分かりました!」
今度こそ「必要ない」と断られなかったことに弾んだ気持ちになりながら、イレーネは桶を手に取り小川へ向かった。
「汲んできました!」
「助かる。桶の水をそこの水がめに移してくれるか」
「分かりました!」
快活に返事をしたイレーネは、水がめへ勢いよく水を流し入れた。
水を移し終えて振り返ると、もうすでに朝食が用意されていた。
湯気を立てる朝食に、思わずイレーネの腹が鳴る。
彼はそれに一瞥をくれたのち、さっさと席に着いてしまった。
「朝食だ。食べ終えたら出るぞ」
「は、はい。いただきます」
これがこの家での最後の食事となるのだと、一日も滞在していないのになぜか寂しく感じられてしまう。
それでも、彼に迷惑はかけまいとイレーネは次々に食事を口に運んだ。
「ごちそうさまでした」
イレーネが立ち上がり、食器を流し台において洗おうとし始めると、男の静止の声が聞こえた。
「やらなくていい。それよりも早く出るぞ」
「すみません。……なにからなにまで、お世話になりっぱなしで」
「別にいい」
彼は短くそう告げると、玄関の扉を開いた。朝の光が、彼の姿を照らした。
眩しくて、思わず目を細めてしまう。
「準備はできているようだな。行くぞ」
「はい」
そして、二人は家を後にした。イレーネはその表情に一抹の寂しさを残し、彼はいつもどおり外套姿で。
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