1 庭園にて
「アーチェ。アーチェはいないか」
王家の庭園を歩き回る、若き青年王の声がする。
かつて「古城」と呼ばれた城である。花々の彩が滴るような麗しい中庭で、王はきょろきょろと周囲を見回した。
蒼穹に向かってのびる濃紺の尖塔群は、すらりと美しい曲線で青空を切り取っている。
今やこの山城は、この青年王の持ち物だ。
あちらこちらを歩きながら呼ばわっていると、やがて庭の隅から声がした。
「は。ここに」
応じたのは、低く深い男の声である。
「ああ、そんなところに居たのか。何をしていたんだ?」
「今年は、蒼い薔薇がようやく美しく咲いたと聞きまして。こちらの庭師が生涯をかけ、苦心を重ねていたものです。ぜひとも一輪、陛下にお目に掛けようと」
「……よさないか」
王が静かに笑う。
やや弱々しい笑声だった。
「二人きりだぞ。アーチェ……いや、ザック」
男の声も、ふわりと笑った。
「そうですな」
長い黒髪をした騎士姿の男は、ふいと立ち上がると、希少な蒼い花を胸に王に近づいた。まるで影が歩くように、ほとんど音も立てなかった。
「どうぞ、陛下……いや、マックス」
呼びかけた途端に飛んできた冷たい視線に気づいたのか、騎士は途中で素直に言葉を変えてきた。
「それでよい」
すぐに表情を和らげると、王は男の手から花を受け取り、自分の鼻先に近づけた。
「よい色だ。形も大きさも、まことに品がいい。ほのかによい香りもするな」
「はい。陛下によくお似合いです」
「お世辞はいいよ。すべて庭師の手柄であろう」
儚い風情で苦笑する王を、男はほんのしばし目を細めて眺めていたが、やがてすいと抱き寄せた。
まるで、恋人にするように。
その胸に素直に顔をうずめて、王は目を閉じる。
上から静かな声がした。
「苦労ばかり掛けて申し訳ない」
「何を言う。正妃のことなら、皆もうとっくに諦めてくれているさ。私の『子種がない』との苦しい言い訳も、このごろではようやく納得してくれつつあるしな」
王の少し長めの亜麻色の髪を、男の手が優しく撫でる。
「弟もこのところ、随分成長してきてくれている。幸い、とても利発な子だ。しばらくは後見が必要だろうが、あと数年で譲位も叶おう」
「……そうは申すが」
「私は、あなたがいればいい」
遮るようにきっぱりとそう言うと、王は相手の胸を少し押しやった。
「もう決めたのだ。……いや」
軽く睨むように男を見上げる。
「とうに決めていた。あの時に」
この男が、あの呪われた禍々しい姿から救われた日。
あの日、「魔王ザカライア」はこの世から消えた。その代わりに現れたのは、この美丈夫の青年だった。
もちろん、三百年もの時を越えた体である。魔法が解けて人に戻ったとたんに干からびて、土に還る可能性もあったわけだが。
彼の体は、幸いにして時を止めた状態であのおどろおどろしい姿になっていたものらしい。まことに不幸中の幸いだった。
そうして王太子マクシミリアンは、人の姿になった彼を城へと呼び寄せたのだ。
当然、「Zachariah」の名のままではまずい。その名はこの国では、あまりにも有名になりすぎている。それで男は文字列をあれこれと入れ替えて、「Ahchairza」と名を変えた。
王子はまず、彼を衛士の一人として召し抱えたのだ。
最初のうちは、はじめから彼を「自分の側近に」と望んだのだったが、ザカライア自身がそれを拒否した。
そうだ、忘れもしない。
彼はこの頬を両手で挟み、はっきりと「お断りする」とこの耳に囁いた。
あまりの返答に声を詰まらせ、王子は今にも子供のように泣きだしかけた。
だが、嗚咽をかみ殺し、俯いて肩を震わせはじめた王太子を、男は少し慌てたように抱きよせてこう言ったのだ。
『ひとの妬み嫉みというものは、一天四海のいずれにあっても恐るべきもの。わずかの火種をうかうかと見逃せば、やがて野火のようにして燃え広がり、国全土を焦土に変えることもある』
『人は必ず、それに足を掬われる。経験者が言うのだ、間違いはない。それゆえ、用心に越したことはないのだ。自戒をこめて申し上げるが、君主たらんとする者は、努々人の心の機微に疎くあってはなりませぬぞ』──。
それでようやく、王子も過去になにがあったかの一端を知ることになった。どうやらご先祖様は、このどこから見ても素敵な人に、どうしようもない嫉妬を覚えたものらしい。それも、無理はないような気がした。
ともかくも。
何をどう言っても無駄だった。決して説得などできなかった。マクシミリアンがしまいに泣き落としまがいの懇願をしてさえも、男は頑として自分の信念を枉げなかったのだ。
今ならわかる。結果的には、それが最良の選択だったのだと。
最終的にザカライアは、一応王城づきではあったものの、後ろ盾など何もない、ただの平民出の兵士として城に入ることになった。
理由はもちろん適当なでっちあげだ。
マクシミリアンが単身ふらふらと王城の外へ遊びに出かけ、道に迷った挙げ句に足をくじいた。それで困っていたところ、この男が偶然にも通りかかってお助けした。男は王太子を狙っていた暴漢どもを追い散らし、彼を城まで運んだ──と、いうことにしたわけである。
幸いにして、周囲の人々は少しも疑いを抱かなかった。その時分、側近の目を盗んでは日ごと夜ごと城を抜けだしては遊蕩してばかりいた王太子のことである。男は詮議されるどころか、逆に皆から大いに感謝されたぐらいのことだった。
『心配するな。いずれそなたの側に行く』。
『それも、誰にも後ろ指をさされぬ形でな』──。
ザカライアは、その後密かに王子にそう約束したのである。





