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「で……では。これは、貰っていっていいんだな? 本当に」

「アア」


 恐る恐る訊いたのにも、怪物は背中で返事をした。

 王子は次第に、自分の緊張がほぐれてくるのを感じていた。

 もちろん、すぐにこれを持ってここから立ち去るのが一番いい選択だ。そのことは分かっていた。しかし。


(そうしたら、こやつにはもう二度と会えない……?)


 なぜか知らないが、そう思った。

 この爪は、明日また明るくなったら兵たちが同じ場所に戻しにくるのだ。自分が彼のことを父や臣下たちに告げてしまったら、大勢の兵がやってきてここを家探ししてしまうかもしれない。

 この男──声からして恐らくそうだ──だって、そのぐらいのことは考えていよう。自分が去ったすぐ後で、根城を変えてしまうのに違いない。


 と、怪物が少し顔をめぐらせた。周囲を観察したらしい。

 男の斜め後ろには、すっかり煤けて白い靄がたちこめたようになった大鏡がある。ほとんど物を映すことのできなくなっている鏡面の下半分は、すでに割れて砕け落ちていた。

 男はそれに目を走らせ、一瞬びくりと体の動きを止めた。

 明らかに、己が姿に驚いたようだ。髑髏のマスクに覆われた自分の顔を、そろそろと手でさするようにしている。

 再び重苦しい沈黙が場を支配した。


「あ……その」


 恐るおそる立ち上がりながら声を掛けたら、怪物はやや半身になってこちらを見た。月明かりを跳ね返す瞳は、美しい金色をしていた。王子は自分でも驚くぐらいそれに目を奪われて、しばらく声を出せなくなった。

 なんだろう。

 その瞳は、こんな恐ろしげな生き物が持つにはあまりに静かで、澄んだ色を湛えているように見えた。

 そうして、ひどく悲しげだった。

 まさかとは思うけれど、自分の姿に驚き、失望しているのだろうか?

 王子はあれこれ逡巡したあげく、気がついたらこんなことを訊いていた。


「なぜ、そなたはここにいる? いったい何をしていたんだ?」

 怪物は少し考えたようだった。

「……ワカラヌ。長イ長イアイダ、眠ッテイタ。コノ地下デ」

 太くて長い、爪の生えた指先が静かに足もとを示した。

「そうなのか」


 ずっとずっと昔。男はこんな姿ではなかったらしい。

 それで、なにか大きな(いさか)いに巻き込まれ、その当時随一の剣士と(うた)われた、勇壮なひとりの若者と戦うことになった。

 確か、そばにはその剣士の仲間である魔導師たちもいたと思う。

 剣士に負け、男は魔導師らに眠らされた。

 以降のことは、記憶にない──。


「じゃ、じゃあ……。それからずうっと、ここの地下で眠っていたと?」

「そうだ」


 ぽつりぽつりと話すうちに、彼の声はかなり聞き取りやすいものになってきたようだった。よくよく耳を澄ますと、骸骨の被り物でくぐもってはいるものの、深くて艶のあるいい声だ。それは不思議と聞き心地がよかった。

 あれで耳のそばで甘い言葉でも囁かれたら、女性ならいっぺんにうっとりするのではないだろうか。単純に声だけを聞いていれば、非常に男ぶりのいい剣士か何かを彷彿とさせられるほどである。

 その声音が醸し出すのは、決して酷薄なものではない。むしろ、まったくその逆だった。

 気が付けば、王子はほんの二、三歩ほどの近さまで怪物に近づいていた。


「ひ、……ひとは、本当に食べないのだな?」

「当然だ」


 いい加減にしろ、と言わんばかりの声で男は言った。

 ほとんど唸り声のようだった。


「そ、その……面は? どうしてそんなものを着けているんだ?」

「そなたは質問ばかりだな」


 やや呆れたようにそう言ってゆらりと身を翻すと、怪物はそこいらに倒れていた椅子のひとつを持ち上げて据え直し、どかりと腰を下ろした。


「この面は、取れぬ。先ほどから色々とやってみているが、顔に張り付いているらしい。無理に剥がせば顔の皮膚ごと剥がれるだろう」

「うわ……」


 王子は思わず顔を(しか)めた。想像するだけで、こちらの顔まで傷めてしまったような気になったのだ。


「それにしても、おかしな奴だな。俺のことが怖くないのか? 先ほどは、今にも漏らしそうなほど(ひる)んでいたくせに」

「しっ、失礼なことを申すな!」

 王子は真っ赤になって憤慨した。

「もっ、もも……漏らしたりなんか、せぬ! 絶対」

「……そうか」


 ちっとも信じた風もなく、しれっと怪物が返事をする。

 王子はむうっと口を尖らせた。何やらむかつく。


「ま、まことだぞ。これでも私は、今日で成人なのだからな! もう子供ではないのだから」

「成人か。いくつだ」

「数えの十七」

「子供だな」


 ばっさりと斬り捨てられて、王子は目を丸くした。

 続く言葉を見失って、口をぱくぱくさせてしまう。


「なっ……なな……だから、失礼であろう! これでも私は、この国の王太子──」

「それはさっき聞いた」


 くふ、と何か聞こえたと思ったら、怪物が含み笑ったらしかった。


「だが、困ったな?」

「な……なにがだ?」

「一国の王太子殿下ともあろうものが、こんな荒れ城でちょっと怖いものを見たからといって、へっぴり腰で尻もちをつき、悲鳴をあげてお漏らしを──」

「だっ……だだだからっ! だれも漏らしてなどいないいいッ!」


 とうとう王子は首まで真っ赤になって叫んでいた。



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